古典100選(41)藤原隆信朝臣集

藤原定家が絡んでいる古典作品は、本シリーズでも過去に登場しているが、今日もまた定家が登場する作品を紹介しよう。

『藤原隆信(たかのぶ)朝臣(あそん)集』である。藤原隆信自身が書いた作品である。

藤原隆信は、藤原定家より20才年上であり、異父兄である。つまり、隆信の母が定家の父である藤原俊成と再婚し、定家を生んだのである。

藤原俊成は、藤原道長の玄孫(=孫の孫)であるから、定家は道長の血筋を引いているが、隆信は家系が異なる。

だが、隆信の曾祖父(=藤原知信)は、実は現天皇陛下の直系の祖先である。

では、原文を読んでみよう。

母に侍りし人、こころざしはかたみにおろかならずながら、中将成家、定家など、その妹たちもあまたうち続き出できて、後(のち)は我が身ひとつ父替はりたる身にて、いと心細ながら、それにつけても、いよいよこころざしは浅からず思ひ交はして過ぎ侍りしに、心よりほかなることによりて、年の三年(みとせ)まであひ向かふこともなかりしを、たまたま仲よくなりて、日ごろ月ごろの恨みも忘れて、あはれにかなしくのみ思ふほどに、その年の如月(きさらぎ)の頃、はかなく見なしつるを、かかりけるものゆゑ、三年までいぶせくて過ぎにけるかなしさも、いよいよ限りなく、また、ありありてかく今はの時にも仲よくなりて、後のわざなど、本意のままに宮仕ひつる親子の契りの深さも、ひとかたならずおぼえて、法性寺(ほっしょうじ)といふ所の山の奥に納むとて、泣く泣くおぼえける。 

【隆信】
三年まで    恋ひつつ見つる    面影を 
飽かでや苔の    下に朽ちなむ 

おのおの忌みに籠もりあへる中に、少将定家、この母のおぼえなりけるを、かの少将、ことわりも過ぎて思ひ悲しみて、我が身ひとつのことになむ侍りけるとて、いたう嘆き沈みて、ひとつうちなれど、文(ふみ)に書き続けて言ひつかはしたるを見るにつけても、いとど悲しさまさりて、返りごとに書き添へ侍りし、 

【隆信】
数ならぬ    身にだにあまる    悲しさは
君を問ふべき    言の葉もなし

少将、これを見るに、いとど堰(せ)きやる方(かた)なきことなど書きて、 

【定家】
墨染めに    同じ袂(たもと)を    やつしても
我をや問へと    思ひ置きけむ

まことに誰よりも、さこそは思ひくづほれ給ふらめと書きて、また、これより、 

【隆信】
やつれぬる    袖にもなほや    まさるらん
思ひ置きけむ    色の深さは

かくて春も暮れぬれば、名残りさへいとど尽き果てぬる心地して、卯月(うづき)の一日、またかの少将のもとへ、 

【隆信】
今年こそ    惜しまで春を    過ぐしつれ
まさる別れに    心くだけて

二日は四十九日なりければ、返し、

【定家】
過ぎ果つる    名残りこそげに    悲しけれ
昨日のながめ    明日のほどなさ

以上である。

母を亡くした悲しみを、隆信と定家が共有し、二人で和歌を詠み合った出来事が描かれている。

隆信の母は、1193年に亡くなった。京都の東山にある法性寺に埋葬されたことが書かれているが、このとき、隆信は52才、定家は32才だった。

ちなみに、ピンと気づいた人もいると思うが、ちょうど源頼朝が鎌倉幕府を開いて間もない頃である。

4月2日が四十九日と書いてあるので、隆信の母は2月半ばに亡くなったことが分かるだろう。

例年であれば、春を惜しむ時期なのに、その余裕もないくらい悲しみに暮れていて、あっという間に四十九日を迎えた状況がうかがえよう。

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