歴史をたどるー小国の宿命(99)

今の大阪府河内長野市にある金剛寺付近には、後村上天皇が一時的に政務を執っていた天野行宮(あまののかりみや)があった。

そこが、南朝の天皇の御所だった。

楠木正儀が北朝に寝返った年、南朝の勢力は総大将を失ったことで、しばらく大きな動きはなかった。また、楠木正儀自身も、1年ほどは南朝に対して争いを仕掛けることもなかった。

それから4年後の1373年、楠木正儀は、北朝の仲間とともに、今の河内長野市まで遠征し、南朝の臨時の都であった天野行宮を陥落させた。

すでに南朝の勢力は、衰退が始まっていたのである。

この陥落を受けて、長慶天皇は逃げ出した。もともと後醍醐天皇が政務を執っていた奈良の吉野に戻ったのである。

しかし、南朝の勢力は、大阪や奈良だけとは限らない。それ以外の地方から、南朝の勢力が束になってかかってきたら、戦いはいつまで経っても終わらない。

そこで、室町幕府は、各地の守護(平安時代までは国司だった官職)の権限を拡大させた。全国に広がっている南朝と北朝の勢力は、互いに戦をするための食料や武器の調達を必要としていた。

幕府は、守護の権限を拡大させ、費用を賄うために、農民からの年貢の半分を徴収してもよいという許可を与えたのである。

そのためには、幕府に敵対している(つまり、南朝側の味方でいる)と、損である。

足利義満は、そういったやり方で、次第に権力の中央集権化を図っていったのである。

しかし、一方で、幕府に対抗できるくらいの「大守護」になった一族もいた。それが、山陽・山陰地方を中心に権力を握っていた山名氏である。

最終的には、山名氏と足利義満率いる幕府軍は、1391年の明徳の乱で戦うことになる。

この戦いに決着がついたことで、義満による南北朝合一がとうとう実現したのである。








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