歴史をたどるー小国の宿命(96)

征夷大将軍である足利尊氏が、弟の直義を追いかけて関東方面に出かけると、京都や奈良は、権力者不在の状態である。

後醍醐天皇は亡くなっているが、息子の後村上天皇は、この隙を見逃さなかった。周りの武士も同様である。

このとき、南朝は北朝と合体したとはいえ、京都には戻れていなかった。だから、京都奪還を目指し、尊氏の留守の間の隙をついたわけである。

尊氏には、のちに第2代の征夷大将軍になる息子の義詮(よしあきら)がいて、義詮が尊氏の不在中の番をしていた。

1352年、義詮は22才、後村上天皇は24才であった。

後村上天皇の側近には、楠木正儀(まさのり)がいた。彼は、あの名将・楠木正成の息子である。

後醍醐天皇と楠木正成の息子同士が協力する様子は、想像するだけでも感慨深いことだろう。

楠木正儀も、当時は22〜23才だったといわれていて、20代前半の若者同士が、南北でぶつかり合ったわけである。

この楠木正儀は、実は、最終的に南北朝が合一する3代将軍の足利義満の治世まで貢献した、非常に優秀な人物である。

彼はどちらかというと和平派であり、主戦派だった後村上天皇とは最初は意見が合わなかった。しかし、強硬だった後村上天皇も徐々に柔軟な考え方に変わっていき、それに伴って、南朝の政権内でも和平案がまとまっていくようになった。

惜しいことに、彼は南北朝合一が実現した1392年には、すでに亡くなっていた。(その3〜4年前に亡くなったといわれている。)

立役者だった彼だけでなく、1368年に後村上天皇が亡くなったとき、ちょうど北朝で3代将軍に就任した足利義満の理解も大きかったのである。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?