「勉強」は人をダサく、孤独にする。でもその自己破壊は「変身」への序章なのである
千葉雅也さんの『勉強の哲学 来たるべきバカのために』を読みました。
昨日行われた読書会でご紹介させていただいたのですが、せっかくなのでこちらにも記録を残しておきます。
「深い勉強」を通じ、ダサさ、ノリの悪さを超えていく
いちおう体としては哲学の入門書的な向きもあると思うのですが、
一読してみて僕が思ったのは、この本が千葉さんご自身の伝記でもあり、エッセイでもあるということです。
そして、僕は強烈に共感しました。
少しだけ自分の個人的な話をすると、
おじいちゃん、お父さん、お兄ちゃん、僕の家はみんなパティシエです。
母方の親戚も大工が多かったりなど、みんな職人。
大学に行く人はほぼ皆無ですが、結果的に僕は大学院まで行っています。
考えてみれば家には本が一冊もなかったり、文化資本には恵まれていませんでした。
それでも本に出会い、世界の広さを知り、抗いがたい知の海へ誘われていきます。
そして読書を重ねたり、勉強をすればするほど、友達と話は噛み合わなくなっていき、もやもやが募り、孤絶感を覚えることになる。
これは当たり前の話で、友達がバラエティ番組を観ているのに、純文学や思想書を読んでいれば、ズレが生じてくるのは仕方がないことでしょう。
地元の友達とは異なる言語・思想を獲得することは、同時に喪失や孤独を引き受けることでもあると思っていたんです。
思い返してみると、「お前は理屈っぽい子供だ」と常々言われ続けていたように思います。
「勉強」をしたことがある人ならば一度は感じたことがあるであろう、違和感や孤独感の意味を、
この本ではフランス思想、精神分析学、社会言語学、そして哲学などの知見を渉猟しながら言語化・定式化していきます。
勉強すればするほど、人はダサくなり、ノリが悪くなる。
それでも自己破壊を伴うような深い勉強(=ラディカル・ラーニング)を通じて、自己を変身させ、自由になることができると千葉さんは説きます。
ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアによる「コードの転覆」
今はそこらじゅうに情報が溢れ、スマートフォン一つで誰でも簡単に勉強をすることができる。
それでも自己破壊を伴うような「深い勉強」とは何でしょうか。
本著では原理編・実践編に分けて、丁寧にそれぞれ解説されているのですが、ここでは原理編のなかでも要諦となる部分のみご紹介できればと思います。
(個人的にポイントとなる部分のみを恣意的に抽出しているので、気になった方がぜひ通読ください)
まずは勉強を深めていく段階を見通しておきましょう。
①単純にバカなノリ。みんなでワイワイやれる。
②いったん、昔の自分がいなくなるという試練を通過する。
③しかしその先で、来たるべきバカに変身する。
そして、自分を取り巻く世界を「環境・コード・ノリ」で考えてみる必要があります。
「ノリ」とは、環境のコードにノってしまっていることである。
自分は環境のノリに無意識的なレベルで乗っ取られている。
ではどうすればいいか。
哲学書ということもあり、一見難解な文章のようにみえますが、論理構成はシンプルで明快。
環境から自由になり、外部へと向かうための本質的な思考スキルとして、
"ツッコミとボケ"を身につける必要があるといいます。
そしてそれぞれを、ツッコミ=アイロニー、ボケ=ユーモアとして思考していく。
アイロニーは「根拠を疑う」こと。
ユーモアは「見方を変える」こと。
そしてツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアは、「コードの転覆」をする対極的な方法である。
①最小限のツッコミ(アイロニー)意識:自分が従っているコードを客観視する
②ツッコミ(アイロニー):コードを疑って批判する
③ボケ(ユーモア):コードに対してズレようとする
来たるべきバカになるため、言葉を手に入れていこう
ここまでの紹介でも本書すべての射程はまったく捉えきれていません。
・勉強と言語−言語偏重の人になる
・アイロニー、ユーモア、ナンセンス
・決断ではなく中断
・勉強を有限化する技術
とある章立てのうち、2章目を軽く触れたに過ぎないからです。
ただ、勉強における「有限化」は非常に重要な概念なので、本著のなかからいくつか引用させていただき、エッセンスを感じ取ってもらえればと思います。
無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には、有限性が必要である。
有限性とつきあいながら、自由になる。
言語は現実から切り離して自由に操作できる、言語操作によって無数の可能性を描く事ができる。
可能性をとりあえず形にする。言語はそのためにある。
上記の章立ては言うまでもなく、連関しています。
論を貫くのは徹頭徹尾、「言語=言葉」とどう付き合っていくかということ。
これは私見ですが、原理的に勉強とは"言葉を手に入れていくこと"に他なりません。
本著では言語使用を道具的(目的的)/玩具的(自己目的的)と峻別し、後者の重要性を指摘します。
つまり、環境の外部=可能性の空間を開くには、「道具的な言語使用」のウェイトを減らし、言葉を言葉として、不透明なものとして意識する「玩具的な言語使用」にウェイトを移す必要がある。
自分を言語的にバラす、そうして、多様な可能性が次々に構築されては、またバラされ、また構築されるというプロセスに入る。それが、勉強における自己破壊である。
深く勉強するとは、言語偏重の人になることである
言語偏重になり、言葉遊びの力を解放する事である。
かなりかいつまんでの感想となってしまいましたが、
「ラディカル・ラーニングの実践書」、勇気を与えられる書だと思いました。
間違いなく自分の個人的な勉強史を捉え返す契機になるはずです。
ちなみに副題のバカ=idiotには、特異性という古代の意味があるそうです。
(千葉雅也著『勉強の哲学 来たるべきバカのために』)
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