古典100選(45)花月草紙

今日も江戸時代の作品を紹介しよう。

第11代将軍の徳川家斉のもとで、老中として寛政の改革を行なった松平定信の『花月草紙』(かげつそうし)である。

定信の「寛政の改革」は6年ほどしか続かず、幕閣を引退してからは、さまざまな分野において自分の考えを書くことが多くなり、この『花月草紙』も、1800年頃の定信の随筆作品である。

では、原文を読んでみよう。

①風流(みやび)好む者、今の世いと多かれど、いづれをまことの風流とは言ひも定めん。
②ただ月を見、花を見るとても、いかで言はん。
③歌詠み、漢詩(からうた)作るとて、いかで言はん。 
④今の風流といふは、まづ我が名をてらひてんと思ふより、をかしと思はでも、いにしへ人の好みしものはものまねびして、それもて名得んとするもあるべし。
⑤歌詠むとても、よその心より詠み出で、よその口まねびして、人にてらひて誉(ほま)れ得んことをのみ思へば、心にもあらぬことを詠みなし、あるいは奈良の都の古歌を集めて作りなせど、詠みなす心のうちは、今の世の末が末なるふりを改めず。
⑥かくて、いにしへに返せりと思ふもあるべし。
⑦または、世に仕ふる道をもよそにして、人に高ぶる風流もありなん。 
⑧中には謝氏(しゃし)とやらんの、妓女携ふることは、かの器といひ才といひ、世をも人をも治めものして、千歳(ちとせ)の後も名を表はす功あれば、よし良からぬことのありとも、良きに比ぶれば、ものの数ならず。
⑨さるに、何の香(かぐわ)しさもあらで、ただ色に耽けり、酒に飲まれて、かかづりありき、我がすべきことをもせず、晋の世の風流なりと思ふたぐひは、言ふにも足らじ。
⑩ただやんごとなき人は、花を見、月を見るとても、いかで心のままにすべき。
⑪我ひとり面白しとて、夜更くるまで月花の宴に耽けらば、大炊殿(=飯炊きをする所)のあたりはさらなり、従者(ずさ)なんどをはじめとして、睡ることもえせじ。
⑫君は遅く寝ねば、遅くも起き出でなん、末つ方の者は、なほ早く起き出でぬべしと思ひやりて、名残惜しともうち捨てて、寝屋に入るをこそ、そのほど得し風流とは言ふべけれ。
⑬ことに、月花の宴とても、それをばよそになして、たはれたることにのみ夜を明かすなんどは、言ふにも及ばずなん。
⑭いでや、武夫(もののふ)ならば、かの槊(ほこ)横たへて漢詩詠み、弓に矢はげて歌詠みしなんどは、まことの風流なるべし。
⑮皆、我がすべきことをもせず、我がほどを知らで、卑しき者は高きまねびし、高き者ははかなき住ひなんどのまねびし、漢詩作る者は、唐国の物商ふ賤(しず)にてもあれ、うるま、くだらの人も、唐国に近しとてや、その書いたる物など、ことに尊ぶたぐひもあり。
⑯歌詠む者は、雲の上人(うえびと)ならば、いつも名だたる人のやうにおぼえて、拙き歌をも写しものして、もてあそぶもあるべし。
⑰または、古き物集むとて、今の用ある物に換へても、用なき物を求むるもありぬべし。
⑱風流は花の香りなり。
⑲花と実とありて足りなん。
⑳されど、この香りありてこそ、梅は桃にまさりぬれ。

以上である。

風流とは何ぞやというテーマで自分の考えを定信が書き綴っているわけだが、要は、月や花を見て宴会を開き、気取った感じで歌を詠んでも、それは風流を解しているとは言いがたく、真似ごとと同じだと言いたいのである。

⑧や⑨は古代中国の謝氏を引き合いに出しているが、謝氏は知識人であり、自分の持てる知識を40才になって初めて国家のために活かし、政治に貢献した。

つまり、自分が精通している分野において、日々の仕事に向き合いながら思いを歌にしたり詩を書いたりすることが、本当の意味での風流なのだ。


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