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祖父の日記 001

はじめに

祖父が残してくれたこの日記は、私に生きていることへ感謝の気持ちを芽生えさせ、そして前向きに生きるためのきっかけを与えてくれます。自分が失敗してへこんだ時や苦しいことがあった時にはいつもこの日記を読み返してパワーをもらっています。

この記事を読むことで、生きていることの有難さを感じ前向きに生きるきっかけを得てもらえれば幸いです。

この日記は祖父が出征する所から始まり満州からシンガポールでの出来事が記されています。途中シンガポール・スマトラから終戦までの出来後は焼失したため日記はなく、再び日記として記されていたものはサバン島での抑留生活が始まる所からとなっています。前半部は平和的な内容が続くので少し退屈かもしれませんが、中盤から後半にかけては戦時下そして抑留生活がリアルに記されています。

この記事は祖父が終戦後「歌日誌」として綴ったものから抜粋して掲載しています。そのため当時の文体や表現をそのまま掲載していますので現在にはそぐわない表現等が含まれています。

最後に日記ではありますが祖父の文才が非常に豊かなため読み物としても非常に引き込まれる内容だと私は感じています。

昭和十六年聖戰四年七月


大阪へ愈々出発という夜、即ち七月二十八日二十時葉書で、前記久芳さんからお別れの報せが来た。 久芳さんは本当に良い人だった。その上御夫婦揃うてあんな良い気性の人は稀れであろう。久芳さんの申される様に全く男子の本懐之に過ぐるものはない。白髪頭の御主人と、御主人より二十歳も若い 奥さんとの対照が親娘の様だとトミ子さんが申していられたが、実際そんな気がする。今此の思出を朝鮮海峡を航行する金剛丸の中で味はいながら久芳さん御夫婦の健康を祈ると共に、感激を又新にす自分が此度出征する迄随分と人を戦場に送った。然しいよいよ自分が戦場へ行く番になったのだ。何時ものことながら別れはつらいものである。咸興駅で野間さん夫婦や奥さんに見送って頂く。 防諜上の見地から見送人を制限する昨今、それでも駅員の監視の目をくぐって多勢の人がホーム一杯に溢れていた。 
興南から福永さんと吉岡君が見送りに来てくれた。 吉岡君が特に真面目な顔でどう挨拶をして良いやら判らない様な表情を見ていると何故かしら胸に熱いものを感じた。 
娘が何も知らないで妻の背中で駅の弁当を大切そうに持っているのがいぢらしい。何時逢えるか、或は逢えないかも知れない父に、只無邪気に笑っている。そして「トウチャンハネ、オロコ(※娘のこと) ガ大キクナッテクルヨ!!」 
と叫ぶところに可愛いと言うよりもむしろおかしさを感ずる。出発する日迄、住む官舎が空かない為に十日間も野間さんの家で世話になり、心苦しい気がした。必要以外ものも言はない人が最后の日、赤飯に鯛を焼き、ビールで乾杯して頂いたのは、どんな山海の 珍味より美味しく、この真心のこもった簡素な待遇は涙の出る程うれしかった。夜いよいよ出発の時、玄関で養母と野間さんの奥さんと、肇、進、亨ちゃん達の何か言う声が聞える。暗闇で振返っても 見えない後から 
「オヂチャン、サヨウナラ!!」 が何回も、何回も聞えて来た。 
汽車の出る時、妻が涙も出さず案外平気な顔でいて呉れて良かった。常に強いことを云うて置けば斯んな時に役立つものらしい。しかし金剛丸の船中で下着を換える時、靴下の中から紙片で 
「自分の家からお送りすることが出来なかったので淋しい気がする。 腹と胃をこわさないように」 
と鉛筆で走り書。 その余白に多分娘が書いたのであろう、円い線がグルグル孤かれ てあった。そして片仮名で最后に 
「トウチャンバンザイ。 ハヤクカヘッテチョウダイネ」 
と記してあった。生別と死別を兼ねる今、全く肉親の情愛にホロリとさせられた。 

生と死の別れをかねて征く吾の  
       うしろに遠く見送る声す。 


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