自己紹介【過去やってきたこと】
こんにちは。池嶋です。
2020年にフリーランスになり、いろんな地域の方と関わらせていただく機会が増えました。
当然のことながら自己紹介をする機会が急増したのですが、自分でも上手に説明ができない(←ちょっと悩んでる)ので、これまでの活動履歴をまとめたいと思います。
少し長いですが、お付き合いいただけると幸いです。
2021.07.30
現在の活動、プロフィールについてはコチラへ
学生時代
とにかくスポーツが大好き。中学(松原第六中学校)では野球部キャプテン。高校(生野高校)では剣道部キャプテンを経験させてもらいました。
一浪して入った大学(大阪市立大学)では、実はずっと好きだったストリートダンスに憧れてダンスサークルSPLASHへ。一応ブレイカーでクルクル回ってました(パリ五輪が楽しみ過ぎ!)。
でも1年くらいで自分が踊ることより、上手い人にスポットライトを当てるほうが好きだと感じて、イベントの企画などが主な活動に。今思うと、この頃に裏方への想いが芽生えた気がします。
また同時にアルバイトで、コンサート運営会社(ビーイング)に2年間所属し、年間100件近くのエンターテイメントの現場を経験しました。現場チーフもやらせてもらい、数万人というお客さんが行き交う大規模イベントの裏側を学ばせてもらいながら、エンターテイメントの世界にどっぷり心惹かれていきました。
余談ですが、初現場は2008年5月30日大阪城ホールのBump of Chicken「ホームシップ衛星」で、スタッフをしながら暗転時に感動して号泣していていたことは今だから言えることです。笑
今でも一番好きなバンドが初現場じゃなかったら、きっと私の人生は大きく変わっていたと思います。
それくらい印象的で、衝撃的で、初めて本物のエンターテイメントに撃ち抜かれた日でした。
NY留学時代(2010年5月~2011年3月)
バイトが楽し過ぎて「将来はエンターテイメント関係の仕事に就きたい」と思うようになっていた頃、橋下市長を中心とした大阪政治の大改革が進められ、文化事業の縮小やエンタメの館がどんどん閉館していきました。
(※正確には施設の改修や建て替えなども含まれていたので、池嶋が正しく世間の動きを理解できてなかっただけかもです。笑)
その時、人々の生活や都市にとって大切な要素であるエンターテイメントがなくなりつつある大阪に対して危機感を感じている自分に気づき、まだ確信はなかったものの「エンターテイメントで大阪を元気にしたい」と思うようになりました。
どうせなら本場のエンタメを学びたいと大学を休学し、アメリカ・ニューヨークへの留学を決意。
語学学校に通いながらも「英語を勉強しに来たんじゃない」と自分に喝を入れ、とにかく支出を切り詰めて特急電車でマンハッタンに通い、大小問わず見つけたイベントに片っ端から参加し、オーガナイザーを見つけては話しかける日々を過ごしました。
9.11テロの追悼式典のボランティア
セントラルパークで開催される無料のフェスに徹夜で並んで参戦
そして運よく、現地のイベント会社の社長さんに出会い、インターンとして働かせてもらうことになりました。
マンハッタンの道路を通行止めにして開催した日本食フェス。
「This is ヘルシーフード!!」と牛丼が売られていた衝撃は今でも忘れられません。
他にも、日本の祭りを再現したフェスのSNS広報を担当したり、アマチュアアーティストばかり出演するライブハウスで次世代スター発掘イベントを手伝ったり、いろんな県人会があるNYでなぜかなかった「NY大阪人会」を立ち上げたり。
また帰国直前には、学生時代にYouTube見まくっていたダンサーの蛯名健一さんのショーにプロデューサーとして関わらせてもらうなど、本当に刺激に満ちた10か月間を過ごしました。
ちなみに、NYからの帰国日は2011年3月10日。東北の震災の前日でした。
私は大阪にいたので被災はしていませんが、留学中に出会った友人から本当にたくさんのメッセージが届きました。特に台湾やドイツの友達からは「困ってるものがあれば何でも送るからね」等と温かい言葉をたくさんもらい、自分の中の世界地図が大きく変わったのを覚えています。
世界一周(2012年11月~2013年2月)
NYから帰国後、私は大阪のNPO法人の立ち上げのお手伝いをしたり、難民支援の国連UNHCR協会で働いたり、NYでトレンドだった「社会起業家」という生き方について考えて過ごしていました。
ただそれらの活動を通じて、やはり自分は大阪という「街」に興味があるのだと思い、再び世界に関心を抱きます。
そして「元気な街とは何か?」の答えを探しに、世界一周の旅を決意しました。
【東回りの世界一周】アメリカ(ニューヨーク・ボストン・ロサンゼルス・ラスベガス)、カナダ(トロント)、メキシコ(カンクン)、ペルー(リマ・クスコ・マチュピチュ)、スペイン(マドリード・バルセロナ)、フランス(パリ・ニース・モナコ)、ドイツ(ミュンヘン、ベルリン)、ポーランド(クラクフ、ワルシャワ)、デンマーク(コペンハーゲン)、オランダ(アムステルダム)、ベルギー(ブリュッセル)、イギリス(ロンドン)、イタリア(ミラノ・フィレンツェ・ベネチア・ローマ・ナポリ)、バチカン市国、トルコ(イスタンブール・カッパドギア)、シンガポール、マレーシア(クアラルンプール)、タイ(バンコク)、フィリピン(マニラ)、ベトナム(ハノイ)、台湾(台北)、日本
と、約100日間で世界21か国36の都市を巡りました。
余談ですが、これから世界一周に行く人は、是非たくさん自撮りしておいてください(いや、普通するよな、、、)。私は街への興味が上回ってしまった結果、旅中の写真に自分がほとんど写っておらず、帰国後の講演や人に話す際にも良い写真がなく苦労しました。。。
さて、私が探し求めた答えは世界一周で見つかったのかと言うと、、、
見つかりませんでした。
その代わりに大きな学びを得ました。
ヘタクソな英語ながら、各都市で必ず現地の方に「ここの魅力は何?」「この街のことは好き?」と話しかけるようにしていましたら、いろんな考え方を聞かせてもらえました。
そして気づいたのです。どんなに華やかに見える都市でも、元気に見える都市でも、プラスの面と同じだけの課題を抱えている、と。それぞれの強み弱み。課題と魅力。期待と不安。さらに言われる「日本は素晴らしい国じゃないか」
「あれ、、、どこの都市も同じや。。。」
そして、確信します。
大阪を元気にするためには、大阪をもっと知らないといけない、と。
外に大阪を元気にする答えを求めていてはダメだ、と。
ものすごく当たり前でシンプルなことに、たくさんのお金と時間をかけてようやく気付くことができました。
大学生の時から約4年。大阪に腰を据えて、ちゃんと向き合おうと決意することができました。
留学・世界旅コミュニティTerminal(2012年~)
少し時系列は遡りますが、NYから帰国後、留学経験者や旅好きが集まる団体をやっていました。団体と言っても、正式な組織があるわけではなく、定期的にイベントを開催するコミュニティです。
普通だったら飲み会をしたり勉強会をしたりするところ、いかんせんお酒が飲めない私は、別の方法で世界に興味がある人を集めようとしました。
それが「世界のヤバい祭を日本で再現する」ことです。
例えば、タイやミャンマーで開催されているソンクラーンを運動会形式にして開催した「水かけ祭り」
この企画は、当時まだUSJも水かけコンテンツをやってなかった頃に開催し、ホリエモンにTwitterでリツイートされ大バズリ。個人のへなちょこイベンターが「100人くらいで遊べたらいいなー」と告知したイベントに1時間で800人申し込みがきたときは恐怖で震えました。
他にも
韓国のマッドフェスティバルを田植え前の田んぼで再現した「泥かけ祭り」
NYで大好きだった「屋外ナイトシネマ」を植物園で開催
などなど。いろんな企画をやりました。
これらのイベントは全て有料で開催しましたが、収益は全て海外のNPOに寄付をし、イベントの最後には参加者にそれを伝えました。
UNHCRで働いていた頃、日本人が「支援」に対してとてもとても高いハードルを持っていることを知り、そのハードルを少しでも柔らかくしたいと思っていました。
必要なのは気持ちだけじゃなく、誰でも楽しく簡単に支援ができる”仕組み”だと思い、それをイベントとして表現していました。
会社員(2013年4月~2020年3月)
世界一周から帰国後、大阪の活性化に直結する仕事がしたいと思い、ちょうどオープンのタイミングだったグランフロント大阪のナレッジキャピタルで働くことに。
1年目は施設運営を。そこから総合プロデューサーの方にお会いすることができ、2年目からはその方が社長を務める株式会社スーパーステーションで企画・プロデュースのお仕事を経験させてもらいました。
ディレクターとして、施設の広報・プロモーション、大型フェスの企画・運営、国際アワードの事務局、コワーキングスペースでのイベント企画・運営など、本当に幅広い業務に携わらせてもらいました。
特に、世界中の面白い活動やアイデアを持っている人を表彰する国際アワード「World OMOSIROI Award」は、自分の価値観を大きく変えてくれた企画でした。ナレッジキャピタルのコアバリューである「面白い」という言葉は、私の好奇心の源泉です。
また2018年からは社長のアシスタントとして「うめきた2期開発プロジェクト」にも参画。長年の夢だった「大阪の未来を創る仕事」に関わることができました。
最先端の研究者や哲学者、宗教家、アーティスト、建築家、起業家など国内外の有識者にヒアリングを行い、2050年の大都市・大阪のあるべき姿を導き出し、そこからバックキャスティングで2025年の開業プランを生み出す。
途方もないスケールと全く理解の追い付かない高度な言葉の応酬、そして多すぎて全体像がつかめない関係者の数に圧倒されながら、なんとか食らいついて過ごした日々。
このコンペの獲得が決まった時は、トイレで泣きました。
2020年に退職するまでの6年間は本当に修行の日々でしたが、仕事に対する向き合い方、考え方、姿勢など「プロとは何か」を学ぶことができました。
社長の口癖だった「死ぬほど考えろ」は今でも震えるパワーワード(笑)ですが、自分が仕事に向き合う際に必ず思い出す言葉でもあります。
20代で決して見ることができない世界を経験させてもらったことは、キングダムで信が王騎将軍に見せてもらった景色と通じるものがあると勝手に思ってます。笑
チャンバラ合戦-IKUSA-(2012年~)
実は会社員をしながら、プライベートでNPO法人の関西代表もやっていました。
同世代の仲間と共に、オリジナルでルールも道具もゼロから生み出した「チャンバラ合戦-IKUSA-」は、ありがたいことに日本全国の行政やお祭り、起業のイベントに呼んでもらえるコンテンツになりました。
任意団体として活動していたメンバーと出会って仲間になり、NPO法人化の際に関西代表に。
徐々に大きくなる依頼の数とメンバーのリソースのバランスを取りながら、組織内のルールをスクラップ&ビルドする日々。
自分が得意な企画や現場運営では貢献できていたものの、組織マネジメントや営業、経営など、本当は代表として自分がやらないといけなかったことを年上の兄さん姉さんのメンバーたちからたくさん学ばせてもらいました。
本業ではないにしろ、スタートアップの「ス」くらいは経験したと思います。笑
またこの活動を通じて、プレゼンテーションという自分の武器にも出会えました。多い時には年間30回以上、全国どこかのイベントで登壇したりプレゼンしていました。
中でもターニングポイントだったのが2015年のTEDxKobe。この時はオーディションから選んでもらい、最終スピーカーとして登壇させてもらいました。
また2019年にはビジネスプランコンテスト「みんなの夢アワード」の全国大会でファイナリスト7人に選ばれ、2000人を前にプレゼンを行いました。
日本一にはなれませんでしたが、水10世代としては司会のガレッジセールさんとステージで絡めたことが何よりの想い出です。
ハードな会社員生活との両立は、今考えるとすごく無茶な生活をしていたと思うのですが、チャンバラの活動は何よりも楽しく、仲間と一緒に成長できる喜びに満ちていました。
飲めない酒屋の息子(2018年~)
実は私、一滴もお酒が飲めないくせに、実家は大阪の松原市にある酒屋という大いなる矛盾を抱えて生きてきました。
ただある時ふと「これもキャッチーかも」と開き直って、親父が全国から厳選した日本酒でイベントを開催するように。
下戸ならではの視点を活かすべく、日本酒好きなイベンターは絶対やらないような(下手したら怒られそうな)ゲームやワークショップを取り入れた実験企画の開発に日々取り組んでいました。
その他(2020年4月~)
またコロナが深刻化した2020年春以降はオンラインでのイベント企画にハマりました。
リアル脱出ゲームが好き過ぎて「オンライン謎解きイベント」を開催したり
全国のクリエイターや企業と連携して、夏休みにオンラインで子供向けの学びフェスを開催したり
参加したオンラインイベントで面白いアイスブレイクを経験したことがなかったので、徹底的に「面白いアイスブレイクとは何か」を追求したイベントを企画したり
神戸078という大型フェスで、下戸の未来について語り合うトークイベントを企画したり
他にも書ききれないくらい、いろんな楽しい企画を、いろんな人と一緒にやらせてもらいました。
なぜフリーランスに?
よく遠慮がちに聞かれるのですが、そんなに隠すようなネガティブな感じではないです。笑
私が会社員を辞めてフリーランスになった理由は、2020年の初めに心身の調子を崩したことと、同時に新しい家族ができるタイミングが重なったことで、自分の生き方を大きく考え直したためです。
あの頃は不思議な感覚でした。自分の最大の武器だったモチベーションがなくなり、好奇心が薄れ、ネガティブな感情にはならなかったものの無気力な状態で淡々と毎日を過ごしていました。
会社と3月末で退職させてもらい、コロナで大騒ぎしている世間を横目に、まぁしばらくゆっくり子育てに向き合おうかなとぼんやりと考えていました。
そんな状態から抜け出せたのは、そんな時に「あ、会社辞めたの?じゃあ一緒に何かやらない?」と声をかけてくれた友人たちのおかげです。
いろんな価値観がぐちゃぐちゃになっていた中で「新しい楽しい世界を創ろう」というワクワクする課題を私に与えてくれたおかげで、育児を楽しみながらも徐々に外の活動を再開でき、爆速で回復しました。
そして、それまでこだわり続けていた”大阪”という地を離れて、香川県で新しいことにチャレンジする決意をすることができました。
緊急事態宣言が出てリアルに人と会えなくなった期間でも、毎日誰かと未来について語り合えたこと。そして妻と子供と向き合えたことで、心も身体も完全復活できました。
2020年に池嶋と遊んでくれた皆さん、本当にありがとうございました。
最後に
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
長文で大変失礼しました(書き始めた時はこんなハズじゃなかった、、、)
でもここまで読んでくださったからには、何かしら池嶋に興味を持ってもらえたんじゃないかと、ほんの少し期待しています。笑
もし機会があれば、何か楽しいことをご一緒できると幸いです。
どうぞ、今後ともよろしくお願いいたします。
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