見出し画像

祖父の日記 004

大阪から広島へ 八月十一日

編制完了、隊伍を組んで大阪駅に着いた。いよいよ移動開始、戦場への進撃だ。八時二十分、普通列車に乗って広島に向う。 途中の景色、大阪の街から離れる心、様々な情感が身体を駆けめぐる。大阪の町は実に煙の多い汚い町だ。八月二日から十日の朝迄の九日間、小学校での宿営生活、それは余りにも無味乾燥のものだった。兵隊時代の若い気持に還って喜ばして呉れたのも此処だった。校内プールの親しみ、入浴の嬉しさ、今は只すべて過去のもの となった。 
大阪の街は煙の都である。 特に生活している人々の顔色に生気のないのが淋しい。アスファルトの道ですれ違う若い女でも、電車からのぞく学生の顔にも、そして目まぐるしく働く人々の面にも、何か疲れ切っただるさのある感じがとても強く胸を打ち目を引く。吾吾は今迄朝鮮に勤務して悠長な半島人の生活を見て来ているが、之と全く表情の異る大阪の人々の顔色の生気なさ、だるさ、つかれが判っきりと見える。停車場に来ても往来する人々に生気がない。 今こそ火花を散らして戦うべき国民を必要とするとき、此の大阪の人人の顔に生気の失なはれあるのは何故か淋しい。 
大阪は煙りの海だ。そして何時も暗い都だ。溌剌たる人の姿の見えないのが物足らない。 汽車は煤煙の大阪を抜けて南へ南へと去る。 四辺は日当りの良い山肌が美しい。そして山間に点在する農家の窓も明るい。道傍に立つ人の顔は大阪の人達と異る溌剌さが見える。 広島についた。電車がとても小さい、街の人達の兵隊ずれしているせいか吾々の行進に注目する人も少ない。 本川小学校に到着して舎営態勢に入る。僅かの行軍でも足の裏が痛い。夜旅館で分隊の会食を行なうたが何んと料理の見すぼらしいことか。十二時に就寝した。 

知らぬ町宿るひとときよろこびて 
       畳の上に長々と伸ぶ 
ふるさとの夢と同じい雨の降る
       広島の町静かに明けぬ 
汗くさき腕時計の革なで見つき 
       征路に着ける此の吾おもう 

広島から宇品ー大連へ

十二日朝十時、広島の舎営地、宮本旅館を出て、徒歩の儘宇品に向う。歩兵と同じ二本足の行軍である。途中背負袋の重さと汗の為に、訓練の足らない反応がテキ面に現われて、苦しいことおびただしい。 
途中只の一回休憩、街の店の前で氷の塊を貰う。之をむさぼる様に口中へほうり込む。本当に、もとの歩兵時代への逆行だ。 
宇品港に着いて、汗にまみれ、吐息をつきながら、半裸のまゝで中食をとり、二時、乗船開始となる。港には標示のない輸送船が一杯だ。舟に乗って、貨物船「打出丸」に移る。昨日、使役の為に船内を見ていたから驚きもしなかったが、 一枚のアンペラに二人の窮屈さと、段違いの棚の中に押込められる哀れさ、暗い船倉で、息をつくにもよどんだ空気の困難な状態である。 
潮のくささと、油と人いきれに、その上、煤煙と狭隘のくるしさ、 汗と体臭に悩まされながら、海上に第一、第二、三、四日と過して、 十五日の午后五時頃、大連港に船は入る。真蒼な海の面を波をかき分けて進む船に、白い泡が流れて航跡が美しく帯を引く。 そして水平線の彼方に消える輸送船、遠く、近く、数多の船が往き来して港は賑やかだ。 
此の港に錨を降ろしての待機、朝も夕も赤い太陽のめぐる港。 暇な時間に暑苦しい船内の生活、単調であるがそれでも平穏無事、戦場に向う吾々は、この待機も大して気にかけないことにした。 
宇品港を出る時自分は思った。日露戦争の時、父も矢張り此の港から斯うして征途に立たれたのだと。そして玄海灘を渡り、朝鮮をすぎる時、つくづくと此の感を深くした。 
小学生の頃の地理の教科書のさし画や、人から貰った絵葉書を想起して今見る東洋一の大連。 又、養母が大連の住居を語ったりしたことも思い出され、妻も子供の頃、玆で過したこともあったとの事も思い出される。 
大連に上陸した。大連はコンクリートの町である。そして人の少 ない、ガランとした町である。 戦友と連れ立って街へ入浴に行く時、 誰かが、 
「暴風雨の後の様な町だ」 
と言ったが、全くそんな感じだ。曇るでもなく照るでもない此の大陸の玄関である町は、歩行するのに汗一杯となる。ああ、矢張り真夏であるなあ、とうなずかせる。 
朝鮮から大阪へ、大阪から広島へ、広島から大連へ、大連から何処へ行くのだろう。 
神明高等女学校の二階で、又大阪の様な舎営生活が始まった。時間の長さに身体をもて余しても、外出を禁止せられある吾々には、只部屋の中で、裸の儘の休憩の連続だ。 寝ながら話す者、車座で何か叫び合っている者、小説を読む者、又、御丁寧に堅い鉄帽を枕に横になっている者もいる。敷物は満州らしく、高梁製のアンペラである。此の部屋に足の踏場もない程、兵隊が一杯である。一体、この兵隊達は何を考えているのだろう。そして何を語り合っているのだろう。 
南側の窓は開け放たれて涼しい風が入って来る。そして窓には海と陸に一線を引くドンヨリとした灰白色の雲が一連に伸びていた。 

仕事なく寝そべるからだ汗のして 
       汗疹のかゆく夢も見られず 

いくさするもののふの身のひまなれや 
       窓辺に遠く白雲の流れる 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?