【続編】歴史をたどるー小国の宿命(85)

混沌とした幕末のことを書いていると、書いている内容までいろんな状況に左右されて、わけが分からなくなりそうである。

書いている自分がそんなことを言っていてはダメであるが、とにかく幕末は、徳川家茂、和宮、孝明天皇、井伊直弼、島津久光に加えて、新選組の存在も重要である。

これまでの経緯を振り返ると、幕末の志士の活躍の原動力は、発言力のあった孝明天皇の存在にあることがお分かりだろう。

もちろん、黒船来航によって攘夷運動が高まりを見せたことも否定はできない。

だが、孝明天皇ほど物言う天皇が、江戸時代にいただろうか。

振り返れば、鎌倉時代は、後鳥羽上皇が承久の乱を起こして北条義時と対立し、鎌倉幕府が倒れるきっかけとなったのは後醍醐天皇の挙兵であった。

平安時代末期は、隆盛を極めた平氏が都落ちして幼い安徳天皇が入水して亡くなり、源氏が実権を握り、源頼朝が鎌倉幕府を開いた。

室町幕府は、守護大名が台頭して戦国大名として生き残り、最後は織田信長が15代将軍の足利義昭を追いつめて、事実上の滅亡となった。

その後は、ご存じのとおり、秀吉の治世となり、関ヶ原の戦いから大坂冬の陣と夏の陣を経て、徳川家康が天下統一を成し遂げた。

したがって、鎌倉時代末期(1330年代前半)の後醍醐天皇の倒幕運動以来、実に530年ぶりに、倒幕運動の波に巻き込まれる天皇の存在がクローズアップされたわけである。

ただ、気をつけたいのは、孝明天皇は、江戸幕府を倒したいわけでもなく、過激な攘夷思想を持っていたわけでもなかった。

だが、諸外国は、日本国内の攘夷運動が広がっているのは、条約勅許を認めない孝明天皇の存在が大きいことに気づき始めた。

そして、1865年には、大阪湾に艦船が寄港し、まだ実現できていなかった兵庫港の開港を、改めて強く求めた。

それでも、兵庫港の開港は、孝明天皇が死ぬ1867年まで実現しなかったほどである。

ただ、朝廷の足元の京都では、新選組をはじめ幕末の志士たちの対立が激化し、不穏な空気が漂い始めていた。

いよいよ来週、江戸時代が終わる。最後の将軍・徳川慶喜に加えて、西郷隆盛や岩倉具視も登場して、明治維新に向かうことになるのである。




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