“よい”記事と“よくない”記事の差
何気なくリンクを開いて読むWeb記事でも、グッとくるものと、なんとなく途中で読む気が失せてページを閉じてしまうものがある。
ふと立ち止まり、よい記事とよくない記事の差を考えてみる。
まず記事の良し悪しは構造的に上から順番に、企画(コンセプト)→取材(インタビュー)→構成(原稿化)で決まる。
根っこの企画が破綻しているといい取材はできないし、取材が微妙だと、原稿が仕上がるはずもない。
いい企画には意外な切り口、独自の視点、企画者の仮説がある。往々にして、擦られた二番煎じ感の強い企画ほど、読者としてのぼくは心躍らない。
で、今回は「いい取材とは何か」ついて考えてみる。
肝となるのは「予定調和」がどれだけ崩されているか。取材のための取材、つまり作業になってしまっていないかどうか。なんとなく用意した質問票を機械的に読み上げ、質問A→答えB、質問A→答えB、質問A→答えB、が繰り返され、並び立てられるだけになっていないか。化学反応としての予期せぬ質問Dや、答えEが創発しているかどうか。
ぼくがライターをやっていたとき、もちろん全力で取材準備はしていた。取材対象者の過去インタビューや書籍は目を通すし、その上で聞いてみたいことはメモ程度で書き記しておく。
その上で、用意した質問票は半ば完全に無視してフリースタイル形式に全神経を集中させていた。
たとえば、PLANETSで連載させてもらっていた『考えるを考える』なんかでは、大枠の連載テーマはさらいつつも、その瞬間のその日の、ぼくの生身のテンションだったり、私的な疑問や不安、ある種の悩みのようなものまで取材の場に持ち込み、インタビュイーにぶつけたりした。
取材をしながら意識したのは、「これならメール取材でいいじゃん」に陥らないようにすることだ。
せっかくお互いに時間を取り、生で取材をするのであれば、その場でしか生まれない対話的なキャッチボールが欲しい。こちらの質問に対し、間髪を容れずにスラスラと答えを投げ返してくれている状態は、取材の完成度として、実はそれほど望ましいものではないと思っている。
むしろ、こちらの問いかけや新しい解釈の投げかけによって、取材対象者が立ち止まり、数秒間にせよ沈思黙考の末、その場で紡ぎ出す思考や言葉にこそ新規性や意外性が生まれることが少なくないからだ。
そのために取材をする側のインタビュアーは、あらかじめこちら側が欲しいと思っている想定問答を引き出そうとするのはもったいない。常に柔らかい頭を持ち、異ジャンルからの引き出し(アナロジー思考)、視野・視点・角度の出し入れやズラす技術、大胆な仮説設定力が求められる。
なので、普段の過ごし方=インプットの方法として、本にせよ記事にせよを読む際は、紙背に込められた意図をメタ的な視点から把握する訓練を日常から心がける必要がある。
とりわけ過去に何度も取材を受けているような方の場合、過去に何度も受けた取材を繰り返すのは野暮というより、食傷を生んでしまう。あえて、こちらの私的な体験や視点をぶつけたり、新しい解釈や捉え方をぶつけてみることで、一回性のナマモノの取材が、取材する側もされる側も楽しめるものになるはずではないか。
取材する側/される側も楽しんでいるからこそ生まれるグルーヴ感は、必ず紙背を通じて読者に伝わる。
取材の現場で生まれた熱量や好奇心の振動が原稿に宿っているかどうか。
それが結果として、いい記事を生むのではないか、そうライター時代を思い出しながら考えた。
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で、最近読んだ記事でよかったものとしてパッと思い出せたのは以下の二つの記事。
ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。