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“すべて”を語り合える友人がいない

はやいもので、もう三月になってしまった。

ケニアは一年を通して、暖かく涼しく、過ごしやすい。裏を返せば気候によって季節を肌に感じることがないから、時間の経過を身体的に感じることも少ない。まして、ぼくのように基本的に毎日ポーカーと読書をするだけのルーティンの日常のなかにいると、なおさら時間は時間を感じさせないまま過ぎていく。

今朝は起きてから、ひさしぶりに請け負った取材の原稿の執筆に取り組んでいた。全体の構成をざっくりと頭の中に思い描き、二時間ほど筆を進めたところで書き進めるのに行き詰まり、ジムでひとしきり走った。

シャワーを浴びて、タバコを吸っていたら、ふとこんなことを思った。

ポーカーや競馬。哲学・思想や文学。サッカーや格闘技。自分が関心を寄せる物事はいろいろとある。

でも、そのすべてについて同じような熱量と解像度で、語り合える友人は、一人たりともいない。もう30年以上も人生を生きてきて、たくさんの人に出会ったにもかかわらず、そのすべてを充足してくれる人には未だ出会えていない。

もちろん個々のトピックについて語り合える友人はいる。けれど、分散的だ。

知れば知るほど、孤独になっていく

思えば、マイルドヤンキーライクな家庭環境で育ち、勉強など1ミリもすることなくただ野球やサッカーといったスポーツにだけ明け暮れていた小中学校の日々。そこから読書の悦びに頭を撃たれ、文学を足がかりに、哲学や社会科学などの知の世界へ誘われていった。

先人たちが積み上げてきた知の世界の底はしれなく、ひとつ知れば、知らなかった百の出来事や考え方に出会った。こうした体験はあくまでも私的営為であるから、誰に共有できるわけでもなく、周りの友達との価値観やノリも少しづつズレていった。と、同時に家族とすらも共有話題が乖離していった。知ることは、ある意味で、孤独になっていくことなのだろう。

サッカーやゲームのことくらいしか話すことのないコミュニティのなかで覚える違和感や物足りなさ。だからといって、自分がのめり込んでいる哲学や文学世界のことを口にすることや、共有することができない窒息感。ぼくが抱えていたある種の寂しさは、わりと珍しいことではなく、特定の人生を選び取ってきた人なら誰しもが程度の差こそあれど経験してきたことなのだろうと『勉強の哲学』を読んで実感させられた。

この本の大まかな内容や、ぼくの実体験との符号については、4年ほど前にもnoteにまとめている。

勉強すればするほど、人はダサくなり、ノリが悪くなる。
それでも自己破壊を伴うような深い勉強(=ラディカル・ラーニング)を通じて、自己を変身させ、自由になることができると千葉さんは説きます。

そう、勉強=知ることで、自分は気づかない微差的な次元で、昨日の自分から確実に変身していく。これが毎日繰り返されれば、当然、周囲との隔絶も生まれる。だからこそ、自分と同じ世界観や価値観を共有できる範囲の大きい人に知り合えたときは、込み上げてくる嬉しさに包まれたりもする。

自己の内にある“矛盾”こそが“アイデンティティ”になるのではないか

「変身」はなにも「進化」を意味しない。変わるものと同時に、変わらないものもある。ここに、ちょっとした自己矛盾が生まれたりもする。

シャワーを浴びて、タバコを吸っていたら、ふとこんなことを思った。
ポーカーや競馬。哲学・思想や文学。サッカーや格闘技。自分が関心を寄せる物事はいろいろとある。

冒頭で、僕の趣味嗜好・関心事項をなんとなく列挙しただけでも、人の内面世界に広がる多様性が覗きみえる。

たとえば、高学歴の人ほど酒・タバコといった嗜好品は健康に悪いから手を出さないだろうし、ギャンブルだって同様だろう。

いちおう、大学院で修士号を取るくらいまではまずまず勉強をしてきたし、その過程で理知性や合理性を身につけてたはずと思われる自分は、酒もタバコもギャンブルも大好きだ。結局のところ、ぼくの出自は既述したようにマイルドヤンキーライクな場所にあるわけで、その根幹部分はいつまで経っても自分をある部分では規定し続けるのだろう。

むしろ、こうした矛盾、ある場合においては倒錯、こそが人間を人間たらしめるアイデンティティ=自己同一性を形成しているのではないか。

分かり合えないは絶望でも、分かり合う過程は希望

だから、自分が好きなすべてのことを共有できる絶対的な親友がいないことを嘆く必要はない。ここまで考えを進めてきて、そこにあるのは絶望より、希望に近い気すらしてきた。

自分が抱えるこの種の寂しさは、誰もが抱えているのかもしれない。むしろ、わかり合っていく過程こそが喜びなのではないか。考えてみれば、ポーカーにしても競馬にしても、好きになるタイミング、その起点にはいつだって教えてくれる誰かがいたはずだ。で、あるならば、いつのときも自分は「教えられる誰か」になり得るし、「教えてもらえる存在」であるはずだ。つまり、生まれてから死ぬまで、ぼくらはお互い、オープンエンドに分かり合える可能性をうちに秘めている。

それぞれが抱える矛盾を埋め合わせるために、その隙間を確認し合うために、人と人との新しい出会いはあるのではないか。こうした仮説を持ちながら、『世界は贈与でできている』を読み進めていくと、目から鱗が落ちる記述に数多く出会う。

ぼくらは生まれ落ちた瞬間から被贈与者だ。親から命をもらう。成人になるまで庇護を受けながら、自分はただただ贈与を受け続ける存在であり続ける。親もまたその親によって、その贈与を受けてきた。ある意味、人類の始原から始まったこの贈与の無限連鎖が世界そのものである。

分かってもらえない寂しさ、分かり合える可能性が常に存在する希望。それぞれがうちに抱える矛盾や地獄を、「贈与」的な思考・態度なら癒せるかもしれない、とこの本が着想を与えてくれた。まだ読み終えてはいないので、感想はまた今度。

ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。