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ベンチャーとしてのコロンブスの航海 財務官の奔走(1/2)

ベンチャーはシリコンバレーに始まったにあらず、太古の昔から、志ある発起人の奮闘によるベンチャーが多々あった。コロンブスの航海もそう。彼ら発起人たちは、新技術や新構想を信じ、周りを説得して巻き込み、資金を動員し、時の権力者も動かして、その後の歴史を大きく変える偉業を成し遂げてきた。

おそらく教科書的な通説だと、「コロンブスの航海」とは、スペイン王室のイサベル女王がジェノバの商人コロンブスの航海計画に関心をもち、王室の庇護を与えて資金支援して、もともとヨーロッパからインドへの西廻りの近道を見出す航海の計画が新大陸発見につながったということになろう。

歴史を紐解くと、王室が支援してという簡単なことではなくて、実際にはもっと複雑な背景があった。コロンブスだけでなく、エンジェル投資家というかベンチャー・キャピタリスト的なおもしろい人物が奮闘していたのがわかる。ベンチャーを後押しした、レコンキスタの終了やスペインの宗教異端審問などの、歴史的背景もみえてくる。そして、コロンブスが王室に提案し何故か王室がのんだ、彼のベンチャーの成功報酬案の内容も驚き。このPostでは、以下2回にわけてその歴史を拾いながら、ベンチャー投資的な視点で、コロンブスの航海について考えてみる。

なお、タイトルの絵は、コロンブスにあらず、資金調達に奔走した、中世のベンチャー・キャピタリスト?のアラゴン王国財務官ルイス・デ・サンタンヘルの肖像画。


事業機会と新技術の実用化

まずは、経済的動機というか事業計画の投資家への提案の掴みとしての「事業機会」について。「金銀や高価で取引される香辛料を入手できるインドへの最短距離の航路の発見と独占」というのがそれ。危険で遠い陸路や、アフリカを迂回しての航路よりも、短くて安全な航路は、莫大な経済的利益を王室にもたらすことが可能。まあ、今風にたとえたら、宇宙旅行プランで、月になにかすごい高価な資源があってその往復を安く早くする方法が可能なんです、やってみましょう、というような企画か。

「新技術」としては、コロンブスがインドへの最短距離となりうる5つの理論根拠をあげていたというが、当時すでに信じられていた「地球球体説」と、イスラム学者やトスカネッリらによる西廻りインド航路の距離の推計でかなりの短距離でインドに到達できるという計算。これが「ベンチャーで実用としたい技術」。距離については残念ながら、当時は地球には大陸は3つだけで(アメリカ大陸の存在を知らなかった)西にいけばアジアに到達するという間違いから、4000キロ程度にかなり短く見積もられているものであった。不正確だったが、発想はよかった技術的発想。今風にいうと、なんだろう、超音速コンコルドは技術はすごかったがなんとも商業的に実用的でなかったというような。

ポルトガルでのシード動員の試み

今のイタリアのジェノバ出身の商人のコロンブスは、まず1484年に、当時彼が弟と住んでいたリスボンのポルトガル王室に事業計画提案を試みる。饒舌に熱弁をふるう起業家コロンブスに王ジョアン2世は興味をそそられたというが、王室の諮問委員会は否決。

理由としては、大西洋への航海は何度か試みられたがすべて失敗していたこと、一方で南のアフリカ探検は別の探検家がコンゴ王国との接触に成功し喜望峰に達する寸前まで来ていたこと。そして、コロンブスの成功報酬の要求だった、高い地位や権利そして成功報酬としての収益の10%というのが、過剰すぎたということ。今どき、この収益の1割の成功報酬というのはつつましい要求だと思うが(創業者なんですが10%のエクイティでいいです)、同じコロンブスが後述のスペイン王室に提案したのは1割以外にもっとえぐい条件。でもまだ駆け出し?のコロンブス、ポルトガル王室の委員会にはこの1割だけも法外とされてしまった。

再度コロンブスは提案を上奏したが決定は覆らず、ジョアン2世はコロンブスが自費で航海をするならばよいと言うのみだったが、コロンブスにはそのような資金がなく借金さえ抱えていたという。結局、このころ、コロンブスは妻フェリパを亡くし、1485年半ばごろに、8年間過ごしたポルトガルを離れスペインに移った。

なんとこのイタリア人、当時の航海王のポルトガル王室にアイデアを売り込むために8年もかけたが、結局つれない返事しかもらえなかった。借金も抱え、失意の中で私生活でも奥さんが死去し、自分で金だして航海するなら応援するよと王様に言われてもねえ。でも、これで挫けなかったのがコロンブスのすごいところか。当時彼はすでに30歳を越えていたはず。

スペインに移ってのシードマネー動員努力継続

航路の最短距離といえば、話は脱線するが、私事、2001年頃だったか、ある香港の大学教授が特許をもっていた技術で、インターネットで通常のTCP/IPのプロトコールよりもすいている経路を探し出して迂回させるCDNという技術の会社のシードラウンドの資金調達に関わった。残念ながら事業は提携相手がうまく見つからず計画通りにはいかなかったが、社長の踏ん張りで事業内容を変えて生き残っている。「新たな経路を見出す技術」のベンチャーというのはいつの世にもあるもんだなあという話。

さてコロンブスであるが、1486年にお隣のカスティーリャ王国(今のスペイン)セビーリャに移住している。そしてセビーリャでは、富裕な商人や権力者のサロンに足繁く通って自分の学識や人柄をアピールしつつ、ころをみはからっては、富裕層ビジネスマン相手に彼の西廻りインド航海計画ベンチャーについて熱弁を奮った。これ、今の世にも通ずる、ベンチャーのアーリー・ステージのエンジェルやシード資金や協力者探しのプロセスか。おそらく、コロンブスくんは、持論の説得の能力も優れていたと思うが、聞く人を巻き込む人間的な魅力もたっぷりある人だったに違いない。ちょっと前まで怪物が住んでて海の果てだった西のほうへの航海に金をだしませんかという話なんて、聞いてもらうのも大変だったのではないか。ベンチャーの発起人には、聞く人を共感させて巻き込んでいく魅力も大事。

コロンブスの説得がだんだんと功を奏して、カスティーリャの有力者何人かから船調達や食料などでの支援をとりつけることに成功した。それで物事にはずみがついてくる。こういう最初の支援者は重要。それら支援者たちは、こういう計画は王室への許可を得るべきだよと動いてくれる。有力者たちがカスティーリャ王国のイサベル1世へ計画を知らせると、女王自身が興味を示したという。そして、ついに、コロンブスはコルドバでイサベル1世とその夫フェルナンド2世に謁見する。

今で言ったら、「小売業でのベンチャーだったら柳井さんにあってみなさい。私が紹介するから」とか、「こういう技術だったらインテルのベンチャー投資部門に相談してみたら。紹介するよ」とか、「こんな国家規模の話につながるのは、政府系のベンチャーとかに話してみたら。経産省の知り合いいるよ」。共感してくれた有力者たちによる、そんな展開だろうか。

コロンブスにとってとてもラッキーだったのは、イサベラ・カスティーリャ女王と夫のフェルナンド2世アラゴン国王はその後の大航海時代に栄華を極めた近世スペインの基礎を築いた統治者夫婦で、とくにイサベラ女王は聡明なことで知られていたこと。敬虔なカトリックで、未開の土地の人間をカトリックに帰依させるというコロンブスの説得もよかった。コロンブスの話にフェルナンド2世はあまり興味を持たなかったが、イサベル1世は惹きつけられたという。

イサベル女王は敬虔なカトリック信者だから、金儲けの話しとしてじゃなくて、カトリックを未開の地に布教するという意義を強調してピッチしてみようと、コロンブスくんは雄弁を奮ったのだろう。なかなか賢い。こういう起業家いる。相手にあわせて、とても効果的な説得ができる人たち。

でも女王が興味あるからといって話がきまるほど甘くはない。上場大企業の役員がおもしろいといってくれただけでは会社は動いてくれない。再び、コロンブス計画は王室の諮問委員会で評価されることになる。まあ、王室が諮問委にかけるまでいっただけ大変なことだが、諮問委は、そんじょそこらのVCの投資コミッティよりも厳しかったようだ。

1486年だけで二度、委員会は開かれたが、そこではコロンブスが示したアジアまでの距離が特に疑問視され、結論は持ち越されてしまう。これは数字に強い科学的に鋭い洞察をもった委員がいたということだったのか、新しいものには懐疑的な委員がいたからだったか。さすがのコロンブスも論破できなかった。この諮問委はスペインの大学都市サラマンカで開催されている。今日では、サラマンカの広場には地球儀を抱えたコロンブスの銅像がある。

諮問委の結論はなかなか出ず、時間だけがすぎていった。じつは、コロンブスに好意を持った委員会のメンバーの何人かが委員会が否定的結論を出そうとすると引き延ばしにかかっていたということだったようだが(コロンブス的には、それ教えてよ、こっちはてっきりだめかと思ったよというところか)。待っている間、しかたなく、コロンブスはポルトガルのジョアン2世に再度手紙を送ったが、ポルトガルは喜望峰発見でそれどころではなかった。また、コロンブスは弟バルトロメをイギリスやフランスの王室に送って計画のピッチをさせたが、支持は得られなかった。VCはいくつかあれども、一番期待のVCは委員会ばっかで返事がでてこない、あとのVCも提案は続けるが反応かんばしくなく、この分野の有力VCは競合技術で浮かれている。

スペイン王室は、1489年に、今の金にして9万円くらいの1.2万マラベディスの王室からの年間顧問料(retainer)とコロンブスが王室に謁見する時に必要な宿泊と食費を無料にする通達を出すなど、金銭的援助は行って決して彼を邪険にしていた訳ではなかったという。コロンブス的には、そういうのありがたいけれど、やっぱり航海の実現が自分の切望するところなんで、これでごまかして生殺しにしないでよというところか。出資はしてくれないが、めしはよく奢ってくれるVCみたいな話か。

1490年、諮問委は結局、提案に反対する結論を出した。すぐ、王室の書簡が届き、提案の検討は枢機院に移されたことが知らされる。が、翌年、枢機院も案を否決。それでコロンブスは、1491年に、スペインも6年いたがだめだったかと、次は弟バルトロメが滞在するフランスへいってみようと思う。

この時、奇跡というか、彼の運命を決定づけることが起こる。フランスへ行こうとするコロンブスをスペインに引き止めた人がいた。

ベンチャー・キャピタリスト?

それが、ルイス・デ・サンタンヘル。このポストのタイトルの肖像画の人物。コロンブスと同じジェノバ出身の彼は、当時イザベル1世の旦那のフェルナンド二世のアラゴン王国(当時はカスティーリャとアラゴンは同君連合王国)の財務長官。

財務長官といっても Escribano de Racion (直訳だと配給担当の書記官)という職務は役人というよりも当時は有力な商人が担当していたということなので、王室に信用され登用された有力商人といった人だったか。今でも、トランプ政権のウィルバー・ロス商務長官もバイアウト・ファンド出身だったり、ミッチ・ロムニー元大統領候補もたしかベイン・キャピタル出身だったか。

このコロンブスと同郷の商人のサンタンヘルは、コロンブスの計画をおもしろいと思い、イサベラ女王説得に乗り出す。このPost後述のサンタンヘルを主人公とする小説では、サンタンヘルがユダヤ教からカトリックに改宗した改宗者(コンベルソ)だったことが、レコンキスタ後に激しさを増した異教審判を危惧して海外に活路を見出そうとしていたことが協力の背景にもあったということが示唆されていたが、なぜ、支援に走ったかはよくわからない。小説ではコロンブスの人柄と情熱に動かされてと描かれているが。

サンタンヘルによる王室への説得のロジックは、あくまでも王国内部の人間として王国へのメリットそしてリスクを語りつつ、レコンキスタ運動も引き合いにだして大局観も語り、そして、しまいには資金は自分がどうにか調達するから王室としてはお墨付きだけ与えればいいという提案までしてしまう。歴史書でその部分を読んで、僕は、え、王室は金は出さない!、資金調達はサンタンヘルがやるのか?!と驚いた。

まあ、想像するに、航海は今で言えば規制業種で、なにをやるにも政府許可が必要なので王室のお墨付きが必要だったいうことなのか、それとも、政府が支援というと資金動員がやりやすくなるということだったのか。宇宙旅行ベンチャーでNASA協力ベンチャーですといったほうが資金調達ができるし、実施にはプロジェクトを進めやすいといったところか。

サンタンヘルは具体的には以下で女王を説得。コロンブスの提案の条件はとてもアグレッシブだが(このPostで詳細後述)、新航路発見で見込める王室への収入からすれば問題にならない内容だと説得。また、1492年1月2日にムーア人の最後の拠点であったグラナダが陥落したことで失地回復のレコンキスタ運動が終わり、スペインに財政上の余裕ができたと指摘。さらには、商人として、航海に必要な資金は自分が大部分について出すし、足りない部分は自分が動いて借りると説明したという。

それで元々から興味を持っていたイサベル1世は賛同して、夫フェルナンド2世を説き伏せ、王室はついに6年越しのコロンブスの計画を承認することになる。背景には、女王を始めとする王室の、財務官サンタンヘルへの信頼も多々あったのだろう。

ドラマチックなのは、この時、コロンブスはまさにフランスへ向けてグラナダを出発したところだったが、王室の伝令が彼を追いかけ、グラナダ郊外のピノス・プエンテ村の橋の上でコロンブスに追いついたという。

コロンブスのベンチャー立ち上げの試みは10年以上、シード確保に幾度も頓挫しながら、最後には、時の運と、権力者による共感、そして投資側をうまくとりまとめてくれる能吏に恵まれ、やっと実現へと動く。とくにサンタンヘルが動いてくれたことが、このベンチャーにとって企画実現への決定打だったと思う。

翌年の「意思、国、みつける」1492年に、コロンブスは王室との契約「サンタフェ契約」を締結して、数ヶ月後のその年の8月に、コロンブスが率いる3艘の船が西へと航海に出る。インドへの西廻り航路を求めて、新大陸を発見することになる航海に。 (その2に続く) ■

参考
林家永吉「コロンブスの全航海の報告」(岩波文庫)、

クリストファー・コロンブスの項(Wikipedia)

Kaplan, Mitchell James ”By Fire, By Water"



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