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野ブタと黒ヤギ [短編小説]

 八木さんは、いつも私のことを「のぶたちゃん」と呼ぶ。それは私の苗字が信じる田んぼと書く「信田」だからなのだが、初対面の人はほとんどそうは思わない。どうしても、少しぽっちゃりとした私の容姿からつけられたあだ名だと勘違いする。誰もが真っ先に想像するのは野ブタなのだ。
 この勘違いは、名刺交換をすればたいがいは相手も気づくものなのだが、中には最初に受けた野ブタの印象が変わらない人もいる。そういう人は「信田」を「のぶた」と読んでくれない。「しんでんさんですか?」とか「しんださん?」といった「馬鹿なの?」と問いたくなるような間違いを自信なさげに質問してくる。
 確かに少しは珍しい苗字かもしれないが、かといって珍名というほどのものでもない。世の中には「蓮佛」とか「剛力」といった珍しい苗字の芸能人もいるぐらいだ。信田なんて、シャチハタの印鑑も売っているくらいなのだから、「のぶた」と聞けば「信田」に直結する人も少なくはないはずなのに、そうはならないのが不思議でしかたない。
 私はずっとその理由を考え続けてきた。そして立てた仮説は、間違いなく八木さんのせいだということ。私を呼ぶときの八木さんの頭の中には、明確なイメージがある。それは飼いならされていない豚の姿に違いない。だから、八木さんが「のぶたちゃん」と呼んだ瞬間に、聞いた人の頭にも野ブタのイメージが浮かぶのだろう。
 なぜそう思うかというと、私も同じ方法で仕返しをしているからだ。八木さんを呼ぶときに動物の山羊をイメージする。すると、だいたいの人にはそのイメージ通りに伝わるのだと分かった。証言者も数名いるから、これはたぶん間違いない。八木という苗字が、メーメーと鳴くあの山羊としか聞こえなくなるのだという。
 まあ、私が彼を呼ぶ場合は、多少イントネーションを山羊寄りに変えているからというのもあるのだろう。もうひとつ確実性を高めるために、彼が色黒なのを利用して「黒ヤギさん」とあだ名っぽく呼んだ。
 山羊は紙を食べてしまうから、その辺も八木さんにうまく重なった。原稿が書けない時も、人の紙面まで食ってしまうぐらい高評価の記事を書く時も、いつの間にか周囲も八木さんを「黒ヤギ」と呼ぶようになったのだ。
 こうした私の弛まぬ努力もあって、周囲の人たちの印象操作はバッチリのはずだった。ただ予想外だったのは、私と八木さんが職場で公認の動物カップルというあまり有り難くない認知を得るようになったこと。仕事先では面白がられる。そうなると、ライターの彼とカメラマンの私がチームを組まされることも増えていく。
 もちろん仕事とプライベートを公私混同するような二人ではない。というより、周囲が面白がってカップル扱いしているだけで、彼は私を彼女だなんて思っていないはずだ。私の気持ちはというと、やはり友だち以上恋人未満な関係に留まっていた。もうかれこれ半年もそんな状態が続いている。ところが先週、ある雑誌の夏の特集で心霊スポットを訪れることになって、少し状況が変わった。

 神奈川県の奥まった小さな田舎町に、その心霊スポットはある。バブルの頃に作られた高齢者向けの病院が倒産し、今では廃墟となっていた。そこで夜な夜な心霊現象が起きるというのだ。
 最初は地元の若者たちの間で肝試しの場所として話題になっていたらしいが、今では関東近郊からも人が集まってくる。たいがいは数人の男女のグループらしい。そして、そういう場所には付き物のように犯罪事件も連続していた。そんな実態を調査してくるのが私たちの役目となったわけだ。
 八木さんは怪奇現象を全く信じない。どこかの大学の物理学の教授のように、オカルトを敵視していると感じる程だ。一番怖いのは人間だと考えている。だからこそ、編集長もお堅い内容の雑誌でこの題材を取り上げたのだろうし、取材を八木さんに任せたのだと私は思った。
 しかし、私たちの取材ははじめから最後まで難航する。認識を大きく覆される出来事に遭遇してしまったからだ。それは私たちにとって運命的な出来事だったのかもしれない。とにかく、野ブタと黒ヤギが、危うく焼きブタと黒焦げヤギになるところだった。そして、まだまだこの世の中には不可解な事がたくさんあるのだと教えられた出来事でもある。

 取材の日は、お盆の入り日だった。心霊写真を撮るのが目的ではないから、わざわざ休みをずらしてまで私が加わらねばならない理由もない。それなのに、当り前のようにチームに加えられてしまう。
 何の因果だろうと思った。だが仕方ないことでもある。「公認の動物カップル」をどこかで解消しておかなかったせいだ。それでも、二人きりでなかったのだけが幸いだった。今回は大学生アルバイトの桜庭君がアシスタントとして同行していたので、使いっ走りをさせられることはない。
 昼過ぎに編集社の前で集合し、車で目的の心霊スポットである病院の廃墟へ向かった。都内には車も少なくて、予定の時間より早く到着する。まずは明るいうちに外観を撮影することにした。
「桜庭君、この道戻ってさ、コンビニで何か飲み物と食べる物みつくろってきて」
 周囲には店もないから、桜庭君に車で買い出しに行ってもらうことにする。八木さんは、財布から五千円札を取り出すと、桜庭君に渡した。
「ヤギ先輩、炭酸がいいんですよね?」
 桜庭君は私と同じイントネーションで八木さんを呼ぶ。違うのは先輩がつくところだ。ふたりは大学が同じだからそうなる。
 八木さんは色も黒いが、黒い色の飲み物が大好きだ。炭酸で黒い飲み物といえばコーラを思い浮かべるが、こともあろうにドクターペッパーが好きだときている。だから、桜庭君にもいつもの奴ねと注文していた。この点だけは、どうにも共感できない。
 またかよ、という目で見ていたら、八木さんは所どころ雑草に覆われた駐車場に座り込んで煙草を吸いはじめた。
「ヤギさん、今のうちに中を覗いといた方が良くないですか?」
「まだいいよ」
 私の呼びかけに左手を振って答えながら、くわえ煙草のまま手帳に何かをメモっている。八木さんはいつもそうだ。マイペースで効率主義者。取材前にだいたいの記事の構成を考えていた。何度も現場に足を運ぶほど熱心ではない。それでも評判の良い記事が書けるのだから、才能があるのだろう。
 私は彼とは正反対だ。女だてらにどこにでも入り込んで行きたがるし、撮影の手数も多い。もっとも、たくさん撮らないと良い写真を得られないというのが一番の理由だ。特別な才能があるとは思っていないが、良い仕事はしてきたと思える。それも八木さんと出会ってからだから、心の奥ではとても感謝していた。いまひとつ恋愛の対象として踏み込めないのは、そんな思いも理由としてあげられるかもしれない。
「のぶたちゃん、あの女の子の写真撮っておいて」
 急に八木さんが廃墟の屋上を指さしながらそう言った。慌ててカメラを構え、指された方角を見る。だが、人影はない。八木さんを見ると、また手帳に視線を向け、メモを書いていた。
「すみません、もう一度撮る場所を教えてもらえます?」
 八木さんは何度も言うのが嫌いだ。だから露骨に嫌な顔をした。
「もう、何年カメラマンやってんの」
 そう言いながら、もう一度廃墟の屋上を指さす。だが同時に、意外そうな顔をした。
「なんだ、いなくなっちゃったのか。すぐに撮んないからだよ、のぶたちゃん」
 八木さんはいかにも残念そうに言った。なんでも、麦わら帽子を被った白い服の女の子が屋上に佇んでいたらしい。その風情が絵になっていたので、撮ってほしかったという。
「この辺に住んでる小学生だろうね。心霊スポットって言っても子どもたちにとっては良い遊び場なんだろう」
 そんなことを言いながら、八木さんはまた呑気に煙草を咥えた。でも私は違う。半袖シャツから出ている腕に鳥肌が立つ。まだ昼間だからとざわめく心を抑えたけれど、撮影している小一時間の間、人影などひとつも見なかった。もし八木さんが言うように地元の小学生が遊びに来ているなら、もう少し賑やかでも良いのではないだろうか。
「あの屋上って、上がれるんですかね?」
 私は湧き上がってくる恐怖心を鎮めるために、そんな質問を八木さんにしてみた。
「上がれるから女の子が見えたんでしょうが」
 八木さんは、何を馬鹿な事をというように私を見る。そうですよねぇと作り笑いで返したが、やっぱりどこか引きつっている感じがした。ところが、このやり取りが八木さんのスイッチを入れてしまったようだ。
「見晴らしが良さそうだから、行ってみるか」
 急に立ち上がると、八木さんは廃墟の入口へと歩き出す。ちょっと待ってよと思ったが、中を覗こうと先に言ったのは私だから、止める言葉が見つからない。そうこうしているうちに八木さんはどんどん先に行ってしまう。
「ちょっと待ってくださいよ。荷物どうするんですか?」
「そのうち桜庭君が戻ってくるよ」
 身軽な八木さんは本当に呑気だ。やはりカメラだけは置いていけない。私は慌てて二台のカメラを肩に担ぐと、八木さんを追いかけた。山羊だから習性として高い所に惹かれるのだろうと可笑しな連想が浮かんだ。
「やっぱりだいぶ荒れてるなぁ」
 ドアが崩壊した入口から中に入ると、ロビーの待合室が一望できた。椅子は所どころ壊れているし、床には割れた窓ガラスが散乱している。壁にはスプレー塗料で描かれた落書きが幾つもあった。
「昭和って雰囲気だね」
 八木さんから何枚か撮るように指示された。外と違って中はうす暗いので、フラッシュをたいて撮影する。そうしている間にも八木さんはどんどん奥へと踏み入っていくので、いちいち画像を確認していられない。手当たり次第に撮っては、後を追った。

 ロビーの一番奥には二階へとあがる大きな階段があり、八木さんはここでも躊躇なく昇る。二階から上には螺旋階段がのびていた。
「ここからもっと上に行くんだね」
 そんなことをひとり言のように言いながら、八木さんは螺旋階段を上がった。私はやはり人なんていないじゃないかと胸の奥で毒づきながら、パシャパシャとシャッタを切りつつ追いかける。さほど時間は経っていないはずなのに、窓の外が闇夜になっているように黒く見える。そのうち、足もともはっきりしないぐらい周囲も暗くなっていた。
「ヤギさん、ちょっと暗くて危ないんですけど」
 堪らずにそう叫ぶと、もうすぐ屋上だよと返事が聞こえた。少しでも足場の状況を確認しながら進みたくて、私は闇雲にフラッシュをたく。周囲には壁も天井もあるはずなのに、なぜか階段しか見えない。まるで暗闇の中に溶けていくような心持ちだ。私は全ては気のせいだと必死に念じながら、歩を進めた。
「ここが屋上への出口らしいなぁ」
 相変わらず呑気な八木さんの声がした。重い鉄か何かの扉を開けようとする音が聞こえる。だが八木さんもうまく開けられない様子だ。
「重いなぁ。錆びてるのか?」
 時折り足で扉を蹴っているようだ。その度に大きな音が響く。まるで洞窟の中のような響き方だった。そのゴーンという響きの中に、その声が混じってきた。
「来ないで…」
 小学生ぐらいの女の子の声だった。一気に頭のてっぺんからつま先まで鳥肌に覆われた。明らかにこの世の者の声とは思えない、頭の中に直接響いてくるような声だ。
「来ちゃだめ…来ないで…」
 私は暗闇の中でカメラを振り回しながら、シャッタを連射する。フラッシュの充電がついてこれず、けたたましいシャッター音の合間に光が輝く。そのまばゆい光の中に、麦わら帽子を被った白いワンピース姿の女の子が姿を現した。顔色は白く、くちびるだけが異常に赤かった。
「おい! のぶたちゃん!」
 私の悲鳴と八木さんの緊迫した呼び声が闇の中に轟いた。突然、何かが爆発するような衝撃音が響き、私は強い力で地面に押し倒される。視界が真っ赤になり、熱い風が身体を包む。
 毛の焦げた臭いを嗅いだ気がした。あとはもう何が何だかわからない。八木さんの腕に抱きしめられているのだけは辛うじて認識できた。だがそこまでだ。頭を打ったようで、意識が朦朧としてくる。視界が白くなり、やがて闇に変わった。そこから先は何も感じなかった。
 
 気がついた時、私はタンカに横たえられていた。消防車が来ているようで、赤いランプの光が目に入る。男たちの激しく怒鳴り合う声が聞こえた。喧嘩ではないようだ。それ以上に、廃墟が燃えあがっている光景が暗くなった周囲に光を放っていた。
「阿弥、大丈夫か?」
 私の様子に気がついた八木さんが、濡らしたタオルで顔を拭いてくれた。阿弥というのが自分の名前だというのはわかる。だが、八木さんの声で聞くのは耳慣れなくて変な感じだ。近くにいた救急隊員があらためて脈を測っている。全く状況がわからない。廃墟が火事になったのだろうか?
「もう大丈夫だぞ、阿弥。俺たちは助かったんだ」
 尋常ではない周囲の騒がしさを突き破るように、八木さんの声だけが耳に届いた。やがて何台目かの救急車が到着したようで、その中に私が運び込まれる。八木さんは手を握ったまま、私に付き添っていた。理由はわからないが、八木さんが「のぶたちゃん」ではなく「阿弥」と名前を呼んでくれているのが、その頃にはただただ嬉しかった。

◇ ◇◇ ◇ ◇◇ ◇

 私は全治一ヶ月ということで、運び込まれた病院にしばらく入院した。もし炎の爆風を直接受けていたら危なかったそうだ。なぜあんな爆発が起きたのか、その理由はまだ現在捜査中だという。
 八木さんの話では、人気のなかった廃墟で爆弾づくりをしていた者たちがいたらしい。令和になった今になっても、そんな地下活動のようなことをしている人間がいるのかと疑わしかったが、八木さんは執念深く聞き込みをして、かなり確度の高い情報を得たらしかった。
「人を遠ざけるために心霊スポットの噂を流したんだな」
 八木さんは今回の事件を特集にしたいと編集長に掛け合ったらしく、編集部としても異存はなかったらしい。注目の集まっている事件の被害者が編集部の専属ライターとカメラマンなのだから、むしろ喜んでいるとさえ感じたそうだ。
 やがて、ある新興宗教団体の名が警察の捜査線上に浮かんできて、八木さんが追っていたラインとピタリとはまった。犯罪目的だったのかはまだ分からないそうだが、教団の信者が爆弾を作る必要に迫られるとしたら、なにがしかの犯罪性があるのは間違いないだろう。生きていたから良かったが、私が死んでいたら軽くても過失致死は免れない。爆弾が爆発すれば死に至る事も想像がつくのだから、未必の故意だって当てはまる可能性がある。
 ただ、八木さんにはあまり深入りしてほしくはなかった。やはり危ない宗教団体に関わるのは怖い。例のサリン事件などの前例もある。小説や映画を見ていると、特ダネを追った記者が消される物語は案外多いのだ。だから、身体が回復するとともに、私は八木さんへの心配が募っていた。なかなか病室に見舞いに来てくれないことも、心配を増す原因だったといえる。
「ちゃんと労災になるらしいぞ。良かったな」
 八木さんは見舞いに訪れた最初の日に、そう言って笑った。素直じゃないというか、優しい言葉を期待した自分がバカだったのか、まあ二人の関係は今もそんな感じだ。
「私は黒ヤギさんが組織に消されるんじゃないかと心配してましたよ」
「おっ、なんかサスペンスしてるねぇ」
 ますます笑う八木さんの顔が小憎らしい。
「黒ヤギさんがかすり傷で済んだのはラッキー以外の何ものでもないですからね」
「そうだなぁ。のぶたちゃんが身代わりになってくれたんだから」
 本当は逆の事をお互いに冗談で言い合う。八木さんが私を助けてくれたのに、そんなことはちっとも言わない。それが八木さんだし、私も変にしおらしくなろうとは思わないようにした。
 それでも、あの日懸命に名前を呼んでくれた八木さんの顔はたぶん一生忘れないし、あの場所が偽の心霊スポットだったとは微塵も思っていない。私は確かに「来ないで…」と警告してくれた女の子の声を聞いたのだ。
 いったいどんな因縁があってあの女の子の霊が現れるようになったのかは知る由もない。八木さんに話しても、全く信じてくれなかった。頭を打ったせいで、後から記憶が置き換わってしまったのだろうとまで言う。どんなことがあってもオカルトを信じない人なのだ。

 もしかすると、いわゆる守護霊という存在だったのかもしれないと思うようになったのは、その後母から「阿弥」という名前の由来を聞いてからだ。私には生まれるはずだった双子の妹がいるという。二卵性双生児で、妹は途中で成長が止まってしまい生まれることが出来なかった。だから、その途切れてしまった儚い命を憐れんだ祖母が、無事に生まれた方の私に阿弥陀様からもらった「阿弥」という名前をつけたのだという。
 その話を聞いて初めて思い出したことがあった。子どもの頃、よく麦わら帽子の女の子と遊んだ記憶だ。名前も知らない、どこに住んでいるのかも分からなかった女の子。もうずっと思い出すことのなかったその子の面影が、あの日一瞬見えた女の子の顔に重なった。きっと間違いない。私は守護霊となった妹に助けられたのだ。誰も信じないかもしれないが、私は信じている。それで良かった。
 おかげで、私は焼きブタにならずに済んだし、八木さんは黒焦げヤギにならずに済んだ。そして、たとえ一瞬でも八木さんが私の守護霊を見ることが出来たことが嬉しくてたまらない。退院したら、ちゃんと思いを伝えよう。そう心から思った。
 もう一度守護霊の妹に会いたくて、子どもの頃に被っていた麦わら帽子が残っていないか実家に確認している。もしなかったら、新しく買ってでも手元に置きたいと思った。そして八木さんに告白する時は、その麦わら帽子を被っていこうと、今からとても楽しみにしている。

※西條八十の詩『ぼくの帽子』が好きです。だからか、ときどき麦わら帽子を被った少女の夢を見たりします。そんな夢の延長線で、この短編が生まれました。もしかしたら、この二人のキャラで本格的なミステリーに挑戦するかもしれません。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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