歴史をたどるー小国の宿命(54)

頼朝と同じく流された崇徳上皇も、讃岐国でほどなく結婚した。

その結婚生活は、流されて8年後に亡くなったわけだから、きわめて短いものであった。

崇徳上皇は、朝廷から離れた環境に身を置きながら、仏教に傾倒していった。

そして、保元の乱で戦死した人々を悼んだり、自らの行動を内省したりしながら、経典を書き写す作業に没頭した。

その作業によって、いわゆる写本ができたわけだが、崇徳上皇は、それを朝廷に宛てて、京都の寺に納めてほしいと送ったのである。

ところが、後白河上皇は、その書かれた写本には自分に対する呪詛が込められているのではないかと疑い、受理せずに送り返したという。

崇徳上皇は怒りのあまり発狂して、爪や髪を伸ばし、夜叉のようになったといわれている。

死んだときも、閉じられた棺の蓋の隙間から、流れるはずのない血がにじみ出てきたとされていて、これが怨霊伝説として人々の間で広まったのである。

1177年は、頼朝が北条政子と幸せな結婚をした一方で、後白河上皇の身近な関係者が相次いで亡くなったり、安元の大火(あんげんのたいか)が起こったりして、人々は崇徳上皇の祟りだと恐れた。

安元の大火は、鴨長明の随筆作品である有名な『方丈記』でも取り上げられているほど、大きな火事であった。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?