20世紀の歴史と文学(1960年)

1960年1月19日、岸信介内閣総理大臣はアメリカに渡り、日米安全保障条約の改定のための調印を行なった。

この調印が行われても、安保条約の第8条にあるとおり、その後は、「日本国及びアメリカ合州国により各自の憲法上の手続に従つて批准されなければならない。この条約は、両国が東京で批准書を交換した日に効力を生ずる。」ことになっていた。

つまり、例年、1月下旬から6月中旬までの150日間にわたって開かれる通常国会において、国会議員による承認が必要なのである。

だからこそ、当時の野党だった日本社会党は、自民党に対して安保改定に反対の姿勢を打ち出した。

「社会党」という名前から分かるように、日本社会党は、戦後日本において社会主義を標榜し、主に労働組合が中心になり、護憲派として活動した。

社会主義といえば、ソ連と同じ立場のように思うかもしれないが、そこは話が難しくなるのでここではあえて触れないでおく。

ただ、安保改定は、ソ連にとっては脅威だったことは容易に想像できるだろう。

ふつうは、平和条約が結ばれたら、それまで駐留していた連合国軍は撤退し、当事国が今度は独力で戦後復興に向けて歩んでいくものである。

それが、引き続き米軍が日本にとどまり、おまけに基地まで作られることになるのだから、ソ連にとっては迷惑な話である。

日本ではなぜ安保改定に反対の声が上がったのかというと、旧条約にはなかった日本の軍備拡大が懸念される条項(第三条)や、日米がお互いに戦争協力を行う可能性が高くなる条項(第五条)が盛り込まれたからである。

旧条約の第1条の前の文章をよく読んでみてほしい。

「但し、アメリカ合衆国は、日本国が、攻撃的な脅威となり又は国際連合憲章の目的及び原則に従つて平和と安全を増進すること以外に用いられうべき軍備をもつことを常に避けつつ、直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する。」と書いてある。

自民党は、今でも憲法改正に意欲的ではあるが、改憲派の立場だった。

そして、岸信介は、あの東條英機内閣の閣僚だったのだが、A級戦犯として逮捕されても、東條とは違って不起訴になり釈放されたのである。

つまり、また戦時に逆戻りするのではないかという国民の不安が高まり、水爆実験で巻き込まれた第五福竜丸の件もあり、反戦感情が一部では高まっていたのである。

そして、5月半ばに、自民党は強行採決を図ったのだが、そのやり方が汚かった。

あとは6月19日に条約発効が自然に確定するのを待つのみだったのだが、国会内外の反対の声は一段と高まり、激しい抗議デモが行われた。

それに対して、政府は右翼団体や暴力団に依頼してまでデモの鎮圧を図ろうとしたため、とうとう6月15日に、当時の東大生だった樺美智子さんが亡くなるという悲劇が起こった。

岸信介は、改定された日米安全保障条約が無事に発効したのを見届け、混乱の責任を取る形で内閣総辞職をした。

こうして、終戦から15年が経ち、日本は新たな時代に突入することになったのである。




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