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「優しさ」と「正しさ」の間に揺れる。

最初に保険をかけておくと、今日は綺麗に文章をまとめられる自信がない。

なぜなら今、揺れているから

流れるような起承転結を売りにしているのだが(自分で言うか)、今日はその強みを活かせないかもしれない。



いきなりだが、

「優しさ」ってなんだろう、って思う。

それはもう1回チャンスを与えることなのか、それともチャンスを与えた結果引き起こされるリスクを想定して逆にチャンスを与えないことなのか。

手を差し伸べることなのか、完璧に断ち切ることなのか。


「正しさ」ってなんだろう、って思う。

それは誰にとっての正しいなのか。誰を守る正しいなのか。その「正しさ」は本当に誰が見ても正しいものだったのか。

正直考えるとキリがない。


決して「優しさ」と「正しさ」が相反する位置づけにあるとは思っていない。なんなら連続しているときだってある。ただこの感覚を言語化しづらいのだが、今「優しさ」と「正しさ」の間で揺れている感じだ。

優しさは一歩間違えると”過保護”になり、正しさは一歩間違えると”冷酷”になる。


正しさは時に冷酷な印象を与える。

正論を貫き、対象を一刀両断する。相手の主観などは全くの無視。0か100かだ。こう見ると正しさは実に冷たい側面も持つ。

でもね、優しさの方が場面や使い方によっては実は危ないと思うんだ。

優しさは付け込まれる。感情に左右される。そして結果的に事が大きくなりかねない。主観の判断を優先することになり、そこに明確な線引きはない。

優しさはその場しのぎになっても、それが根本的な解決にはつながらない。

そもそもその場しのぎの「優しさ」は本当の優しさとは言えないのかもしれない。

正しさよりも優しさを優先すると、次第にそれは優しさの暴力になる。誰の基準かもわからない、明確な定義もわからない「優しさ」を押し付け合い、感情に揺さぶられる。そこに根拠は存在しない。


だから大切なのは正しさで。

でも人間どうしても情が湧いてしまったり、その先を考えたりでついつい「優しさ」という名の過保護が顔を覗かせる。

正しさを貫いた方がいいことをわかっていても、その場しのぎをしたいからついつい優しさを選んでしまう。そのあと首を絞めかねないということをわかっているのに。


ここまで考えても、結局「優しさ」とはなにで、「正しさ」とはなんなのかわからない。

今でも悩むことはある。

自分の判断が正しかったのか、優しさに走ってしまったのか。

一番難しい部分であり、一番妥協してはいけない部分。

自分の選択に少し後悔をしながらも、記事に残すことでその事実を客観的に捉え、モヤモヤを昇華するとともに今後につなげる。

意識したいのは、正しさの先にある優しさ。客観をもとにした主観。

それだけがすべてじゃないんだけど、大事な決断のときほどこの優先順位を意識したいな、って。


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