見出し画像

「動ける人に合わせた方がいい」

言葉を大事にしている自分にとって、普段何気ない会話やしっかりとしたミーティングなど、場面によらず誰かから発せられる言葉から何か吸収できるものはないか、「アンテナ」を立てているつもりだ。


そんな私のアンテナが最近反応した言葉。それが、

「動ける人に合わせた方がいい」

である。

どうして反応したのか、自分自身を深掘りしていきたい。


・・・


それはこんな話だった。

ある2人の方に同じお願いをした。片方の人はすぐに反応してくれて対応しようとしてくれている。その一方で、もう片方の人はなかなか反応がこない。

しかし2人に同じお願いをしており、まとめて進みたいのでなかなか進捗せず、どうしようかと悩んでいる状況。

そこに対して出てきた言葉が、

「動ける人に合わせた方がいい」

だった。

私はこの言葉を聞いて2つの捉え方が生まれるなと感じた。

・待っていてもしょうがないからガンガン進んだ方がいい
・動けていない人、動かない人を見捨てるのか

の2つだ。

前者。こちらはいい捉え方の視点。

待っているだけでは何も事はおこならない。時間だけが過ぎていく。1分1秒を争う今の時代に、生産性のない無駄な時間を投資するのはいかがなものか、といった感じだろう。

それならば動ける人で動いて、ガンガン進んだ方がいい、と。


しかしそうなってくると登場してくる議論が後者。「動けていない人を見捨てるのか」という視点だと思う。

動ける人だけを拾っていく世界になると、たしかに差が広がってしまう恐れはある。必ずしも全員が全員、常にすぐ動ける人ではない。

「どうせ動ける人だけが救われるんでしょ」

と半ばあきらめモードの人が生まれてしまう可能性もある。

少し解釈が違うかもしれないが、これは「格差問題」にも関わっている気がする。

お金があればあるほど、いい教育が受けられて、お金がないとその土俵にすら立てない。そうやって溝はどんどん深くなっていき、より大きな格差が生まれる。

かといって、言葉を選ばずに言うと「下(動けない人)に合わせていていいのか」というとその組織が生ぬるいものになってしまいかねない。傷のなめ合いになってしまいかねない。上の人たちのモチベーションが下がってしまい、全体としてレベルが落ちてしまいかねない。

厳しい見方かもしれないが、「競争社会」である以上、「資本主義」である以上この捉え方は避けられない部分だと感じる。



少し話がそれてしまったので、話を「動ける人」「動けない人」に戻す。

どっちも見捨てたくはない、だけど遅い方に合わせている余裕はない。そんな「葛藤」というブランコに揺られながらどうするのが最善か考えてみたところ、

「動ける人に合わせ、そのうえで動けていない人を巻き込んでいくのみ」

なのかな、と。


動ける人に合わせることで、話は展開は事の状況はしっかりと進めておく。そのうえで動けている人を引き合いに出しながら、動けていない人が動きたくなる、もしくは動かなきゃと思える要素を与えていく

綺麗事かもしれないけど待っていても動かないし、見捨てるのはよくないのだから巻き込んでいくしかない。自分が出来ることで目を向けていかんと。


・・・

だからタイトルに載せた言葉って実は一見冷たいようで、そして一見他人任せなようで実は一番自分にプレッシャーをかけていると思っている。

だって結果的に誰も取りこぼさないうえで、動ける人に合わせることで全体のレベルも上げていくんだから。


この考え方は見方によっては「生き急いでる」とみられるかもしれない。


かつての自分は「そんなことないよ」と思っていた。だけど今は少し考えが変わった。

何かに追われて焦って行動しての生き急ぎはしたくない。
だけど自分がやりたいと判断して、その方がいいと判断して選んだ「生き急ぎ」はガンガンやっていきたい。


生き急ぎ上等だ。

いつ終わるかわからない人生に、あぐらをかいている時間はない。

この記事が参加している募集

今後の記事の質向上のための資金として使わせていただきます!