5人のきょうだいか1人の他人か?
トロッコ問題(trolley problem)については知っている人も多いでしょう。トロッコ問題はある種の思考実験であり、線路を走っていたトロッコが制御不能になったという事態を想定します。トロッコの進路には5人の作業員がいて、そのままでは全員がひき殺されてしまいます。そのとき、たまたま自分が線路の分岐器のすぐ側にいたとしましょう。分岐器を操作してトロッコの進路を変えれば5人は助かりますが、変えた進路の先には1人の別の作業員がいて、確実にトロッコにひき殺されてしまいます。この場合、分岐器を操作すべきかどうかを問うのがトロッコ問題です。つまり、5人を助けるために1人を犠牲にしてよいか、という問題ですね。また別のバージョンとして、分岐器を操作するのではなく、自分の横に立っていた人を線路に突き落として5人を救える場合に突き落とすかどうかという問題もあります。
道徳哲学における帰結主義的な立場、とくに功利主義的立場をとるのであれば、1人を犠牲にして5人を助けるべきです。一方、道徳哲学にはカントのような非帰結主義もあります。カントの義務論においては、行為の目的は排除され、どのような場合でも無条件で結果を考慮せず普遍的な道徳規則に従うことが倫理の達成であるとされています。この場合の普遍的な道徳規則は「汝、殺すべからず」ですね。カント的な義務論に従うのであれば、たとえ5人を救うためでも誰かを殺すべきではない、ということになります。
ロバート・クルツバンらは、このトロッコ問題の犠牲者1人と助ける対象の5人を、回答者からみて赤の他人、きょうだい、友人のそれぞれに設定した問題を作成し、のべ1,290人について選択結果を調べました(1)。その結果、より多くの回答者が、赤の他人のときよりも、きょうだいや友人のときに1人を犠牲にして5人を助けるという選択をしていました。つまり、対象が自分と関係の深い間柄のときには、より功利主義的な選択をとるようになるということですね。実は、帰結主義は自然淘汰理論と非常に相性がよいのです。なぜなら、自然淘汰理論はどんな行動であれ結果的に適応度を高くするものが残っていく、という理論であり、帰結主義における帰結を遺伝子にとっての利益、つまりは適応度に読み替えることが可能だからです。もちろん、帰結として得られるのはベンサムがいう「最大多数の最大幸福」ではなく、「自らのコピーの適応度の最大化」なのですが。
さらに興味深いのは、犠牲者と助ける対象のそれぞれとの関係を変えた場合です。クルツバンらはある問題で94人の回答者に、5人のきょうだいを助けるために1人の赤の他人を突き落とすかどうか選択させました。すると、突き落とすと答えたのは56.4%でした。つまり、半分弱の回答者は、たとえ5人のきょうだいを救うためでも1人の赤の他人を殺すことはしない、と答えたことになります。もしヒトの意思決定が血縁淘汰理論に従っているのなら、すべての回答者が「突き落とす」と答えるはずですよね。ただ、道徳規範は文化の影響を受けることがあります。そこで私は、日本人大学生115人に同じ問題に対して回答してもらいました(2)。すると突き落とすと答えたのは56.5%となり、クルツバンらの結果とほとんど一致していたのです。
両親が同じだとしたら、きょうだいとは半分の遺伝子を共有している計算になります。それが5人もいるのに、なぜ見殺しにして赤の他人の命の方を優先させるのでしょうか?血縁淘汰理論は間違っているのでしょうか?
要するに「突き落とさない」と答えた半分弱の人たちは、カント的な義務論に従ったわけです。そこで考えられるのが、ある道徳的判断にはそれをとらせる誘因が存在し、その誘因は集団内の多くの成員が同じ道徳的判断をしていることによって生み出されているのではないだろうか、ということです。例えばカント的な道徳規則に従うことは、必ずしも遺伝子の利益のためにはならないかもしれません。しかし、集団の成員のほとんどがカント的道徳規則に従っていれば、そこではカント的道徳規則に従うことが最も個体にとっての利益になるでしょう。逆にいうと、そのような集団では、カント的道徳規則に従わないメンバーは排除されたり冷遇されたりすることになります。また、集団内の他者がカント的規則に従うだろうという期待が、この社会的環境をますます強化することになると考えられます。つまり、「汝、殺すべからず」という定言命法にも、結局のところ(個体レベルでの)適応的意義があるのではないかということです。その意味において、カントの義務論は非帰結主義ではないといえます。道徳規則に従うことがその道徳規則そのものを強化している状況では、一見したところ行為の目的は排除され、普遍的な規則に従っているようにみえるでしょう。そのときの心の働きが、カントのいう「理性」なのではないでしょうか。
そこで私の調査では、回答者に突き落とすかどうかという自分自身の判断について尋ねただけでなく、自分以外の世間一般の人が同じ状況でどう判断するか予想してもらいました。さらに、赤の他人を線路に「突き落とす」と答えたAさんと、「突き落とさない」と答えたBさんという架空の人物について、自分自身と世間一般の人がどれくらい好ましいかと思うかを9段階評価で答えてもらいました。
結果は、「突き落とす」と答えた回答者の80%が世間一般の人も突き落とすだろうと予想しており、「突き落とさない」と答えた回答者は64%が世間一般の人も突き落とさないだろうと予想していました。しかし、世間一般の人は突き落とすことを間違っていると思うかどうか、という問いに対しては、「突き落とす」と答えた回答者の69%が間違っていると思うだろうと答え、「突き落とさない」と答えた回答者は68%が間違っていると思うだろうと答えたのです。つまり、きょうだいを救うために他人を犠牲にする、と答えた人たちの多くは、世間一般の人の多くも同じ行動をとるものの、その行為は間違っていると思われるだろうと予想していたことになります。また、架空の人物の好ましさを尋ねた質問では、「突き落とす」と答えた回答者においてはAさんとBさんとのあいだで好感度に違いはありませんでしたが、世間一般の人は「突き落とさない」と答えたBさんの方を好むだろうという評価でした。一方、「突き落とさない」と答えた回答者は自分自身、世間一般の人どちらも「突き落とさない」と答えたBさんの方を好む、と評価しており、その差は「突き落とす」と答えた回答者の評価よりも大きくなりました。つまり、自分自身の判断に関わらず、世間一般の人は「突き落とさない」というカント的判断の方をより正しく、好ましいとするだろうと期待されているということです。そのような社会環境への適応として、血縁淘汰理論に反するような意思決定がみられるのではないでしょうか。
では、なぜ半数強の人たちは、カント的道徳規則に従わず、血縁を優先する判断をしたのでしょう?今回の調査では、回答者がどのような社会環境におかれているのかということまでは調べていませんが、もしかしたら、そのような人たちは血縁関係を重視することが道徳的判断よりも有利になる環境にいるのかもしれません。これは今後の課題といえるでしょう(3)。
文献
1) Kurzban, R., DeScioli, P., & Fein, D. (2012). Hamilton vs. Kant: pitting adaptations for altruism against adaptations for moral judgment. Evolution and Human Behavior, 33, 323-333.
2) Oda, R. (2013). Refusal of killing a stranger to save five brothers: How are others’ judgments anticipated and favored in a moral dilemma situation? Letters on Evolutionary Behavioral Science, 4, 9-12.
3) 小田亮(2016) 第1章 道徳的行動の進化的背景. 太田紘史(編著)モラル・サイコロジー 心と行動から探る倫理学 春秋社.
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