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ヒトは進化の産物だが、遺伝子の奴隷ではない


私たちヒトは動物の一種であり、進化の産物です。他の動物種と同様に、私たちは遺伝子の「乗り物」であり、その行動は遺伝子を次世代によりうまく伝えるように進化してきたのでしょう。とはいえ、私たちは遺伝子の奴隷ではありません。自殺や避妊、同性愛などにみられるように、現代人はしばしば遺伝子の利益にそぐわない振る舞いをすることがあります。私たちが遺伝子の「乗り物」だとしたら、なぜ、いつから私たちはそこから逃れ、自分たちは「自由」だと考えるようになったのでしょうか。遺伝か文化かという不毛な二項対立を避け、科学的な視点から、ヒトが「利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できる」(註1)ようになった理由を考えてみましょう。

1. ヒトは進化の産物である

1.1. そもそも進化とは何か

 私がいつも違和感を覚えるのが、世間一般に、ヒトと対比させるためにヒト以外の動物のことを「動物」と呼ぶことです。なぜなら、私たちヒトも動物の一種だからです。例えばイヌとイヌ以外の動物を区別するときに、イヌは「イヌ」、イヌ以外の動物を「動物」とは呼ばないですよね。とはいえ、たしかにヒトは他の動物と比べてかなり変わっています。
 最近、私たちからみて奇妙だと思える動物を「へんないきもの」とか「ざんねんないきもの」と称して面白がることが流行っているようですが、私に言わせるとヒトこそが変な生き物です。私たちのようにまっすぐ立って二本の足で歩く動物は他にいないし、自分から世界中のあらゆるところに広がっていった動物も他にいません。とはいえ、私たちは他の動物と同じく細胞の塊だし、細胞をつくる遺伝情報も同じ塩基によってコードされています。間違いなく、ヒトは他の動物、ひいては他のすべての生物と同じ祖先をもっているのです
 ではなぜ、直立二足歩行のように、種、つまり集団ごとにある特徴を備えるようになるのでしょうか。ひとつの要因として、偶然があります。まず、遺伝子には突然変異が起こります。遺伝情報とは要するにDNAの塩基配列のパターンなのですが、DNAがコピーをつくる際に、偶然の要因によってミスが起こることがあり、その結果として塩基配列が親のものとは異なることがあります。このようにして、様々なタイプの遺伝子ができることになります。話を単純にするために、体の色を赤にする遺伝子Rの一部が、突然変異によって青にする遺伝子Bに変わったとしましょう。ある集団が少数でどこかに移住し、他の集団とは隔離されてしまうというようなことが起こったとき、たまたまその集団にBが多いということがありえます。このような偶然による遺伝子頻度の変化のことを「遺伝的浮動」といいます。ただ、これは体の色が赤かったり青かったりすることが、遺伝子のコピーの程度に影響しない場合に限られます。もし、体の色が遺伝子のコピーに影響を及ぼすのなら、遺伝子頻度はそれによって左右されるでしょう。それが、自然淘汰(自然選択)です。
 自然淘汰理論とは、遺伝子に起こる偶然の変化によって個体のあいだにばらつきが起こるが、そのなかで他の個体よりも次世代により多くの遺伝子を残せるような特徴が残っていくはずなので、最終的に、生物の特徴はある環境においてうまく生き延び子どもを残せるようなものになっていくだろう、という理論です。別の言い方をすると、他のタイプよりもよりコピーを効率良く残せるような遺伝子の方が、集団内でより頻度を高くするだろう、ということになります。先ほどの例でいうと、たまたま体が青い個体の方が赤い個体よりも捕食者に襲われにくいとか、病気に罹りにくいということがあったとすると、RよりもBの方がより次世代で増えるだろう、ということです。
 さて、こういった進化の進み方を、何らかの法則として記述することはできないでしょうか。そこで提唱されたのが、プライス方程式です。プライス方程式については、別の記事で詳しく解説しているので、そちらを参照してください(1)。

1.2. 自然淘汰の単位は遺伝子である

 自然淘汰による進化を理解するうえで重要なのが、淘汰がかかる対象は個体だが、そこで選ばれて次世代に伝わるのは遺伝子だ、ということです。進化と自然淘汰を正しく理解していない人は「種の存続」という言葉が大好きですが、残念ながら自然淘汰で選ばれるのは「種」ではありません
 自然淘汰の単位は個体でも集団でもなく、遺伝子であるという考えを明確に打ち出したのはジョージ・ウィリアムズの「適応と自然選択」(2)でしたが、このいささか難解な本の内容を、同じ時期に勃興していた血縁淘汰理論や進化ゲーム理論と合わせて巧みなレトリックで分かりやすく解説したのが、1976年に初版が刊行されたリチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」(3)です。ドーキンスはこの本において、遺伝子中心の視点というものを導入しました。選択されて次世代に伝わるのは遺伝子なので、個体は遺伝子がコピーされやすいようにデザインされている「乗り物」として捉えられる、というわけです。もちろん、遺伝子は単なる塩基の配列でしかなく、何らかの意思があって個体をデザインしているわけではありません。前述のように、偶然の変化によるばらつきのなかから、たまたまある環境において他の形質よりも次世代に伝わりやすい形質に関わっている遺伝子が自然淘汰によって選択されてきた結果、個体の形質があたかも遺伝子のためにデザインされているようにみえる、というだけのことです。現在では、このような遺伝子中心の見方が進化生物学においては常識となっています
 もうひとつ、自然淘汰において重要なのが、基本的には場当たりに働くものであり、最終的にどうなるのかは誰にも分からない、ということです。私たちヒトは、ある目的を達するために計画を立て、それを手順に従って実行することで環境に対応してきました。そのせいか、物事を目的論的に捉えるバイアスがあるようです。進化についても、最終的に何かの到達点に向かっているとか、変異がある目的に従って起こるとか、あるいは進化には何らかの意味があるのだといったイメージを抱いている人は少なくないようです。それが、進化イコール進歩という誤った理解にもつながっているのでしょう。実際、自然淘汰はシンプルですが非常に強力なメカニズムであり、結果としてあたかも誰かが設計したような、複雑で機能的な形質を生み出すことができます。そのため、創造説ではすべての生物は神がデザインして創りだしたとされていました。こんな複雑で機能的なものが、意図的ではないかたちで出来上がるとは思えないではないか、という創造説の主張は、たしかに説得力があります。しかし、残念ながら進化はそのようなものではありません。前述のように、そもそも遺伝情報のばらつきは突然変異という偶然の変化によって起こります。また、遺伝子頻度の変化もすべてが自然淘汰によるものではなく、当然ですが自然淘汰が働かないものもあります。そのような遺伝子については、前述のように遺伝的浮動という偶然の要因によって頻度が変化します。複雑で機能的な形質を生み出すことができる自然淘汰も、その時々の環境において相対的に適応度の高い形質が選ばれてきた結果であり、基本的には場当たりなものです。

1.3. 行動生態学と進化心理学

 行動にも遺伝的な基盤があり自然淘汰が働くので、動物一般について、ある環境のもとでどういう行動をすれば適応度が上がるのか、つまり「最適な」行動は何か、ということが予想できます。別の言い方をすると、動物は、ある環境のもとで最も適応度を上げられるような行動をするように進化しているはずだ、ということです。そこから行動のモデルをつくって、それを実証データで検証しようというのが行動生態学という分野です。ヒトもまた動物の一種であるので、行動生態学の対象にはなりえます。しかし、アフリカという限られた環境で進化したホモ・サピエンスは、約10万年前から世界中の様々な環境へと拡散し、多様化していきました。果たして現代の特定の人類集団を、典型的なホモ・サピエンスとしてみなすことができるでしょうか。また、行動をみることで遺伝子の適応を推測するのが行動生態学の手法ですが、具体的に行動を起こすのは心理メカニズムであり、ヒトの場合はこれがかなり複雑化しています。行動生態学の手法を単純にヒトに当てはめるのには無理があるわけです。そこで提唱されたのが、進化心理学です(4)。
 進化心理学は、従来の心理学と同様に、行動の起きるメカニズムを対象とします。ただ、そのメカニズムには適応のための機能が反映されているだろう、という視点をとります。では、そのメカニズムが何に対する適応なのかというと、「進化的適応環境」であると仮定されています。進化的適応環境として想定されているのは、具体的には約180万年前から約1万年前の更新世において人類が暮らしていた環境です。約1万年前に農耕牧畜が始まり、それを基盤として文明が築かれたことで、人類を取り巻く環境と生活様式は激変しました。しかし、1万年というのは心のメカニズムが進化するには短い時間なので、ヒトの心は農耕牧畜以前の環境に適応してそのメカニズムができている可能性が高いわけですね。進化的適応環境においてヒトが直面した課題から、心のメカニズムについて予想が立てられます。それを調査や実験によって検証していこうというわけです。なぜか誤解している人が多いのですが、このように、進化心理学は行動の適応度を直接測定しているわけではありません。他の心理学分野と同様に、あくまで心のメカニズムを調査や実験により検証しているだけだということをよく理解してください(5)。

1.4. 進化心理学の研究例

 私たちの研究室で行われた研究の例を挙げましょう。前述のプライス方程式から、利他行動が進化する条件として「正の同類性」が導けます(これについても(1)を参照してください)。プライス方程式を拡張すると、集団間の分散は大きく、一方で集団内の個体間の分散は小さい方が、利他行動は進化しやすいということが分かります。集団間の分散は大きく、集団内の個体間の分散は小さいというのはどういうことかというと、集団内の形質のばらつきが小さいということなので、形質の程度、つまり利他性が似たものどうしが集まって集団を形成しているということです。ヒトは他の種に比べて高度な利他性をもっており、血縁ではない間柄でも協力関係を築くことができることから、利他性が高い人どうしで集まっているという状態を保証するための心のメカニズムが、適応によって備わっていると考えられます。そこから私たちは、ヒトは他者の表情や身ぶりを見ただけで、その人がどれくらい利他的なのかということをある程度正確に判断できるということを実験によって明らかにしました。どうやら目の周囲の筋肉の動きによって判断しているようなのですが、これは、正の同類性を保つための適応ではないでしょうか(6-8)。このように、ヒトの心にある淘汰圧がかかったとしたら、どのようなメカニズムになっているだろうかという仮説を立て、それを検証するのが進化心理学です。具体的にどのような淘汰圧があったのかについては、過去のことなので厳密には分かりません。もちろん仮説が支持されないこともあるでしょう。しかし、様々な可能性について実証的に検証していくことで、私たちの心についての理解がより進んでいくわけです(9)。

1.5. なぜ環境破壊や少子化が起こるのか

 現在、地球温暖化が人類にとっての大きな問題となっています。その主な原因は、産業活動による二酸化炭素やメタンといった温暖化ガスの排出であると考えられていますが、持続可能エネルギーへの転換は遅々として進んでおらず、地球の気温は上がり続けています。これは人類にとっての自殺行為といえるものですが、なぜ、ヒトは自らを滅ぼすようなことをしているのでしょうか?
 進化心理学からみた環境問題については、ずいぶん前に「ヒトは環境を壊す動物である」(10)という本で考察しましたが、おそらく進化的適応環境と現在の環境とのずれが、このような事態を引き起こしていると考えられます。進化的適応環境がどのようなものであったのかということについては、なにしろ過去のことなので詳しいことは分かりません。ただ、今のように工業化された大規模な社会は無かったことは明らかです。おそらく血縁を中心とした今よりは小さな集団をつくり、自然の植物を集めたり、動物を狩ったりして食糧を得ていた、つまり狩猟採集生活をしていたことでしょう。前述のように、私たちの心の基本設計は、この狩猟採集生活において直面した様々な問題を解決するようになっている、といえます。ではそれはどういう問題だったかというと、短期的かつ具体的なものだったと考えられます。なにしろ、今日いますぐ食物を得て生き延びないと明日はない、という生活だったわけです。ということは、ヒトは長期的かつ抽象的な問題を解くようには進化していないのではないかということがいえます。しかし、約1万年前の農耕牧畜の開始、さらにその後の産業革命により、ヒトは地球規模で自らの環境を変えられるようになりました。産業革命に端を発した化石燃料の使用により温暖化が進んだわけですが、地球温暖化は長期的かつ抽象的な問題です。なにしろ二酸化炭素が増えている、と言われても目には見えませんし、気温の上昇も非常にゆっくりとしたものなので、例えば海水温が100年間で1℃上昇したといわれても全く実感がありません。そんなことよりも、工業化が進んで豊かになり、便利で安全な暮らしができる方が大事ですよね。かくして、地球温暖化は進行していきます。
 少子化も、適応という観点からみると不思議です。私たちが遺伝子の「乗り物」なら、なぜ産めよ増やせよ、ということにならないのでしょうか?おそらく、これもまた進化的適応環境と現在の環境とのずれによるものなのでしょう。まず大事なのが、人類全体としては人口が増え続けているということです。実のところ、少子化が起こっているのは一部の人類集団だけなのですね。それがどういう集団かというと、工業化によって豊かになった国や社会の人たちです。例えば中国では1979年から2014年まで「一人っ子政策」と呼ばれる産児制限政策が実施されていました。当時は人口が増えすぎて食糧が足りなくなると考えられていたわけですね。ところが、この政策が廃止されて以降も、中国の人口は増えておらず、むしろ減少期に入っているそうです。おそらく背景には急速な経済発展があるのでしょう。
 少子化の生物学的な要因としては様々なことが考えられていますが、ひとつには、産業が高度化するとそれだけ労働も高度化し、技能を身につけるのに時間や金銭的なコストがかかるということがあるのでしょう。一人前になるのが遅くなれば、それだけ繁殖にかかるのも遅くなります。また、子どもを一人前の労働者に育て上げるのにも時間やお金がかかることになります。当然の結果として、一人が一生のうちにもてる子どもの数は減ることになるでしょう。つまり、適応すべき課題が過去の進化的適応環境とは異なっているので、当然それに対応するやり方も異なってきているということです。
 もちろん、様々な避妊の方法があり、子をもつことを自分でコントロールできてしまうことも、少子化の原因のひとつです。避妊以外にも、自殺や同性愛のように、自然淘汰による適応という視点からみて、一見説明不可能であるような行動がヒトにはみられます。例えば自殺は自分自身を殺してしまうわけですから、明らかに適応度を下げてしまいますよね。ヒトの行動に自然淘汰が働いているのなら、なぜ私たちは自分で自分をコントロールし、適応度を下げるような行動をすることができるのでしょうか?

2. ヒトは遺伝子の奴隷ではない

2.1. 遺伝子による2種類の制御

 ヒトが必ずしも遺伝子の利益のために行動しないことについて、キース・スタノヴィッチは、人間の情報処理は「TASS(The Autonomous Set of Systems)」と「分析的システム(Analytic Systems)」という異なるふたつのシステムからなっているという二重過程モデルによって説明しています(11)。
 TASSは、特定の目的を遂行する脳内の自律的・並列的なモジュールで、処理スピードが極めて高く、動作は通常意識されません。他方、分析的システムは連続した情報処理、集権的実行コントロール、意識的で広い範囲にわたる役割を果たす動作を担い、処理スピードは遅く、その目的は一般的で特定されていません。TASSはヒトにかなり普遍的にみられるシステムで、遺伝子のコピーという目的のために進化してきたと考えられます。一方、分析的システムはこれに比べると個人差が大きく、どちらかというと個体の利益のために働いているシステムであるといえるでしょう。
 これらのシステムの特性について、スタノヴィッチは火星探査機を例に挙げて説明しています。例えば遠隔操作で火星を探査するロボットを造ろうとすると、いちばん単純な方法は地球から電波を送ってリアルタイムで遠隔操作するということになるでしょう。スタノヴィッチはこれを、short-leash(短い引き綱)型の直接制御方式としています。しかしながら、火星は地球からかなり遠く、電波が届くには数分かかってしまいます。直接操作していると、何か不測の事態が起こってしまったときには対応できないこともありえます。そうなると、リアルタイムで操作するのではなく、探査機に自分で意思決定をさせて、ある程度自由に振る舞わせた方が合理的になるでしょう。こちらの方はlong-leash(長い引き綱)型の制御方式とされています。
 自然淘汰が働くと、生物はあたかも誰かが設計して造ったようになるので、この火星探査機の例は遺伝子と個体の関係についても当てはめることができます。個体があまり変化のない環境におかれるのであれば、遺伝子は個体の行動をある程度「造り込んで」おけばいいわけです。これはshort-leash型の制御と対応しています。しかし、もし環境の変化が激しく、予測できないことが多ければ、long-leash型の制御にするべきでしょう。スタノヴィッチはこれについて、遺伝子の視点からこう述べています。

「脳よ、外の世界は変化が速すぎて、事細かに指示をすることができない—だから、われわれ(遺伝子)がつくり込んでおいた一般的目的(生存、有性生殖)に照らして、最適な行動をとりなさい」

(邦訳29頁)

しかし、目的があまり一般的になると、遺伝子にとっての利益と個体にとっての利益が一致しないという事態が生じることになってしまいます。スタノヴィッチはこれを、避妊手段を講じたうえでの性交という例を挙げて説明しています。性交は快楽を伴うので個体の利益にはなりますが、遺伝子は次世代に伝わらないので、遺伝子にとっての利益にはなりません。

2.2. なぜ知能が進化したのか

 スタノヴィッチと同時期に、同じような主張をしたのがディビッド・ギアリーです(12)。ギアリーは、知能は生存と繁殖にかかわる資源をコントロールするために進化した、と考えました。ヒト以外の種の場合、コントロールの対象となるのはなわばりや食物といった物理的・生態的資源です。しかしヒトの場合は、道具使用などの技術により生態的要因を支配することが可能になりました。そこで重要になってきたのが、その支配した資源を同種のあいだで争うのか、それとも分け合うのかという、社会的な要因だったというわけです。その影響については、後で詳しくみていきます。
 では、知能が処理しなければならなかった情報はどのようなものかというと、世代間で、あるいは一生のうちに変化しないようなものと、変化の激しいものがあったでしょう。前者については素早く処理できるようなヒューリスティクスが進化し、後者のためには可塑的な情報処理が進化したとギアリーは考えています。これは、スタノヴィッチのshort-leash型とlong-leash型という考えと同じですね。その可塑的な情報処理のためにあるのが「自己理知的メンタルモデル」です。ギアリーによると外部環境を脳内でシミュレーションできることが重要であり、ヒトは外部環境を表象したモデルを心のなかにつくりだし、そこに現在、過去、未来の自己を取り込むことで変化する環境に適応しています。さらに、ギアリーは知能研究において一般流動性知能(g因子)といわれるものが、この自己理知的メンタルモデルと関連していると考えています。
 このように、提唱されるモデルの詳細は研究者によって異なりますが、主に社会的な環境に適応するために資源をコントロールする必要があり、そのために脳内でシミュレーションができるようになった、というのがヒトの進化において起こったことだと考えられます。しかしながら、この機能はヒトを遺伝子の奴隷という立場から解放するものでした。コントロールできる能力があれば、妊娠のしくみについて理解することもできるでしょうし、妊娠を避けて性的な快感だけを得ることも可能になります。その結果として、避妊のような適応度を下げる行動も可能になったのでしょう。

3. 遺伝子の軛から逃れる

3.1. 社会という淘汰圧

 さて、ではヒトはいつから分析的なシステムを獲得したのでしょうか?このような柔軟な情報処理が必要とされる変化の激しい環境はおそらく「社会」だったというのが、ギアリーの考えでした。社会が形成されるためには、まず集団ができなければなりません。ヒトに限らず、動物が集団を形成することの適応的な意義としては、ひとつには捕食されるリスクが下がる、ということが考えられています。自分一人のところに捕食者が襲ってきたら食べられてしまうのは自分ですが、二人でいると確率は半分になりますよね。三人だと3分の1です。また、群れることで複数の個体による監視が可能となり、捕食者を早く発見できます。もうひとつの意義は、同種他個体の集団との争いに勝てるということです。食物などの資源が集中しているときには、複数人数で協力して防衛すると有利になります。他にも、繁殖相手の確保や情報の共有といった利点が考えられています。
 東アフリカのサバンナに広がっていった初期の人類は、大きな牙や爪もなく、速く走ることもできない無力な存在でした。その人類にとって、適応の手段となったのが集団だったと考えられます。では最初期の人類は、どのような集団を形成していたのでしょうか?これまでの伝統的な研究では、特定の化石人類種と重要な形質を共有する現生種、具体的にはチンパンジーやヒヒなどについて、同じ生態や社会組織をもつと仮定し研究することにより、過去を再現するという手法がとられてきました。しかしながら、同じ種のなかでも、その生態は個々の環境によってかなりの多様性があります。そこでロビン・ダンバーらは、生物全てにとって共通の資源である「時間」に着目しました(13)。霊長類は特定の生息地で生きるために、採食、移動、休息、社会的コミュニケーションといった主要な活動に日中の時間を割り振っています。「時は金なり」ではありませんが、たしかに時間は誰にとっても同じだけ割り振られている、限りある資源ですよね。
 もうひとつ着目したのが社会脳仮説です。霊長類においては、大脳新皮質の割合と群れの規模とのあいだに正の相関があり、脳の大きさから群れの規模を推測できます。するとその規模の群れにおいて社会的コミュニケーションに費やさなければならない時間が推測でき、また脳を維持するために必要な採食時間も推測できるわけです。時間は有限なので、それらをどう配分するかということが初期人類にとっては大きな問題でした。初期人類の頭蓋容量を社会脳仮説の回帰式から推測すると、アウストラロピテクス属とパラントロプス属の群れの大きさは50個体程度であったようです。ヒト属(ホモ属)になると頭蓋容量は大きくなりますが, 初期のヒト属において約80個体、ホモ・サピエンスでは約150個体となりました。ただ注意しなければならないのは, これはあくまで「認知集団」についてのものだということです。つまり、常に一緒にいるわけではないけど、互いに顔見知りで長期に渡る付き合いのある集団だということです。いずれにせよ、ヒト属の出現あたりから、ヒトはかなり大きい集団を形成するようになったようです。

3.2. 文化進化と集団サイズ

 大きな集団を形成することによってもたらされたのが、高度な文化です。ヒトの文化が他の動物のものと異なるのは、それが累積的に進化する、つまり、一方的かつ不可逆的に複雑さが累積していくというところです。なぜ、ヒトだけがこのような文化をもつことができたのでしょうか。要因は二つあり、ひとつは高度な社会的学習、なかでも過剰模倣と教示行動つまり教育です。もうひとつが集団サイズです(14)。文化が発展していくためには、ある程度の大きさの集団がないとダメだということが、実験や調査から示されています。
 例えば太平洋には多くの島が点在していますが、それぞれの島で生活している集団はある程度孤立しているので、他の集団からあまり影響を受けず、独自に文化が進化すると考えられます。そこである研究では、それぞれの島の集団の大きさと、かれらにとって大事な文化である漁労用具の多様性との関係が調べられました。その結果、集団のサイズが大きいほど、そこで使われている漁労用具の種類数が多いということが明らかになりました(15)。また人類進化の過程においても、サピエンスとネアンデルタールは同じような脳の大きさだったにも関わらず、ネアンデルタールの使っていた石器がほとんど変化しなかったのに対し、サピエンスは同じ時代に投擲具などの新しい道具をつくり出していました。これにも、集団サイズが影響したのではないかという説があります。ネアンデルタール人が比較的小さな集団に分かれて孤立していたのに対し、サピエンスの方はより大きな集団で生活していたので、より高度な文化を生み出すことができたのではないかというわけです。
 大きな集団の形成と、それに伴う社会の複雑化はヒトに高度な文化と繁栄をもたらしました。しかし、一方でその社会がヒトにとっての、適応しなければならない環境になったわけです。私たちは「環境」というと地理や植生、気候などを想像しがちですが、実はある個体にとっては、周囲の他の個体も環境要因なのです。自然環境はそんなに素早く変化するものではありませんが、周囲にいる他者は自分と同じくらいの知能をもち、それぞれが生存と繁殖のために行動しています。そのなかで、どのように資源を分けあったり争ったりするのか、また誰と協力し、誰と対立すべきなのか。これこそが、可塑的な情報処理によって対応しなければならない、変化の激しい環境だったのでしょう。おそらく、そこで「自己」というものに変化が起こったのだと考えられます。

3.3. 自己とは何か

 ドーキンスが言うように、多細胞生物の個体は、クローンであるそれぞれの細胞が完璧な協力体制によってまとまっているものです(3)。環境と相互作用することで淘汰圧がかかるのは主にこの個体なので、少なくとも動物は、何らかのかたちでこのまとまりを「自己」として認識しているのでしょう。自己認知を試す方法として鏡像認知がよく使われていますが、鏡に映った自分を「自己」として認識できるというのは、自分の身体が自分であるという、いわば身体的な自己の認知といえます。最近では魚類にも鏡像認知の能力があることが報告されていますが(16)、身体的な自己というのは、おそらくかなり広い動物種でみられるものなのではないでしょうか。このような身体的自己は、物理的な環境のなかで動き回って食物を探したり、配偶相手を探したりするための適応として進化したものだと考えられます。
 一方、私たちヒトの「自己」はこのような身体的自己に留まりません。ダニエル・デネットはこちらを「物語的自己」と呼んでいますが、ヒトは物理空間的に組織化された身体を超えて、知覚や理由、好意といったものを組織化する、より概念的な「自己」をもっています(17)。

「…私たちがお話を紡ぎ出すのではない。逆に、私たちのお話の方が私たちを紡ぎ出すのである」

(邦訳495頁)

とデネットは述べていますが、「お話」とはよく言ったもので、つまりこちらの方の「自己」はフィクションなのですね。身体のように物理的な実態があるわけではなく、その中や周囲に何やらジブンというものがあるのだ、と私たちは考えているのです。
 では、この「物語的自己」はどのように進化したのでしょうか?おそらく、その淘汰圧となったのは社会環境だったのでしょう。集団が大きくなってくると、前述のように、支配した資源を同種のあいだで争うのか、それとも分け合うのかという問題も複雑化します。そこで必要になってくるのが、ひとつは敵対する相手をどう出し抜くのか、ということです。つまり、相手の出方を読まなければならないわけですね。そのためには、自分以外のヒトがどのような状況でどのように振る舞おうとするのかということについて推測する必要があります(18)。そこで、相手に「心」というものがある、つまり知識や意図や欲求といったものがあり、それが特定の状況で特定のアウトプットつまり行動を引き起こしていると想定してやると、推測が容易になります。これが「心の理論」と呼ばれるものです。心というのは神経系の働きであり、物理的な実態があるものではありません。つまり、ヒトが社会環境に適応するためにつくり出したフィクションだといえます。最近はそうでもありませんが、昔は、心理学科はたいてい文学部にありました。心がフィクションであるのなら、心理学が文学だというのも当然かもしれません。
 それはともあれ、自分以外の他者についての心の理論があるということは、同じものが自分についてもある、ということになります。意図の読み合いをしているわけですから、相手が自分の「心」についてどのように推測しているのか、ということも推測しないといけませんよね(19)。脳内でのシミュレーション能力はすでにあるわけですから、相手が認識する自分の心についてのシミュレーションも可能なはずです。それこそが、「物語的自己」の起源だったのではないでしょうか。このような「物語的自己」は、もはや遺伝子によるshort-leash型の制御ではうまくいかなかったでしょう。long-leash型の制御により、自己にある程度の独立性をもたせるようになったのだと思われます。つまり、社会環境への適応によって、ヒトは遺伝子の軛からある程度逃れることになったわけです。
 社会や文化が複雑化していくと、この「物語的自己」もどんどんと肥大していったと考えられます。生物の個体は遺伝子の「乗り物」に過ぎないという話をすると、自分は遺伝子のために生きているわけではない、という反論をする人が必ず出てきます。たしかに、私たちは遺伝子の「ため」に生きているわけではありません。毎日が楽しいからとか、ご飯が美味しいからとか、子どものためとか、推しのためとか、あるいは人生にもっと高尚な意味を見出して生きている人もいることでしょう。しかし、それは結局のところ「物語的自己」のためです。私たちが人生にどのような意味を見出そうとも、その思考を創り出している脳は遺伝情報によってデザインされており、結果的に適応度をより高くする遺伝子が残っていきます。しかし、この肥大した「物語的自己」は、やがて「身体的自己」に影響するようになります
 「病は気から」ということわざがありますが、「自分はもうダメだ」と思ってしまうと、それが身体の健康に影響するということが、実際にあるのですね。中国古来の世界観に、「五行説」というものがあります。木・火・土・金・水の五つの要素によって自然現象や社会現象を解釈するという説だそうです。これに基づいた占星術があり、人が生まれた年はこれら五つの要素と関連している、特定の年に生まれた人は、その年に関連する要素の影響を受けやすい、そしてそれぞれの要素は、臓器や疾患と関連している、というものになります。具体的には、生まれた年の下一桁が4または5であれば木と関連しており肝臓の疾患を患いやすく、6または7であれば火で心臓、8または9であれば土で脾臓、0または1であれば金で肺、2または3であれば水で腎臓ということだそうです。ある研究では、1969年から1990年の間に死亡したカリフォルニア在住の中国系アメリカ人とヨーロッパ系アメリカ人について、その死亡時の年齢が比較されました。例えば下一桁が0または1の年に生まれて気管支炎、肺気腫及び喘息に罹患した人を中国系アメリカ人とヨーロッパ系アメリカ人のあいだで比較すると、中国系アメリカ人の方が期待されるよりも早く亡くなっていることが明らかになりました。また、昔ながらの説をより信じている可能性が高い中華街に暮らす中国人や、中国生まれの人ではさらに余命が短くなっていたそうです。肺に関連する疾患だけでなく、例えば心臓発作などについても同様の傾向がみられました(20)。つまり、概念的な「自己」についての認識が生体機能にまで影響を及ぼしているということです。

3.4. 自殺、同性愛、道徳的規範

 自殺についても、これと同様のことがいえるのかもしれません。自殺の原因はさまざまだし、そこに影響する要因も多種多様で、そう簡単に一般化することはできません。しかしながら、その多くには恥や屈辱、罪悪感、困惑、他者への絶望といった社会的な感情が関係しているようです。自分にはこの社会に居場所が無いとか、信頼している人に裏切られたとか、みんなから嫌われているとか、そういった社会的な要因が抑うつを引き起こし、自己破壊行動につながってしまうわけです。つまり、社会環境への適応として進化してきた「物語的自己」の喪失が、その引き金となっているのではないでしょうか。ヒトにとって「物語的自己」があまりに大きな機能を果たすようになってしまった結果、もはやその喪失は「身体的自己」の存在を否定するところまできてしまったのかもしれません。ジェシー・ベリングは、その自殺についての著書の最後を、ゴールデンゲート・ブリッジから投身自殺したある男性の遺書で締めくくっています(21)。

「これからブリッジに行く。途中でひとりでも微笑んでくれるなら、飛び降りるのはやめよう。」

(邦訳320頁)

 同性愛もまた、自殺と同じく適応度を下げるものであり、遺伝子の利益にそぐわないように思えます。しかし、やはりこれもlong-leash型の制御の結果としてみられるものなのかもしれません。同性愛的な行動はヒト以外の動物にも幅広くみられるものですが、ヒトの場合は、ゲイやレズビアンのように排他的な同性愛行動が見られ、これらは繁殖に結びつかないという点で特殊です。坂口菊恵はその著書のなかで、これまで生物学的な性=セックス、社会的な性=ジェンダーとされてきて、生物学がセックスにしか目を向けてこなかったことに疑問を呈しています(22)。坂口は「生物学的ジェンダー」という概念を提唱し、特に近年注目されるようになってきた性自認や性的指向を、生物学的ジェンダーの要素として捉えることを提唱しました。恋愛や性行動といったものを、繁殖という文脈のみで考えるのではなく、個体どうしを結びつけ、協力関係を築くためのものとして捉えられないだろうか、ということです。つまり、ヒトの性は社会的な適応でもあるということなのでしょう。
 そもそも、ヒトは共同繁殖する種であり、また子育てには父親と母親の協力が必要です。そういった繁殖にまつわる社会的な部分を無視して、セックスだけを取り上げてもダメだということなのかもしれません。ただ、そもそも生物学的な性/社会的な性という分け方自体に問題があるのではないでしょうか。これまでみてきたように、ヒトは環境への適応として社会を形成し、私たちの社会性もまたその社会という環境に適応して進化してきました。避妊のように自らの繁殖もコントロールできるようになったヒトにおいて、性の社会的な部分のみが一人歩きしているのが、いわゆる性的マイノリティなのかもしれません。
 自殺や排他的な同性愛は、たしかに適応度を下げるものです。では進化の結果ではないのかというと、おそらくヒトに特有な、大規模で複雑な社会への適応として考えることができるのではないでしょうか。もうひとつ、一見して進化的な視点からは説明できないようなものに、規範や道徳があります。
 道徳的規範というと、「公正さ」と「他者に危害を加えないこと」がよく挙げられます。これらについてはおそらく適応的意義があり、先に述べた、集団内での正の同類性を保つために機能しているのでしょう。自然淘汰理論と質問紙調査から、道徳には五つの基盤があるのではないかということを提唱したのが道徳基盤理論です(23)。この理論は,ヒトの道徳的推論の起源と個人差を、生得的なモジュール基盤に基づいて説明するものです。提唱者であるハイトらは、ヒトには半ば自動的に働く道徳的直観が進化の過程において備わったが、それは社会的・文化的な影響を受けて変化する可能性があると主張しています。想定されている基盤は、それぞれ「ケア/危害」、「公正/欺瞞」、「忠誠/背信」、「権威/転覆」、そして「神聖/堕落」です。
 ハイトらの提唱する道徳基盤にはそれぞれ適応的な意義が考えられるのですが、とはいえ道徳的意思決定のなかには適応度を下げてしまうようなものもあります。道徳的意思決定の際によくもちだされるのがトロッコ問題ですね。トロッコ問題はある種の思考実験であり、線路を走っていたトロッコが制御不能になったという事態を想定します。トロッコの進路には5人の作業員がいて、そのままでは全員がひき殺されてしまいます。そのとき、たまたま自分が線路の分岐器のすぐ側にいたとしましょう。分岐器を操作してトロッコの進路を変えれば5人は助かりますが、変えた進路の先には1人の別の作業員がいて、確実にトロッコにひき殺されてしまいます。この場合、分岐器を操作すべきかどうかを問うのがトロッコ問題です。つまり、5人を助けるために1人を犠牲にしてよいか、という問題ですね。また別のバージョンとして、分岐器を操作するのではなく、自分の横に立っていた人を線路に突き落として5人を救える場合に突き落とすかどうかという問題もあります。
 道徳哲学における帰結主義的な立場、とくに功利主義的立場をとるのであれば、1人を犠牲にして5人を助けるべきです。一方、道徳哲学にはカントのような非帰結主義もあります。カントの義務論においては、行為の目的は排除され、どのような場合でも無条件で結果を考慮せず普遍的な道徳規則に従うことが倫理の達成であるとされています。この場合の普遍的な道徳規則は「汝、殺すべからず」ですね。カント的な義務論に従うのであれば、たとえ5人を救うためでも誰かを殺すべきではない、ということになります。
 ロバート・クルツバンらは、ある研究において94人の回答者に、5人のきょうだいがトロッコの進路にいるとして、かれらを助けるために1人の赤の他人を線路に突き落とすかどうか選択させました(24)。すると、突き落とすと答えたのは56.4%でした。つまり、半分弱の回答者は、たとえ5人のきょうだいを救うためでも1人の赤の他人を殺すことはしない、と答えたことになります。もしヒトの意思決定が血縁淘汰理論に従っているのなら、すべての回答者が「突き落とす」と答えるはずですよね。これはどういうことなのでしょうか?
 もしかしたら社会文化的背景によって異なるかもしれないので、私は日本人大学生115人に同じ問題に対して回答してもらいました(25-26)。すると突き落とすと答えたのは56.5%となり、クルツバンらの結果とほとんど一致していたのです。さらに、日本人回答者に突き落とすかどうかという自分自身の判断について尋ねただけでなく、自分以外の世間一般の人が同じ状況でどう判断するか予想してもらいました。また、赤の他人を線路に「突き落とす」と答えたAさんと、「突き落とさない」と答えたBさんという架空の人物に対して、自分自身と世間一般の人がどのような印象をもつのかについて「あまり良くない」から「良い」までの9段階評価で答えてもらいました。
 結果としては、きょうだいを救うために他人を犠牲にすると答えた人たちの多くは、世間一般の人も同じ行動をとるものの、それは間違っていると思われるだろうと考えていました。また、架空の人物の印象を尋ねた質問では、「突き落とす」と答えた回答者においてはAさんとBさんとのあいだで好感度に違いはありませんでしたが、世間一般の人は「突き落とさない」と答えたBさんの方を良く思うだろうという評価でした。一方、「突き落とさない」と答えた回答者は自分自身、世間一般の人どちらも「突き落とさない」と答えたBさんの方を良く思う、と評価しており、その差は「突き落とす」と答えた回答者の評価よりも大きくなりました。つまり、自分自身の判断に関わらず、世間一般の人は「突き落とさない」というカント的判断の方をより正しく、好ましいとするだろうと期待されているということです。カント的な道徳規則に従うことは、必ずしも遺伝子の利益のためにはならないかもしれません。しかし、集団の成員のほとんどがカント的道徳規則に従っていれば、そこではカント的道徳規則に従うことが最も個体にとっての利益になるでしょう。逆にいうと、そのような集団では、カント的道徳規則に従わないメンバーは排除されたり冷遇されたりすることになります。また、集団内の他者がカント的規則に従うだろうという期待が、この社会的環境をますます強化することになると考えられます。つまり、「汝、殺すべからず」という定言命法にも、結局のところ(個体レベルでの)適応的意義があるのではないかということです。このように、一見適応度を下げてしまうようにみえる道徳的意思決定も、Long-leash型の制御によって社会環境に適応してしまった結果なのかもしれません。

3.5. おわりに

 ヒトの行動はすべて進化的な視点から「説明」できるという考えも、ヒトは他の動物とは違う特別な存在であり、自由意志をもっているのだから進化的な視点など役に立たないという考えも、どちらも極論であり間違っています。ヒトは生物なので当然進化するし、その機能的な特徴は基本的に自然淘汰によるものです。しかし、ヒトにとっては社会という特殊なものが環境となり、その変化速度の速い環境に適応するために、遺伝子の直接的な制御をある程度逃れるような仕組みをもつようになったのでしょう。複雑な社会と、それによって発展した文化は、ヒトにとっての新たな淘汰圧となりました。さらに面白いのは、ヒトはこの社会や文化という環境を自分たちで創り出し、改変していくことができるということです(27)。とはいえ、一方で私たちのなかには、遺伝子によるshort-leash型の制御を受けている特徴も数多くあります。大切なのは、極論に惑わされず、それらについてひとつひとつ科学的に実態を解明していくことなのではないでしょうか。

 1. 「利己的な遺伝子」第一版の結びの言葉から引用

文献

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  25. Oda, R. (2013). Refusal of killing a stranger to save five brothers: How are others’ judgments anticipated and favored in a moral dilemma situation? Letters on Evolutionary Behavioral Science, 4, 9-12.

  26. 小田亮 (2023) 5人のきょうだいか1人の他人か? note記事

  27. 小田亮 (2023) 環境をつくるサル:ニッチ構築と人類進化 note記事


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