【続編】歴史をたどるー小国の宿命(67)

『暴れん坊将軍』のドラマでは、新さん直属の家来(=忍びの者)が男女1人ずついたが、正式な役職名は「お庭番」(おにわばん)と言った。

このお庭番は、実は、吉宗が実際に創設した役職であり、諸大名の動向から世間の実態までいろいろと内密に探らせていた。

ドラマの最後は、必ずといっていいほど、お庭番2人が新さんの応援に駆けつけ、最後に悪徳侍のトドメ斬りをするのがカッコいい。

もうひとつ、『暴れん坊将軍』に登場したのが、町奉行の大岡忠相(ただすけ)であった。

大岡忠相は、吉宗より7年早く生まれ、吉宗が将軍に就任して1年後に、江戸の町奉行に任命されたのである。

それまでは、大岡忠相は、今の三重県伊勢市宇治山田あたりにあった山田奉行所に4年間勤めていて、伊勢神宮の警備などを担当していた。

吉宗によって町奉行に任命されてからは、吉宗が進める享保の改革の担い手となった。

では、実際にどんなことをしたのだろうか。

『暴れん坊将軍』では、今は亡き加藤剛が大岡忠相を演じていたが、め組のオヤジを演歌歌手の北島三郎が演じていたのをご存じだろうか。

「め組」というのは、大岡忠相が創設した町火消制度であり、いろは48組のうちの一つだったのである。

ただし、「へ組」「ら組」「ひ組」「ん組」は、縁起の悪さなどもあって、のちに「百組」「千組」「万組」「本組」に改められている。

大岡忠相は、南町奉行所の役人だったが、江戸には北町奉行所もあった。

南町奉行所は、今の有楽町マリオンにあり、北町奉行所は、今の東京駅八重洲北口に建っていた。明治時代に取り壊されたが、今では石碑が建てられているので、興味がある方は見に行かれてはいかがだろうか。

吉宗は、1721年には「目安箱」(めやすばこ)を設置し、庶民からの陳情などを幕政に反映させた。

そのうちの一つが、1722年に設置された小石川養生所である。小石川養生所は、今では、東京大学大学院の附属植物園の敷地にあたる。

貧しくて医者にかかることができない、薬を買うことができない庶民のために、吉宗は大岡忠相とともに設立に尽力したのである。

『暴れん坊将軍』のドラマでも、小石川養生所はたびたび登場する。

私のように、子どもの頃から『暴れん坊将軍』を観てきた人は、勉強しなくても、テレビだけで江戸時代の生活を楽しみながら学べたのである。





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