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言葉に足元をすくわれないように

こんだけnoteを書いて、
やれ「言葉は大事」だとか「言葉を紡ぐ」とか言っている人間が、
今からちょっと矛盾しているようなことを言うが、

言葉への距離感、って注意したい。

言語化という作業に注目が集まり、
言葉に出来ることの価値が高まりつつある。
言葉で相手を巻き込んでいく、言葉で共感を集める。

優れた人材はスピーチが上手いともいう。

だけど忘れちゃいけないことがある。
言葉って良くも悪くも「言葉」だ。
そのものを証明することは出来ない。

人って平気で嘘をつく。
自分の都合のいいように言葉を並べる。
お前何かあったのか、というような内容だが
何かあったこともあるし、実際そういうものだとも思っている。

言葉ではなんとでも言うことが出来る。
もちろん思っていないと言えないことではあるが。

言葉にばかり注目して、言葉に依存をしてしまうと、
言葉に足元をすくわれてしまう。

しかも何も罪がない人たちの方が、だ。

やっぱり私たちは「行動があってこその言葉」というスタンスをわすれちゃいけないと思う。もしくは「言葉に近づくための行動を」というスタンス。

一番悪いのは噓をつくやつだ。
それは言うまでもない。

だけど嘘をついて騙されたとして、騙された側の気持ちは誰が回収してくれるのか。誰も回収してくれない。

「信じていたのに、、」

と言うことは出来るけど、悲しいかな結果その言葉は宙に浮いたままになってしまう。

これを防ぐためにも、言葉と対相手に適切な距離感を持たなきゃいけないと思っている。

自分が大切にしているスタンスとして、
言葉は行動に温度を与えてくれるものであり、行動を翻訳してくれるものだ。というか、そのように使いたいと思っている。

自分がいい思いをするためじゃないし、誰かをだますためじゃない。

だから私自身の行動が見えてくる言葉を紡いでいきたいと思うし、誰かが言う言葉にもその背景にどんな行動が見えるかで中身があるのか判断したい。

やっぱり自分のことは自分で守っていくしかないから。


そんなことを言いながらも、自分の中でもう1つルールがある。
それは、「この人になら最悪騙されていたとしても許容する」というケースがあること。

もちろんそんなお人よしではないから、「誰に対しても」というわけじゃない。様々な場面で関わっていく中で、時間を一緒に過ごしていく中で、その人の人間性や行動を見て、

「この人なら信じていいな」

と思える人がありがたいことに何人かいる。

そういった人たちに対しては、

「たとえ騙されていたとしてもそれも受け止める」

という気持ちで何かすることがある。自分が心から信頼している人たちだから実際騙されていることなんてないのだが、気持ちの上ではそれくらいの気持ち。

もしかしたらやっぱりお人よしなのかもしれない。
それでもその人を見る目として、自分が信じたいと思ったんだからそこに後悔を持つことはない。それもこれも、その人の”行動”を見てきたからそう判断したわけで。


言葉はすっごく大事だし、いろんな表現が出来た方がいい。
だけどそこに依存しちゃいけない。そこだけで判断しちゃいけない。

あくまでそれは付属品だから。

発信をしている身としても、そこのスタンスは忘れずにいたいな。

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