古典100選(62)閑居友

今日は、歴史好きな人なら知っているであろう空也上人(くうやしょうにん)の登場するお話である。

2年前に、東京国立博物館にも展示された「空也上人立像」の口から「南無阿弥陀仏」の声を具現化した小さな阿弥陀仏像が出ているのに珍しさを覚えた人もいるだろう。

紹介する作品は、『閑居友』(かんきょのとも)といって、鎌倉時代の承久の乱の翌年(=1222年)に成立したのだが、空也上人は、平安時代前期に活躍した。

京都の東山区にある六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)は、もとは951年に西光寺として空也上人によって建立されたと言われているが、空也上人が亡くなった後に弟子たちによって977年に中興され、六波羅蜜寺に改称された。

以下に示すお話は、文学史上は、大和物語・宇津保物語・蜻蛉日記が成立した時代にあたる。藤原道長が生まれる頃(=966年)である。

では、原文を読んでみよう。

①昔、空也上人、山の中におはしけるが、常には、「あな、もの騒がしや」とのたまひければ、あまたありける弟子たちも、慎みてぞ侍りける。
②度々かくありて、ある時、かき消つやうに、失せ給ひにけり。
③心の及ぶほど尋ねけれども、さらにえ遇ふこともなくて、月ごろになりぬ。
④さてしもあるべきならねば、皆思ひ思ひに散りにけり。
⑤かかるほどに、ある弟子、なすべきことありて、市に出でて侍りければ、あやしの薦(こも)引きまはしたる中に、人あるけしきして、前に異やうなるもの差し出だして、食ひ物の端々受け集めて置きたる、ありけり。
⑥「いか筋の人ならむ」と、さすがゆかしくて、さし寄りて見たれば、行方なくなしてし我が師にておはしける。
⑦「あな、あさまし。もの騒がしきとのたまはせし上に、かきくらし給ひてし後は、ふつに、世の中に交じらひていまそかるらんと、思はざりつるを」と言ひければ、「もとの住処のもの騒がしかりしが、このほどはいみじくのどかにて、思ひしよりも心も澄みまさりて侍るなり。そこたちを育み聞こえんとて、とかく思ひめぐらしし心のうちのもの騒がしさ、ただ推し量り給ふべし。この市の中はかやうにて、あやしの物、差し出だして待ち侍れば、食ひ物おのづから出で来て、さらに乏しきことなし。心散る方なくて、ひとすぢにいみじく侍り。また、頭に雪をいただきて世の中を走る類あり。また、目の前に偽りを構へて、悔しかるべき後の世を忘れたる人あり。これらを見るに、悲しみの涙、掻き尽くすべき方なし。観念たよりあり。心静かなり。いみじかりける所なり」とぞ、侍りける。
⑧弟子も涙に沈み、聞く人もさくりもよよと泣きけるとなん。
⑨その跡とかや、北小路猪熊(いのくま)に石の卒塔婆の侍るめるは、いにしへはそこに市の立ちけるに侍る。
⑩あるいは、その卒塔婆は玄昉(げんぼう)法師のために空也上人の建て給へりけるとも申し侍るにや。
⑪まことにあまたの人育まんとたしなみ給ひけむ、さこそはと思ひやられ侍り。
⑫あはれ、この世の中の人々の、いとなくとも事欠くまじきものゆゑに、あまた居まはりたるを、いみじきことに思ひて、これがためにさまざまの心を乱ること、はかなくも侍るかな。
⑬命の数満ち果てて、ひとり中有(ちゅうう)の旅に赴かん時、誰か随ひ訪(とぶら)ふ者あらん。
⑭すみやかにこの空也上人のかしこきはからひに従ひて、身は錦の帳(とばり)の中にありとも、心には市の中に交はる思ひをなすべきなんめり。

以上である。

①の文で、空也上人が「物騒がしい」と言ったことについて、弟子たちはてっきり自分たちがうるさかったのだと思って静かにしたのだが、実はそういうことではなかったというお話である。

行方をくらました空也上人を、一人の弟子が市で見つけたときに、空也上人が⑦の文のとおり語ったのが、答えである。

この答えの内容が理解できれば、空也上人の言いたいことが分かるだろうか。

要は、多くの人が集まる中で、その集団に溶け込んでいる間は、心が平穏だと言いたいのである。

ただ一人でうじうじするくらいなら、人が集まるところで自己を集団と同一化して、置かれた環境でその時間を流れに身を任せて生きれば良いではないかということなのだろう。

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