古典100選(40)十六夜日記

今日は、藤原定家の子ども(=三男)である藤原為家の側室だった阿仏尼(あぶつに)の『十六夜日記』を紹介しよう。

阿仏尼が58才の頃に書かれた日記であり、その数年後に彼女は亡くなった。1281年(鎌倉時代中期)のことであり、この頃は、二度の元寇(1274年と1281年)に対して、執権北条時宗のもとで、御家人たちが果敢に戦った年だった。

北条時宗も阿仏尼が亡くなった翌年に、わずか32才で亡くなっている。

阿仏尼は、2人の姉妹と一人娘に恵まれていたが、彼女がそれぞれに手紙を出したことが書き綴られている部分が日記にある。

では、原文を読んでみよう。

暁(あかつき)、便りありと聞きて、夜もすがら起きゐて、都の文(ふみ)ども書く中に、ことに隔てなくあはれに頼みかはしたる姉君に、幼き人々のこと、さまざまに書きやるほど、例の波風激しく聞こゆれば、ただ今あるままのことをぞ書き付けける。 

夜もすがら    涙も文も    書きあへず 
磯(いそ)越す波に    ひとり起きゐて 

また、同じさまにて故郷に恋ひ偲ぶ妹の尼上にも文奉るとて、磯物(いそもの)などの端々もいささか包み集めて、 

いたづらに    布(め)刈り塩焼く    すさびにも
恋しや馴れし    里のあま人

ほど経て、この姉妹二人の返りごと、いとあはれにて、見れば、姉君、 

玉章(たまづさ)を    見るに涙の     かかるかな
磯越す風は    聞く心地して

この姉君は、中院(なかのいん)の中将と聞こえし人の上なり。
今は三位入道とか。
おなじ世ながら遠ざかりはてて、行ひたる人なり。 

その妹の君も、「布刈り塩焼く」とある返りごと、さまざまに書き付けて、
「人恋ふる涙の海は、都にも、枕の下に湛(たた)へて」などやさしく書きて、 

もろともに    布刈り塩焼く    浦ならば
なかなか袖に    波は掛けじを

この人も安嘉門院(あんかもんいん)に候ひしなり。
つつましくすることどもを思ひ連ねて書きたるも、いとあはれにも、をかし。

ほどなく年暮れて、春にもなりにけり。
霞(かすみ)籠めたるながめのたどたどしさ、谷の戸は隣なれども、鶯の初音(はつね)だにもおとづれ来ず。
思ひ馴れにし春の空は忍びがたく、昔の恋しきほどにしも、また都の便りありと告げたる人あれば、例の所々への文書く中に、「いさよふ月」とおとづれ給へりし人の御もとへ、 

おぼろなる    月は都の    空ながら
まだ聞かざりし    波のよるよる 

など、そこはかとなきことどもを書き聞こえたりしを、確かなる所より伝はりて、御返事(かえりごと)をいたうほども経ず待ち見奉る。 

寝られじな    都の月を    身に添へて
馴れぬ枕の    波のよるよる

以上である。

阿仏尼は、旅先(=磯の香りや波の音が聞こえる海辺)から手紙を送ったわけだが、今のように郵便制度はないので、たまたま都(=京都)へ手紙を託してくれる人が見つかって、急いで夜通し起きて自分の姉妹に手紙を出したのである。

一人娘には、翌年の春先に、ウグイスの初音もまだ聞こえないというもどかしさを感じながら、月を話題にした歌を贈っている。

「涙」という言葉があるように、阿仏尼の旅は楽しいものではなく、この日記は、京都と鎌倉の往復の道中もしくは鎌倉滞在時の心境が描かれている。

彼女は、自分の親族の所領トラブルの訴訟のために、遠い鎌倉と京都を往復していたのである。

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