法の下に生きる人間〈第10日〉

認知症基本法第8条では、国民の責務として、「認知症の予防に必要な注意を払うよう努める」ことを挙げている。

大きなお世話だと思う人もいるかもしれないが、家族の誰かが認知症になってしまったら、自分も含めてそれを支える人たちは、途方もない試練の道を歩むことになる。

やっかいなのは、認知症が、ガンなどのように生命を脅かすほどの重大な病気ではなく、致命的な事故に巻き込まれない限り、いつまでも生き永らえることができる点にある。

認知症の人は、周りの人の気持ちなどお構いなしに、食後に「ご飯まだ?」と毎日のように聞いてきたり、気づかないうちに所在不明になったり、話し相手になれば同じことを繰り返しエンドレスに話題にしたりする。

そんな毎日をずっとガマンしながら生き続けるのは、同居する家族にとって相当のストレスである。

そうした現実を知っている人からすれば、法律の条文に書かれてあるキレイ事などクソ食らえだと感じるだろう。

何よりも、以前の「その人」ではないという事実と、かつて「その人」と過ごした楽しい思い出さえももう経験できなくなるという事実に直面すると、しばらくの間は、本当に悲しみに暮れてしまうのだ。

しかし、同じことは、逆に自分が認知症になってしまった場合の周りの人にも起こりうる。

そんなことあるわけないと笑ってお互いに語り合えている今こそ、「自分が認知症になったら、どういった対応をしてほしいか」とか「どこまで付き合ってくれる覚悟があるか」とかいうことを、真剣に話し合ったほうがいいだろう。

合わせて、法律の条文のとおり、お互いに悲しむことがないように、今から予防に努めて一日一日を大切に生きるのである。

大学教授については、なぜかほとんどボケている人を見聞きしたことがない。

こういったnoteの記事投稿のように、研究論文の執筆や資料収集の毎日を過ごしていると、脳は衰えないものだろうか。

ぜひ一般人である私たちも、日記をつけるなど、脳の活性化につながることを日課として取り入れてみるとよいだろう。


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