20世紀の歴史と文学(1923年)
「天災は忘れたころにやってくる」というのは、物理学者でもあり随筆家でもあった寺田寅彦の言葉である。
1923年9月1日、寺田寅彦が45才のとき関東大震災が起こった。
寺田寅彦は、この地震のとき、上野の喫茶店で友人と紅茶を飲んでいた。
今日は、寺田寅彦の『震災日記より』の原文の一部を紹介することで、関東大震災の様子を知っていただければと思う。
(略)T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「I崎の女」に対するそのモデルの良人(おっと)からの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。
椅子に腰かけている両足の蹠(うら)を下から木槌で急速に乱打するように感じた。
多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。
同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。
その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。
仰向いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみし/\みし/\と音を立てながら緩やかに揺れていた。
それを見たときこれならこの建物は大丈夫だということが直感されたので恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。
そうして、この珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになった。
同じ食卓にいた人々は大抵最初の最大主要動で吾勝ちに立上がって出口の方へ駆出して行ったが、自分等の筋向いにいた中年の夫婦はその時はまだ立たなかった。
しかもその夫人がビフテキを食っていたのが、少なくも見たところ平然と肉片を口に運んでいたのがハッキリ印象に残っている。
しかし二度目の最大動が来たときは一人残らず出てしまって場内はがらんとしてしまった。
油画の額はゆがんだり、落ちたりしたのもあったが大抵はちゃんとして懸かっているようであった。
これで見ても、そうこの建物の震動は激烈なものでなかったことがわかる。
あとで考えてみると、これは建物の自己週期が著しく長いことが有利であったのであろうと思われる。
震動が衰えてから外の様子を見に出ようと思ったが喫茶店のボーイも一人残らず出てしまって誰も居ないので勘定をすることが出来ない。
(中略)その時気のついたのは附近の大木の枯枝の大きなのが折れて墜ちている。
地震のために折れ落ちたのかそれとも今朝の暴風雨で折れたのか分らない。
T君に別れて東照宮前の方へ歩いて来ると異様な黴臭い匂が鼻を突いた。
空を仰ぐと下谷の方面からひどい土ほこりが飛んで来るのが見える。
これは非常に多数の家屋が倒潰したのだと思った、同時に、これでは東京中が火になるかもしれないと直感された。
以上である。
このあとも寺田寅彦の日記は続くが、実際に、当時は強風が吹き荒れていて、その影響であっという間に東京は火の海に包まれた。
当時の死者と行方不明者は、10万人超だったと推定されている。
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