【続編】歴史をたどるー小国の宿命(29)

清州会議で決まったことは、次のとおりであった。

まず、領地の再分配に関しては、織田信長の次男の信雄は尾張国を、三男の信孝は美濃国を与えられることになった。

そして、信長には四男もいたのだが、生前に秀吉の養子として出されたので、羽柴秀勝(はしば・ひでかつ)と名乗っていた。

その羽柴秀勝は、明智光秀の領地だった丹波国(今の京都・大阪・兵庫の一部)を与えられた。

秀吉の領地は、河内国(大阪府東部)と山城国(京都府南部)に加えて、秀勝の領地も実質的に自分のものになったわけだから、織田家の筆頭家老だった柴田勝家の領地面積を上回った。

柴田勝家は、織田信長の父親であった信秀の時代から織田家の家臣として仕えており、秀吉よりもひと回り以上も年上であった。その上、筆頭家老であれば、一番多く相続できたはずである。

しかし、他の家臣が秀吉とともに山崎の戦いで明智光秀を追討していたとき、柴田勝家は、北陸で足止めを食らって参加できなかったのである。

そういったこともあり、信長の仇を討った秀吉のほうが発言権も大きく、柴田勝家は不本意ながらも秀吉に従うしかなかった。

ただ、勝家の不満をなるべくおさえたい秀吉は、信長の妹と結婚することを認めたのである。お市の方と呼ばれた信長の妹は、天下一の美人だったらしく、勝家も好意を寄せていたという。

当時、お市の方は35才であり、勝家とは25才も離れた年の差結婚であった。

しかし、天下取りの野望があった秀吉は、ほどなく清州会議での決定を反故にする。

当初の決定では、織田家の家督相続について、亡き信忠の息子である三法師(=信長の孫)が引き継ぎ、信長の次男・三男の信雄・信孝を後見人としていた(三法師がまだ3才だったため)。

勝家は、本当は信孝を後継者に推していたところを、清州会議でしぶしぶ認めたのである。だが、数カ月後に、秀吉が勝家のいないところで、他の家臣の同意も得た上でこの決定を破棄し、後継者を次男の信雄にするとして勝手に決めた。

このことを後になって知った勝家は、激怒した。そして、自身が後継者として推していた織田信孝とともに秀吉に対抗するが、信孝は美濃国に侵攻した秀吉軍に屈服することになる。

さて、その頃、家康はどうしていたのか。

続きは明日である。




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