見出し画像

(誰にも強制されていない)私的な文章の書き方

上掲のnoteを端緒たんしょに、文章を書き始めてから一ヶ月が経った。毎日少しでもなにか文章を書きつける習慣が続いている。

noteを書いて公開するたび、毎回必ず読んでくれて「スキ」をしてくれる人たちがいる。しかもその大半が会ったこともない人たちで、なんてあたたかくて、ありがたいことなんだろう、といつも思う。「ありがとうございます」しか言えない。読んでくれる人が一人でもいるかぎり、ぼくは文章を書き続けたいと思う。

あまりに“私的な”文章の普遍と構造

一週間前、「世界を相対化する技術」という題のnoteを公開した。1ヶ月間毎日、朝起きてからの30分を使ってコツコツと書き溜めた文章だ。その分量は気づけば6.5万字程の長大なものとなり、「だれが読んでくれるんだろうか」と不安だったものの、公開するなり今日までたいへん多くの反響をいただけている。

なかでもうれしかった感想が、

本当に本当にありがとう。存在してくれて、いろんな世界を見て、気づいて、感じたことを、言葉を触媒にして丁寧に紡いで、シェアしてくれて。
今年の夏に子どもを産んだのですが、子が歩む人生のどこかで、いつかこの文章に出会ってほしいなと、じんわりと思っています。
人旅本を一気に味わえたお得感すごいです!今3歳になる娘に、相手の地獄をおもんばかる力を備えてほしいし、自己肯定感と無知の自覚を同時に持って欲しいなぁと思いつつ、何事も体験しないとはじまりませんね...!

まず一つ目はリクルート時代の同期が寄せてくれたメッセージで、深い深い闇から這い出て、この文章を書けるまで回復できたことを、自分自身で祝福したくなる想いを与えてくれるものだ。

ぼく自身は自分の人生を一度だけ歩んだだけで(歩んでいる途中)、だれか他の人と比べるための、もう一つの人生を持っていない。だから、商業文章でも、小説でもないかぎり、ぼくが書く文章はどうしても“私的”にならざるを得ない。

だけれど、今回初めてここまで長い私的な文章を書いたことで、またその文章を完読してくれた人たちからの感想を聞いたことで、こんなことを思った。

もしかしたら、あまりにも「個人的過ぎる文章」は、その極端さから、逆説的に、一種の普遍性を帯びるのかもしれない。

そもそも、今回書いた文章のコンセプトと構造をつなげるアイデアは、次の二冊を読んだことによって着想された。『物語の哲学』(野家啓一)『あなたの人生の科学』(デイヴィッド・ブルックス)だ。

デイヴィッド・ブルックスは架空の男女二人の人生の歩みを、生誕から死まで時系列を追いながら丁寧に記述していく。彼は21世紀版の『エミール』を意識して執筆したと明言し、最新の脳科学や発達心理学の知見を手がかりに、意識ではなく無意識が人間の意思決定や生命活動にいかなる影響を与えているのかを、男女二人の人生の物語を通じて克明に描き出していくのだ。

もちろんぼくらが映画や小説をたのしむとき、その物語のなかで描かれる登場人物たちの人生に自らの人生を投影し、重ね合わせ、共感の感情を引き出すことがある。あり得たかもしれない人生の展開を夢想したり、人が等しく出会う葛藤や、苦悩する様をみて、人生のあり方やその意味について思いを巡らせたりする。

自分の人生は一つしかないから、だれかの視点から自分の人生を公正に、客観的に眺めることはできない。だけれど、それは他者も同じことだ。だから、ぼくらは他者の物語を知ることで、自分の物語を相対的に把握し、描き出していこうとする。

スクリーンショット 2021-10-18 16.57.43

『あなたの人生の科学』から得た方法論的インスピレーションを「世界を相対化する技術」に詰め込んだ。ぼくが持っている文章的素材は、ぼく自身の人生を棚卸しすることしかなかった。自意識を初めて獲得したところをスタート地点に、出会った人々、読んだ本、旅を通じて至った思索。その混合的体験を言語化し、物語として語り、浮かび上がるってくる像から、読者の方それぞれの人生と照合させ、意味を考えるきっかけを与えられればと、企図して文章をまとめた。

つまり、なにも自叙伝を書きたかったわけではない。同じ一瞬が二度と訪れぬよう、一つひとつの体験は固有なものだ。だから、ぼく自身の私的な体験を並び立てていくことで、過去を遡及そきゅう的に回想したとき、人生がどう転がって現在まで行き着いたのかを明らかにすることで、普遍的構造の一端が浮かび上がるのではないかと期待した。

“私的な”文章からだけ、にじみ出てくる“自分らしさ”

『世界を相対化する技術』を一旦は、一通り書き終えて思うことは、“自分らしさ”がにじみ出るのは、私的な文章を書くことをにおいてのみであることだ。

ぼくは長らく商業ライターとして、紙媒体/ウェブ媒体を問わず、広く文章を書き続けてきた。主にインタビュー記事を主戦場に、取材した内容を、整理し、構成を組み立て、文章をまとめる作業を延々と繰り返した。

この種のライティングにおいては、ライター独自のアイデアや筆致の個性よりも、理路が整然としており、論理に矛盾がなく、構成や文章の読み易さが求められる。この作業を続けるうち、ある種の「自分の言葉が失われていく感覚」を覚えることがある。アイデンティティ・クライシスといえば、やや大げさではあるが、私的な文章を書き続ける作業は、自分の思想や現在地を明示的に確認する上でも有用なのだ。

私的な文章を書き続けることで、獲得されるのが自分なりの「文体」や「筆致」になるわけであるが、それ以前に「なぜ文章を書くのか」や「なにを書けばいいのか」、あるいは「どうやって書けばいいのか」そのWHY/WHAT/HOWについての迷いや疑問が誰しもにあると思う。

疑問は尽きないにせよ、ぼくからできるアドバイスは「まず、書いてみる」ことしかない。書き続けることで、そうした疑問は具体的に解決されていく。頭のなかでこねくり回すだけでは、むしろどんどんその影は大きなり、原初的な「書いてみたい」気持ちが削がれていく。

じゃあ、なにを「まず書いてみる」のか。

ぼくが思うに、突き詰めるならそれは広義の「日常」にしかないだろうと思う。

人は日常のなかに生きている。日常はありふれていて、陳腐で、なにも面白みがないように感じるだろう。けれど、あなたにとっての惰性は、だれかにとっての憧れかもしれない。同じ一瞬は二度と訪れないように、一瞬の積み重ねである日常もまた、かけがえのないものだ。

スクリーンショット 2021-10-19 9.42.09

この文章の冒頭で、ぼくは「人は比べるための、もう一つの人生を持たない」ことについて述べた。であれば、一人ひとりが持つ日常はどこまでもオリジナルで価値に満ち溢れたものであることを認識することから、文章を書くことがスタートするはずだ。

つまり、「いま生きている」だけで、人は書くための素材、動機を持つはずなのである。では、それをどうやって語ったり、描き出せばいいのか。ライティングにまつわる技倆ぎりょうについては、書き続けることで自然と興味を持ち、一つひとつ身につけていけばいいものだ。言ってしまえば、瑣末な類の重要度しか持たない。

むしろ大切なのは、自分しか持たない日常や体験を、どんな視点から、どんな言葉でつむぎ出すのかが、あなたならではの文章を形作っていくことになる。

書き始めるとき、読者もゴールもいらない

友人のライター・いしかわゆきが書いた『書く習慣』を先日読んだ。

書きたい気持ちは持っているけれど、一歩踏み出すことに躊躇している人の背中を後ろからそっと押す、やさしい語り口で「書くことの素晴らしさ」を教えてくれる本だった。

この本を読むんで、ゆぴちゃんが文章を書き始めたのと、ぼくが書き始めたのには、動機や環境に共通点があることに気づかされた。ふたりとも、初めて訪れたアメリカでの異国の生活が始まり、日記を書くため、筆を取ったのだ。「世界を相対化する技術」のなかでも、そのことには触れている。

帰宅すると、家族で団らん。寝る前は明日の学校の予習と、自分の英語学習の時間(日本から持ち込んだ参考書)、そして日記をつける。いまから振り返ると、「書くこと」を習慣化し、書くことの楽しさや記憶や感情を言語化することの困難さを感じた原点がここにあると思う。人生で初めて暮らす異国の地での一年間を日記として残そう、日本を発つ前に決めたことの一つだった。

「日記を書こうと思った」具体的な理由や狙い自体は、お互いに違うものを持っているかもしれない。けれど、おしなべて語っても、環境が劇的に変わり、日常に揺さぶりがかけられたからこそ、その様子を文章に書き残したり、戸惑う自分の心境を自分自身で確認するために、文章を書き始めたのではないか。

書くことは、意識を向けることであり、考えを深めることであり、自分自身を発見することである。発見を続けることが、また新たな「書く理由」をつくり出していく。

スクリーンショット 2021-10-20 10.20.20

初めのうちは「こんな文章だれが読むんだろう」とは考えなくていい。だれかひとり、文章の宛先を思い浮かべるだけでいい。そんなひとりさえも思い当たらないのであれば、自分のためだけに書くのもいい。過去の自分、現在の自分、未来の自分。どの時点の自分に向けて書いたっていい。あなたに取っての雑感は、いつかその文章を読むだれかにとっての救いになることだってあるかもしれない。

文章を書くプラットフォームとしてのnoteが隆盛し始めた頃、「どうすれば読まれるのか?〜noteについてのnote」を書いた。

このnoteの主眼は、「文章を書くこと」や「書き始めるために」ではなく、あくまでも「どうすれば読まれるのか」である。今回のnoteで主題的に語ってきた「私的な文章について」とはほとんど関係のない話だ。まずは、読まれることすら考えなくていい。どこまでも自分本位の言葉の羅列でいい。書くこと、書き続けることの方がよっぽど大切だ。

そもそも「エッセイ」とは、特定の文章形式やルールを持たない、書き手が思ったこと・感じたこと・考えたことを、自由気ままに書いた文章のことだ。決まりもなければ、そこに質を求めることもない。人の日常、人の思考はそれだけで唯一のものだから。

ゴールのない文章でいい。

自分が文章を書けば、書き続けていけば、文章が人との出会いをもたらし、自分をいつか知らない場所へと連れていってくれる。

少なくとも、ぼくは文章によって導かれてきた。


ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。