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いい原稿にはコンテクストが詰め込まれている

かなり久しぶりに、たぶん二年ぶりくらいに、仕事で取材原稿を書いた。

基本的にライター業は半引退しているけれど、依頼をくれた方が恩師なので、断れるわけもないし、恩師の依頼はなにがあっても引き受けたい。むしろ、いつも気にかけてくれて、ありがたいくらいだ。

そして、ひさしぶりに取材を行い、自分で文字起こしを行い、構成を作って、原稿を書く、一連のライティングをこなしてみた。こりゃ、まあ大変だ。よくもまあ、昔は毎日毎日この作業をできたものだと、昔の自分を褒め称えたくなった。

原稿一本を書き上げるまで、どこに一番時間がかかるか。文字起こしでも、構成でも、ライティングでもない。一番最初に、机に座って作業に取り掛かるまでの空白時間である。まあ、受験勉強とかと同じ話だ。

そんな雑談はさておき、今回はワントピックだけ。

書きながら、“言外”をコンテクストに埋め込んでいく

編集者の方に、ライターとして自分を紹介していただく際に「コンテクストを理解した上で、過不足なく原稿に反映してもらえる信頼感がある」とアウトプットを褒めていただいた。

自分ではそれほど意識したことがなかったポイントだったのだけれど、その言葉を頂戴した上で、今回の原稿執筆作業の終えてみて、「なるほど、たしかに無意識にせよ、自分は原稿を書きながら、コンテクストを埋め込んでいるのかもしれない」とメタ的に理解をすることができた。

『Forbes』なり『WIRED』なり、昔よく原稿を書かせていただいた媒体はあれこれあれども、基本的にぼくが扱うテーマはスタートアップやテクノロジーに関するものが多かった。同じフィールドに足場を置くことで、業界理解は当然のように深まる。知識としての専門用語が身につくことはもちろん、業界における暗黙知の肌感もつく。

これら業界的コンテクストを自分自身が持つ既存の知識と教養に結合させる、論理を整理しながら、言語化し、文章に組み立てる。

インタビュー/取材原稿を書く=言い換える

インタビューや対談原稿を文字起こししただけで、原稿が完成することはまずない。

あくまでも文字起こしは素材に過ぎず、現場のインタビューでなされた発言や会話には、表面に現出していない数多くのコンテクストが埋め込まれている。コンテクストには数多くのレイヤーがある。語彙、発話者のテンションやノリ、背景知識(専門的な理論から一般常識まで)、論理…細かく列挙すればキリがないほどに。

だから、たった一文を作ったり、つなげ合わせたりするのに、いちいち立ち止まることになる。ときには頭を抱えて、身悶えることすらある。

ライターにとって、絶対に忘れてはならないのは「分からないことは、書くな」ということだ。書いている本人が分からないことを、読者が分かるわけがない。むしろ、読者の気持ちや想像力に寄り添い、先回りで「分からない」可能性を潰すのが、職人としてのライターの役回りだ。

論理の飛躍や欠乏は必ず、自分の知識やリサーチ、ときにはインタビュイーへの再質問によって埋めなければならない。

実際、文字起こしを原稿に移していく作業においては、無限の言い換えを行なっている。むしろ、インタビューを元にした原稿執筆を乱暴に一言でまとめてしまえば、言い換え作業に他ならない。

で、言い換えに必要になるのは、前提となる日本語力、文章の正しい書き方。従属する形で、語彙量・知識・教養、そしてその応用としての言語化力・構成力があると考えている。

落合陽一さんの超ハイコンテクストを解きほぐす

ぼくは今まで何百本もの原稿を書いてきたけれど、なかでも群を抜いたハイコンテクストでお話をする方がいる。そう、落合陽一さんだ。

『10年後の仕事図鑑』に始まり、『日本進化論』『2030年の世界地図帳』『落合陽一 34歳、「老い」と向き合う』などの書籍制作にも携わらせていただいた。

そもそもの端緒となったのは、『デジタルネイチャー』の元になったPLANETSでのメルマガ連載の構成ライターに入ったことだ。

大前提、落合さんの話は難解であり、超ハイコンテクストだ。縦横無尽にあらゆるジャンルの知識が入り乱れ、そこに落合さんなりの論理があり、壮大なコンセプトが立ち上がる。正直、こちらの知的体力の限界が都度問われ、アップアップし続ける状態が続く。

だからこそ、原稿を書く=コンテクストを埋める作業は困難を極める。単純な言い換えに収まらず、ささっとググって済むようなリサーチレベルではないことがしばしばだ。

落合さんは若いときに岩波の古典シリーズは全部読破した、というように自然科学やコンピュータサイエンスの知識はもちろんこと、文学や詩、はたまたインド哲学までをも知識としてインストールしているのだ。

仕事とは関係ない場で、お酒を飲みながら「なんかオススメの本ありますか?」と尋ねたら、「あー、あれなんだっけ。小室直樹の対談本。あ、そうそう『日本教の社会学』」と斜め上の選書をされたことは忘れ難い。もちろん、ありがたく拝読したが、当たり前のように難解な内容であった。

もう一つ、落合さんとの仕事で印象深いものがある。『Forbes』で連載を企図して始めた、グローバルでベストセラーになっている本を落合さん視点で読み解くという企画だ(結局、落合さんがあまりにも忙しくて一回だけで終了してしまったが)。

ぼくらが第一回の本として選んだのが、当時はまだ未刊行であった『ホモ・デウス』だ。

まずは、ぼくが原著で読み、そのエッセンスをレジュメのような形へ日本語で要約する。それを取材の場に持ち込み、核となるエッセンス部分に関する落合さんの見解を聞くという、ちょっと変化球チックな立て付けの面白い企画だった。ライターとしてのカロリーは半端ではないが、むしろこちらの知的好奇心もビンビンに刺激される素晴らしい機会ではあった。

その当時、ライターとして構成に携わっていた先の『デジタルネイチャー』の世界観やコンセプトと呼応する箇所を引き出し、落合さんにぶつけ、再構成する。この作業そのものを、コンテクスト化と呼ばずして、なんと呼ぶだだろうか。

まだウェブ上に、その完成稿が残っていたので、ぜひ読んでみてほしい。

一連の落合さんとのこうした作業を通じて、ライターとしてというか、一人の思考する人間としての知的基礎体力を何段階上げてもらったのか、感謝するのみである。

今回は、いい原稿の背景にある「コンテクストを埋め込むこと」について考えてみました。その具体的な作業フロート、前提で必要となる資質のようなものまで。なんらかの参考になれば幸いです。

ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。