古典100選(44)新花摘

今日も江戸時代の作品であるが、時は1777年、10代将軍家治の治世である。

このとき、与謝蕪村が『新花摘』(しんはなつみ)という発句・俳文集を書き始めたのだが、『新花摘』の「新」が付くのは、芭蕉の弟子だった其角(きかく)が1690年に『花摘』を刊行していて、それに倣ったからである。

今日、取り上げるのは、『新花摘』の中の「狐狸談」のうち、狐に関する怪異談である。

では、原文を読んでみよう。少し長いが、読みやすいと思う。

常陸の国、下館といふ所に、中村兵左衛門といへる、あり。
故夜半亭(やはんてい)の門人にて俳諧を好み、風篁(ふうこう)と呼ぶ。
並びなき福者にて、家居つきづきしく、方二町ばかりに構へ、前栽後園には奇石異木を集め、泉を引き、鳥を放ち、仮山の致景、自然の眺めを尽くせり。
国の守も、折々入りおはして、またなき長者にてありけり。
妻は阿満(おみつ)というて、藤井某といへる大賈(たいか)の女(むすめ)にて、和歌の道、糸竹(しちく)のわざにも疎からず。
こころざま優にやさしき女なりけり。
さばかりの豪族なりけるに、いつしか家衰へ、よろづもの寂しく、立ち入る人もおのづから疎々しくなりぬ。
その家のかく衰へんとするはじめ、いろいろの物怪多かりけり。
それが中に、いといと身の毛立ちて恐ろしきは、一年の師走、春待つ料(りょう)に、餅いついつよりも多く練りて、大いなる桶にいくらともなく蔵(おさ)め置きぬ。
その餅、夜ごとに減りゆきければ、何者の盗み去りけるにやと、疑ひつつ、桶ごとに門扇(もんせん)のごとき板を覆ひて、その上にしたたかなる盤石を載せ置きたり。
つとめての朝、こころにくみてうち開き見るに、覆ひはそのままにてありつつ、餅は半ば過ぎ減り失せたり。
その頃、あるじの風篁は、公けのことにあづかりて、江府にありけり。
されば、妻の阿満、よろづまめやかに家を守りて、参り仕ふる者までにも情け深く、慈悲心ありければ、人皆いとほしと涙うちこぼすめる。 

ある夜、春のまうけにいつくしき衣を裁ち縫ひてありけるが、夜いたく更けにたれば、家子(けご)どもはみなゆるしつ、眠らせたり。
我ひとり一間に引き籠もり、隅々方々閉ざし、つゆうかがふべき仮隙もなくして、灯し火明らかにかかげつつ、心静かに物縫ひてありけり。
漏刻(ろうこく)声したたり、やや丑三つならんと思ふ折節、老いさらぼひたる狐のゆらゆらと尾を引きて、五つ六つうち連れ立ちて、膝のもとを過ぎ行く。
もとより妻戸、障子、堅くいましめあれば、いささかの虚白だにあらねば、いづくより鑽(き)り入るべき。
いとあやしくて、目離れもせず目守りゐたるに、広野などのさゆるものなき所を行きかふさまにて、やがて掻き消つごとく出で去りぬ。
阿満はさまでおどろしともおぼえず、はじめのごとく物縫うてありけるとぞ。 

明くる日かの家に訪(とぶら)ひて、「いかにや、あるじの帰り給ふことの遅くて、よろづ心憂く思(おぼ)さめ」など、問ひ慰めけるに、阿満いついつよりも顔ばせうるはしく、のどやかにものうち語り、「昨夜、かくかくの怪異ありし」と告ぐ。
聞くさへ襟寒く、すり寄りて、「あなあさまし。さばかりの不思議あるを、いかに家子どもをもおどろかし給はず、一人などか堪ふべき。似げなくも剛におはしけるよ」と言へば、「いやとよ、つゆ恐ろしきともおぼえず侍りけり」と語り聞こゆ。
日ごろは窓打つ雨、荻(おぎ)吹く風の音だに恐ろしと、引き被(かづ)きおはすなるに、その夜のみ、さとも思さざりけるとか。
いといと不思議なることなり。

以上である。

故・夜半亭というのは、すでに亡くなった蕪村の師匠のことである。

その師匠の弟子の風篁の奥さんが「おみつ」であり、ふだんは雨風の音さえ怖がる人なのに、(桶にたくさん保管していた餅が夜ごとに持ち出される事件の犯人である)狐の五六匹の連れが、丑三つ時に自分の膝元を通り過ぎてかき消える怪異現象を目のあたりにしても平常心でいられたというお話である。

与謝蕪村は1784年、68才で亡くなった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?