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贈与なのか、自己犠牲なのか、偽善なのか。読書日記vol.60

こんにちは!やっぱり朝は起きれないです!

そもそも朝にやる必要があるのか?ということまで最近感じるようになってきてしまいました。。笑

ということで「朝活」改め「読書日記」とすることにします!

基本は毎日更新していく気持ちですので毎日少しずつでも

読書感想をアウトプットしシェアできたらと思います!



本日も「世界は贈与でできている」より読書感想です!


「贈与」と「交換」の違い


「親の愛」に端的に見られるように、
贈与は市場における「金銭的交換」とは全く異なる性質を持っています。
簡単にいうと、市場での交換は「さっぱり」しているのです。
___そして、交換は誰とでもできます。というよりも、相手がだれであってもいいのです。対価さえちゃんと払えるのならば。

僕らがどこかで買い物などするとき、

基本的には「市場での交換」の中で

商品を受け取る代わりに金銭を支払います。


この流れは本書で「交換」とされ、「贈与」とは別のものとして扱われます。

「贈与」は他者とのつながりを生み出すが、「交換」はつながりを生まない。
だからこそ、「どこでも、誰とでも」できる、と著者はいいます。


____贈与はすぐには完結しませんし、相手が誰でもいいわけではありません。
親子間での贈与で言えば、子が他者を愛せる人間となったとき、贈与の受け渡しがやっと完了するのです。
しかも、その子の愛が愛であるならば、
その愛を受け取ることのできた相手は、また誰かに贈与を行うはずです。
____交換は1ターンで終わるが、贈与は対流する


この「贈与」の構造を理解するのに著者がおススメしているアメリカ映画があります。

「ペイ・フォワード」という作品です。


詳しい内容は割愛しますが、ざっくりお伝えすると
(※ネタバレ注意!)



自分が「善意」を受けたら、そのお返しは「善意の贈り主」ではなく、
他の3人に「善意を与える」ことで恩返ししよう、
という「ペイ・フォワード運動」の話。
「ペイ・フォワード運動」を考案し実行した主人公の”トレバー少年”は
最終的に命を落としてしまう、というショッキングな結末で終わります。


著者は、この「ショッキングな結末」を

「物語を盛り上げるため」ではなく、「贈与論的に考えた時極めて正しい」といいます。

なぜトレバーは命を落とさなければならなかったのか。
____ある時、___トレバーにこう尋ねます。
「世界は君に何を期待している?」
するとトレバーは答えます。
「何も」
期待されている側にとってみれば、期待とはすなわち果たすべき責任です。トレバーは世界に対して自分には何の責任もない、と宣言したことになります。
___私は世界から何も付託されていない、負い目は無いということです。
それは、私は何の贈与も受け取っていない、という言葉と同義です。


トレバー少年は恵まれない環境で育ってきており、
自身の人生に対して「何もかも最悪」という思いを抱きながら生きていました。

そのため、「世界から何の贈与も受け取っていない」という感覚でありながらも

他者に「贈与をおくる」ことを始めたことになります。

著者が言うには、

これは「贈与」ではなく「供犠」だそうです。

残念ながら、これは贈与ではありません。
供犠という形式の「交換」です。
被贈与という「元手」を持たないトレバーは未来(つまり自分の命)と引き換えに、他者へと善意のパスを渡したのです。

「贈与を受け取った」という「被贈与の気づき」なくして

他者に贈与を送ることはできない。。

この「気づき」がない場合、その行為は「供犠」「自己犠牲」という「交換」となる。。

____「贈与は受け取ることなく開始することはできない」
___これが贈与の原理の一つです。


「偽善」とは何か?

お金で買えないものが贈与である以上、
与えた側はそこに見返りを求めることはできません。
もし何らかの対価を求めるのであれば、
それは経済学的に計算可能な「交換」となります。

この「交換」は「モノ」に限らず、

例えば「私は○○を与えてこの人を喜ばせている」と、そう感じた時点で

「○○を与える」という行動による「自分の快楽や満足」を「計算」していることになり、

それは「贈与」ではなく「交換」とみなされます。


計算可能な贈与(というのはもはや贈与ではないのですが)には、
別の名が与えられています。
いわゆる「偽善」です。
_____それは残念ながら贈与ではありません。
金銭的ではない形の「交換」です。

過去に受け取った贈与に対する「負い目」からなる「返礼」としての行いではなく、

自分の利益のため、自己満足のための行いの場合は「交換」であり、

「交換」であるにも関わらず、善意による一方的な贈与だと装うこと

「偽善」と呼びます。。


「偽善」を察知した場合、多くの場合、僕らはその人を「信頼できない」と判断しますよね。。

つまり、計算可能な、計算ありきの「贈与」っぽい行い「偽善」であり、
本質的に「交換」にとどまるため
信頼関係などの「お金では買えないもの」を生み出さない。。


贈与には必ず、先行する「プレヒストリー」がある。


そこに対する「負い目」、「返礼」としての行いであるならば、
たとえ非効率であったり論理的でなくても行えばいいし、

それは「贈与」となり、
相手が「贈与」として受け取ってくれたならばまた「返礼」がつづいていく
というように「贈与のフロー」が生まれる・・・!


しかし、「プレヒストリー」なしに、「供犠」「自己犠牲」という「交換」を行った場合には、

少しスピリチュアル的にもなりますが

”トレバー少年”のように「不幸な結末」を迎えてしまうことになります。。


結局、贈与になるか偽善になるか、あるいは自己犠牲になるかは、それ以前に贈与をすでに受け取っているか否かによるのです。



いやー話が哲学っぽく、ややこしくなってきましたが

要は与えられている「贈与への気づき」がポイントとなりそうです!

本書ではまだまだ深堀していきます!また続きも紹介していこうと思います(^^♪

つづく


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