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「イメージ」が心の安定剤。

「イメージ」と聞いて皆さんはどんなニュアンスが思いつくだろうか。またはどんな場面で使うだろうか。

何かのシュミレーションをしたい時、自分の将来像を思い描いている時、何か妄想をしている時、などなど。

人によって使う場面は様々かもしれない。

そして最近気づいたことがある。

「あ、自分って想像以上に「イメージ」を大切にしているな」

ということに。

過去にこんな記事を書いていた。

簡単に上記の記事をまとめると、

・人はイメージの範囲でしか動けないよ
・野球部の時、プロの選手のプレー観て、イメージ大切にしてたよ

といったところだろう。

今回はもう少しこの「イメージ」を深掘ってみたい。


・・・

自分にとって「イメージ」とは何なのか。

一言でいうと「心の安定剤」と言える。

その「イメージ」は決して現実に起きるか起きないか、今の自分で出来るか出来ないかなどは正直関係ない

その状況を頭で思い浮かべることが出来るか、それだけが重要なポイントだ。

例えばプロ野球選手の真似だっていきなり出来るわけではない。出来ないけど頭の中でイメージすることは出来る。イメージの中の自分は「出来ている」。だからあとはそことのすり合わせ、という心持だ。

あとめちゃくちゃどうでもいい話だが、たまに歩道歩いている時に、

「もしここで車が突っ込んできたらどう避けようかな」

などと考えることもある。

(このタイミングでジャンプして、衝撃は○○で吸収して、△△で着地しよう!)みたいに。

もっと生産的なことを考えなさい、と突っ込みたくなるが(笑)。

イメージできているから、もちろん車に突っ込まれたくはないがある程度の準備は出来ているつもりだ。

準備が出来ているから、「じゃあそのためにどう行動すればいいか」もある程度予想はつく。

そしてイメージ出来ている=準備できている状態になると、怖さというものはなくなる。「イメージ」というものが安定剤になっているのだ。


その一方で、中には先が全く見えないものも存在する。

「これは今後どうなっていくんだ?」
「これをやることによってのいいビジョンがあまり見えてこない、、、」

そうなると急に心が貧しくなる。

途端に何をしたらいいのかわからなくなる。

よく「先の見える人生はつまらない。先が見えない方がワクワクする」といった言葉を耳にする。

私自身もこの意見には賛成である。すでに「決まっている」人生に面白さはあまり感じない。何が起こるかわからないからこそ面白かったりする。

だけど、”先が何も見えない”のもいかがなものかというところだ。

何だか周りに流されているだけで、そこに自分の意志がないというか、正しいのか正しくないのかわからないのに突き進むのは違和感もある。

たしかに最初から「これが正解」とは言えないのかもしれない。挑戦は成功するかしないかわからないことにも醍醐味があるのかもしれない。

でもある程度の勝算が自分の中であってこその”挑戦”だと思う。
”こうなってほしい”という未来予想図があってこその”挑戦だと思う。


こういう考えになる時点で、

「あ、自分ってよっぽど”イメージ”を大切にしているんだな」


そう考えると、こうやってnoteを書いて言語化しているのもイメージ作業の一環なのかもしれない。

単語や結果、状況というそれだけではすごく抽象的なものを、言葉を通じて紐解いていく。

言語化することで、その言葉が表す意味を創り出していく。「わからない」ものが「わかって」いく。


イメージとは準備だ

その準備は決して保守的な準備ではない。むしろより力強く進むための準備だ。行動や時間を無駄にしないための準備だ。

そして自分は凡人だ

なんでもかんでもパーフェクトにこなせる人間ではない。それは自分自身でもわかっている。むしろそれでよかったとさえ思っている。

凡人が天才と同じようにしていては勝てるわけはない。

だから凡人はめちゃくちゃ準備する。めちゃくちゃ準備するとは、めちゃくちゃイメージするということにつながる。

だから自分にとって「イメージ」が心の安定剤になっているんだと思う。


これからも、考えることには妥協をしたくない。むしろ考え続けることで自分は一歩、また一歩と力強く進むことが出来る。


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