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『神の子どもたちはみな踊る』村上春樹著

『神の子どもたちはみな踊る』
村上春樹著


阪神大震災とサリン事件を受けて書かれた物語と言われている。
文字を追って読むと、複雑な想いとか、ずっしりくる重さと軽やかさを感じるのだけど、何だか、スッキリしない。

テーマは何なのか探ってみたい。

まず、主な登場人物

善也:25歳の男性で、宗教に没頭する母親と暮らし、父親は不明。
母親:善也の母は18歳で彼を出産し、相手との関係が壊れた後、宗教に没頭。
父親:善也の父親は不明だが、母親の元恋人である医者の可能性があり、右耳たぶは、犬に噛まれてしまって一部なくなっている。
田端さん:善也の母が宗教に入るきっかけを作った人物、若くして癌で死亡。

25歳の善也は母親と同居。母親は妊娠後、新興宗教に出会い、善也を神(お方)の子だと信じて信仰を広める。一方、善也は信仰を捨てて、自身の父親かもしれない男を尾行する。父親かもしれない男を見失い自問自答の末、踊り始めるという話。

キーワードにあたるものを挙げてみた。

①「善也」(ヨシヤ):物語の主人公
「ヨシヤ」はヘブライ語で「神は存在する」という意味がある。旧約聖書でのヨシヤは正義と信仰の象徴で、彼の治世は偶像崇拝からの回心。善也は、性交によって生まれたのではないのだと母親は、聖書のキリスト誕生の物語の如く信じているのだけど、母親は、処女ではないので、やや信憑性は薄い。

②「カエル」(≒善也の恋人は、善也のことをカエルと呼ぶ)

1. 変化と変容:成長、進化、自己改革といった変化と変容を象徴する。
2. 二元的存在:カエルは水と陸の両方で生活することができるが、これは、異なる視点や状況に対応する能力を象徴する。
3. 再生と再生能力:カエルは再生や新たな始まりを象徴する。
4. 聖書ではカエルはエジプトの偶像崇拝の裁きの象徴だが、神の創造物としても賛美されている。


③『ピッチャーマウンド』とは、

1. 個別性と自己責任:ピッチャーズマウンドは投手の個別性と責任を象徴する。自分の行動と結果に責任を持ち、流れをコントロールする役割を象徴する。
2. 孤独と挑戦:人生の試練や困難に対する哲学的なメタファーとして解釈される。
3.「今を生きること」や「現在に集中すること」の重要性を表現している。

ここから見えてくることは、善也、母親、父親、田端さんには、すべて、というか、人が関わる全ての物事には、二面性があるということ。そして、人は、個々の出来事の二面性のなかで、悩みながら生きている。すべてを超越したところに、神様がいる。神様は、その存在を信じてさえいれば、全てを受け入れる。ということなのかと思った。

新興宗教の細かな拘束に疑問を持った善也は、「お方」(神様)の子としてではなく、生の人間の子供として、生物学的な父親をさがすのだけど、見つけることができなかった。そして、さがす意味がないことに気づく。取り残された、野球場のピッチャーマウンドの上で、善也は、本物の神様から、命が与えられているということに、気づく。今を生きることに喜び、神の子どもとして、踊るということなのだと理解した。

ちなみに、聖書では「踊り」は普通に考えると神への賛美や喜び、感謝や奉仕を表すのだけど、偶像崇拝や堕落の象徴でもあったりもする。

様々な想いを持って、善也は、カエルのような踊りをしたのだと思う。

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