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悔しくて嬉しい「負け」。

昨日こんな記事を書いた。


自分のnoteを書く際のポリシーの一つに「今感じたことを書く」ということがある。

その方が言葉に重みがあるから。熱量があるから。

ここまで書いたということは、もうおわかりいただけただろうか。そう、昨日noteを書いている時点で緊張することがあったということを意味する。

それはなんなのか。

今日は社内で新入社員のプレゼン大会があった。
それで昨日はめちゃくちゃ緊張していたのだ。
本気になって準備したからこそ。

その緊張を何とか肯定的に捉えようと書いたのが昨日の記事ということだ。


テーマは自身の入社ストーリーと会社を語るプレゼン。

自分の人生を丸ごとコンテンツにしたいという思いを掲げているため、いつかこのnoteでも一部共有したいと思う。


結果から言うと9人中3位だった。

3位という結果は確かにすごく悔しかった。本気になって1位を目指して準備をしてきた。そこに妥協はなくて、勝つための準備をして練習をしてそして臨んだ結果が3位。

だから悔しい。

でもその悔しさにはどこか達成感と嬉しさもあった

まずは自分がベストを尽くせたということ。

何かに課題や物事を行って一番悔しいのって、後悔するのって、

「うわぁ~、自分の力出せなかったぁ」

だったり、

「あのときもっとこうしておけばよかったぁ」

といった感情だと思う。

自分ならもっと出来たのに、出来るはずだったのに出来なかった。それが本当にそうできるとは限らないのに。


しかし今回の私に関しては、シンプルに力を出し尽くしたと思っている。今持っている自分のベストを出せたと思っている。

そしてその力量が単純に1位になるには足りなかったということ。

でもこれって負け方としては最高な負け方だと思う。

決して負けることを肯定しているわけではない。根っこは負けず嫌いだから、結果に関してはめちゃくちゃ悔しい。

だけど「もし~だったら」といった不確定要素を理由に、負けた原因と真剣に向き合わないのだったら、そこから次もまた同じ失敗をする気がする。

一番危ないのは失敗を失敗だと気づかないこと。


自分のベストを尽くしたうえでそれでも負けた、それだったら単純に自分が「足りなかった」だけであり、次に向けての改善策が見えてくる。

結局成長できるかどうかって、目の前のことをいかに本気で取り組み、その時その時でベストを出し続けられるかだと感じた。それが失敗でも成功でも。

今回の自分で言えば、noteで鍛えられたストーリー構築という部分では上手くいったが、データやデザインで見せる「説得力」や「緻密さ」という部分で課題が残った。

そのことに気づけたのも「これが自分のベストだ」と思ってつくった作品以上に、さらに洗練された作品があることを知ったから。

負けを知ったから足りなさに気づけた、という感覚。


もう1つの悔しさにある嬉しさは、近くにすごい仲間がいるなということを改めて知れたこと。

シンプルにその人の発表を聞いて、

「すげーーー!!」

洗練されたデザイン、文章、プレゼンスキル。きっとそこにはセンスだけでなく膨大な量の準備と練習があったんだろうな、ということを感じさせられる内容だった。

プレゼンを聞いている段階で思わず、「すげー」と声が出てしまったし、笑いがこぼれてしまった。

そして改めて。自分が今いる環境は恵まれているんだなと感じた。


そんなにすごい人と切磋琢磨出来る環境にいる。


そして思った。

「自分がもっとその人に刺激を与えられる存在になれば、もっとお互い高め合ってよりレベルアップできるな」

と。

だからこそ立ち止まっている余裕はない。

常に自分はチャレンジャー。ベストを出し続けなければいけない。そしてそのベストを更新し続けなければならない。


今日感じたこの悔しさと嬉しさを胸に、また精進していきたい。





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