古典100選(8)曽我物語

1192年、源頼朝が鎌倉幕府の初代征夷大将軍に就任したが、その翌年の5月、曽我兄弟が富士野というところで、自分たちの父親の仇を討った事件が起きた。

彼らの父親は、河津三郎祐泰(かわづのさぶろうすけやす)であったが、彼らが幼いときに、工藤祐経(くどうすけつね)の家来に誤って殺害されてしまった。

彼らの名前は、兄が曽我十郎祐成(すけなり)【幼名は一万】、弟が曽我五郎時致(ときむね)【幼名は箱王】という。兄が22才、弟が20才のとき、18年の時を経て、父の仇討ちを成功させた。

なぜこの兄弟の仇討ちが有名になり、現代でも歌舞伎の題材として継承されているかというと、源頼朝がその場にいたからである。

頼朝は当時、征夷大将軍として自らの権威を広く誇示するために、今の静岡県富士宮市で、巻狩りという催事(今で言えば軍事演習のようなもの)を行なった。

この催事の参加者の中に、頼朝の御家人だった北条義時や梶原景時もいたのだが、実は、曽我兄弟が仇討ちしようとしていた工藤祐経も頼朝の家来だった。

兄弟は、工藤祐経の宿を突き止めて、奇襲攻撃を行うが、仇討ちに成功した兄はその場で頼朝の家来に殺され、弟は捕らえられて、頼朝の前に引き出されたものの、頼朝は当初は助命するつもりだった。

だが、工藤祐経の子どもに請われて、弟も殺されたのである。

そんな曽我兄弟の遺児だった幼少期が、次の原文のとおり描かれている。

①兄ききて、「(略)わ殿は弟、我は兄、母はまことの母なれども、曽我殿、まことの父ならで、恋しと思ふその人の、ゆくへも敵のわざぞかし。あはれや」

②「親の敵とやらんが首の骨は、石よりもかたきものかや」と問へば、兄がききて、袖にて弟が口をおさへ、「かしかまし、人や聞くらん、声高し、隠す事ぞ」といへば、箱王ききて、「射殺すとも、首をきるとも、隠してかなふべきか」

以上である。

実の父親は、河津の姓だったが、曽我兄弟の実の母は、夫が殺されたあとに曽我氏と再婚したため、①の文のとおり、「曽我殿、まことの父ならで」と言っているのである。

それにしても、「親の敵の首の骨は、石よりも固いか?」という子どもの会話はドキッとさせられる。

これが、武士の世では当たり前だったのである。

昨日の落窪物語も、この曽我物語も作者は不詳である。

ただ、曽我物語は、室町時代初期に完成したといわれている。

一昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも、曽我兄弟は登場している。

覚えている人は、懐かしいだろう。






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