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「よく考えるっていうのは、相手のことをリスペクトしてるってこと」

束の間の休日に、読書をして過ごしていた。

今絶賛読んでいるのは「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2」。

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もともと1作目も読んでとても勉強になった本で、書店で本を流し見していたら偶然見つけたので買った。

まだ全部は読み終えていないのだが、途中にも「ハッ」とさせられるような表現を見つけた。それが、

「誰かのことをよく考えるっていうのは、その人をリスペクトしているってことだもんね」

という表現。

言っていることはめちゃくちゃ大事なことだし、言われれば「確かに」とはなるけど、案外抜け落ちていた視点だな、と思った。


「考える」ってなんだろう、「リスペクト」ってなんだろう、と思い出すとドツボにハマっていきそうな気もする。だから例を挙げてみたい。

わかりやすい例が「海外のお寿司」

日本食であるお寿司へのリスペクトは高く、海外でも真似しているところが多い。だけどその真似が凄まじい。もちろん中には日本のお寿司を忠実に再現してつくられているものもある。その一方で、「え?これお寿司?」というものもある。

カリフォルニアロールがかわいく見えるくらいに。

リスペクトって対象の上澄みを救って、土台となる部分を真似してあとは自由にやるということではないと思う。自由にやるとしても、それは最終段階であって守破離の「守」をとばしていきなり「離」にいっているようなものだ。


つまりよく考えるって上澄みを理解することじゃなくて、常にその先まで理解しようとすることなんだと思う。知ろうとすることなんだと思う


わかりやすい例で考えてみたのだが、これって「対人」でも同じことが言える。

本当に大事にしたい人だったり、好きな人だったり、それこそリスペクトしている人に対しては、めちゃくちゃその相手のことを考えている気がする。相手にどうすれば振り向いてもらえるか、どうすれば近づけるかなど。

だから相手のことを分析して、特徴を掴んで、情報を押さえて知ろうとする。


だけどそこまでまだ関心がない人であったり、知らない人、苦手な人に対しては、そこまで深く考えているかと聞かれると自信を持って「はい」とは言えない。

考えているつもりでも、前情報であったり勝手なイメージであったりを押し付けて、その枠組みで相手を見ている気がする。相手のことを考えるのを面倒くさがっている気もする。

”でもそれって、リスペクトしていないってことじゃない?”

上記の言葉はそんなことを教えてくれている気がする。そしてこれは社会問題やもっと言えば自分の地域で起こっている問題にも同じようなことが言えるのではないか、と思う。

考えるって相手のこと、対象のことを真剣に考えて自分の目で確かめてそれを自分の中で解釈してアウトプットすることじゃないか、って。




ここまでは「理解する側」の話だった。

でも「理解してもらいたい側」も、とれる行動はある

理解してもらいたい側も、「理解されない」ということに慣れてしまうと”諦め”を持ってしまう人もいると思う。

「どうせ理解してもらえないんだから、深く干渉する必要ないな」

って。

理解されないことが当たり前になるとこれも至極当然。

だけど中には諦めない人もいる。わかってもらおうと動き続ける人もいる。別にこれに関してはどっちが正解、はないと思う。各々がその対象に対してどういった目的を持っているかによって、とる動きは変わってくると思うから。


前者であれば、自分が信じていることを貫き通せばいい。
後者であれば、相手に知ってもらおうと求めなければならない。そのために動かなければならない。

「何か認知度を上げたい」「○○の常識を変えたい」という場合は、断然後者だ。自分が知ってもらうことを諦めてはいけない




好きな人もいれば嫌いな人もいる。だけどリスペクトは忘れたくない。好きでも嫌いでも何か一つはその人から学べるものを盗みたい。だから自分は目の前の相手のことを真剣に考えたい。

そして自分が「知ってもらいたい!」と思うことに対しては、伝えることを諦めたくない。そのために策を考え続けたい。


また一つ、本の文章から今後の行動の軸になる言葉を学んだ。

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