【小説】千人の指さす所

地方の住宅街と自治会(町内会)を舞台にした長編ミステリ小説です。約12万字。

人物


古瀬美咲:33歳 東京で仕事をしていたが、在宅ワークができるようになったため実家に帰る
古瀬敏子:60歳 美咲の母、自治会の書記担当

五島岳:自治会長 68歳
東陸男:会計担当 65歳
島本拓也:広報担当 40歳
佐藤留美子:防犯担当 63歳
玉木裕子:衛生担当 60歳
鈴木レイ子:副会長 72歳
三田浩二:副会長 72歳

各班班長
1班:佐伯美子 57歳
2班:高崎達子 66歳
3班:金田一基 55歳 居酒屋の大将
4班:金田恵子 60歳
5班:水上孝二 42歳 警察官
6班:酒本サチ子 38歳 美容院経営
7班:芝山明美 59歳
8班:福井優里亜 22歳

窪園雄太郎:34歳 美咲の同級生 元板前で失業中
古瀬光俊:美咲の父。美咲が子供のころから行方不明

第一話


 ホールスタッフ募集<BR>
 10:00~23:30で3時間以上勤務できる方<BR>
 土日勤務できる方歓迎、経験年齢不問<BR>
 時給1200円(ただし22時以降は1440円)<BR>
 交通費別途支給、ユニフォーム貸与<BR><BR>

 アットホームな職場です。私たちと一緒に働きませんか?<BR>


 美咲はディスプレイに表示されたその記述を、マウスポインタでなぞって削除した。そして、「ただいま募集しておりません」と打ち込んで、ファイルを保存した。
 今年の四月以降、飲食業や観光業は想像を絶する不況に見舞われた。その破壊力は、一瞬で全てを薙ぎ倒して粉微塵にする竜巻のようでありながら、いつまで経っても終わらず延焼し続ける火事のようでもある。
 美咲は会社からの指示を受けて、クライアントのウェブサイトをメンテナンスする作業をしている。
 クライアントは中小のBtoC事業、つまり小売店や飲食店などが多い。
 ウェブサイトから求人募集の内容を削除する指示が、毎日のようにやってくる。そして、あるいはウェブサイトそのものの削除の指示もある。
 お店が閉店または倒産したのだろう。
 作業自体は十秒も要さない単純なものだが、誰かもしくは何かの終わりを告げる作業は、あまり気分の良いものではなかった。
 ノートパソコンのキーボードから手を離し、コーヒーを飲んだ。マグカップのなかですっかりぬるくなったコーヒーは、舌の根に微かな酸味を残す。
 さて続きをやろうと思ったところで、家の一階からインターホンが鳴る音が聞こえてきた。
 美咲は部屋を出て、
「はーい」と言いながら階段を下りた。
 玄関の三和土に出て、母のサンダルに足を突っ込みドアを開いた。
「回覧板です」と、そこには六十代の女が立っていた。
 隣家の主婦の大黒《おおぐろ》だ。
「あ、どうも」回覧板を受け取りながら美咲は言った。
 大黒家には美咲より四歳年下の幸子がいて、子供のころは一緒に遊んだり、大黒宅に呼ばれてお菓子をごちそうになったりすることもあったが、小学校高学年くらいになると四歳差という年齢差がずいぶんと大きく感じるようになったため、疎遠になってしまった。
 ちなみに幸子は、今は県北のほうで専業主婦をしているらしい。すでに子供も二人いるようだ。
「もしかして美咲ちゃん、お仕事中じゃった?」
「ええ、まあ」
「お邪魔してごめんね。お母さんはまだお仕事やね?」
「はい」
「そう、じゃあお母さんにもよろしく伝えといてえね」
 そう言って大黒は去って行った。
 緑色の大型バインダーの形をしている回覧板の表《おもて》には、「第二新光集落回覧板 五班」とプリントしてある。それを開くと、そこには次のようなことが書いてあるA4の紙がバインダーに挟まれていた。

***

九月五日
自治会長よりお知らせ

①九月二十三日に予定していた公民館での敬老会は、新型ウイルス流行のために中止になりました。

②本年十月より燃やせるゴミの収集が月・木から月・金に変更される予定です。お気を付けください。収集ゴミの分別にご協力をお願いします。

③すでにお知らせしているとおり、地区別運動会は来年に延期されております。具体的な日時は他の自治会と協議し、決まり次第お知らせします。

④感染症予防のため、手洗いやマスクの着用、三密の回避に引き続きご協力ください。

⑤……

***

 そこまで読むと、美咲は回覧板から目を離した。
 読むまでもない。その文書を作成して印刷したのは美咲なのだから、内容は全て承知している。
 ふつう、地域の自治会や町内会というものは、「○○町自治会」や「○○町町内会」とその地域の住所や町名が冠に付いた名称になっているものだが、美咲の実家があるこの地域は、「第二新光集落自治会」という名称になっている。ちなみに「新光町」という住所はこの市内にはない。
 三十五年前に市と大手建設会社が共同で山のふもとを開発し、宅地造成して戸建て用敷地として売り出した。造成された区画は大きく二分して売り出され、不動産業者がそのひとつを第一新光集落、もうひとつを第二新光集落と仮称として名乗ったものが、今でも引き続き使われている。
 自治会は、トップである自治会長と二名の副会長、そして渉外担当、防犯担当、広報担当、会計担当、書記担当の役員、合計八名で構成されている。
 また、合計八つあるブロックにそれぞれ一名ずつ、連絡役の班長が置かれている。ちなみに各ブロックは十五戸から二十戸の家で構成されており、第二新光集落は空き家になっている家を除いて、合計百四十六世帯で構成されている。
 毎月、第四水曜日の夕方から、集会所で定期の自治会会議が開催され、役員及び班長は特段の事情がない限りは参加しなければならない。
 役員班長の選任方法はくじ引きだが、くじに当たって役員または班長を一年務めれば、その後五年は役員や班長就任を免除されることになっている。
 もちろん、進んで役員や班長をやりたいなどと思っている住人は皆無で、誰もがこのくじに外れることを心から願っていた。当たるにしても、役員が欠けたときのバックアップ要員でほとんど仕事のない副会長になることを期待した。
 今年度四月からのくじ引きで運悪く美咲の母親の敏子が、書記に当たってしまったのだ。
 書記の主な仕事は、役員班長会議での内容をまとめ、回覧板で住人に報知すべき情報があれば、その文書を作成して広報担当役員まで届ける、というものだった。広報担当役員は、その文書を回覧板に挟んで各班長まで届け、そして班長から順番に各班を構成する家庭へ回覧するということになっている。

 美咲は紙をめくっていちばん後ろに挟まっている回覧表を見た。
 そしてボールペンを手に取り、スラッシュの区切られた小さい枠のなかに今日の日付である「9」と「15」を記入して、そのすぐ下の枠に、「古瀬」と書き込んだ。
 回覧表を見ると、向こう隣りの鈴木家の日付が九月十四日になっていたので、回覧板は鈴木家か大黒家で一泊したのだろう。署名をする欄は、フルネームを書いているものもあれば、苗字をカタカナで書いてあるもの、枠を左右にはみ出しながらシャチハタ印鑑を押してあるものなど、いろいろある。
 美咲はさっそく隣の加藤家に回覧板を持って行こうと思ったが、昼過ぎのこの時間帯は留守にしていることが多い。靴箱の上に、無造作に回覧板を置いた。
 部屋に戻ると、スクリーンセイバーが動いている画面を見て、ノートパソコンのすぐそばに置いてあったマルボロメンソールの箱の口を開く。空になっている中身を見て、一時間ほど前に吸ったのが最後の一本だったことを思い出した。
 キーボードのエンターキーを叩いてスクリーンセイバーを解除し、画面の時刻を確認すると、午後三時四十八分だった。
 美咲は立ち上がって、白のTシャツを脱いで長袖のシャツに着替えた。そしてツバの長いキャップをかぶる。
 スニーカーを履いて玄関を出ると、まだ夏の熱気で満ちていた。
 玄関に鍵を掛けて門扉を出ると、美咲は自分の住んでいる家を眺めた。敷地六十坪の一戸建てはすでに築三十年を超えている。白かった塀はすっかり色あせて、ところどころに緑の苔が貼り付いている。
 ここに家を持つことを強く希望したの父だったと、美咲は母の敏子から聞いたことがあった。市の中心部からは十キロほど離れており、決して便利な立地とは言えない。農村と言ってもよい地域を抜けて、山のふもとにいきなり現れる密集した戸建て群は、異様な雰囲気に満ちている。
 集落のなかを歩いて、集会所の前を通り、その横の公園をちらりと横目で見る。公園と道路を隔てる金網に、「第二新光中央公園」という古びた看板が掛かっているが、「中央」などとたいそうな名前にはふさわしくない、大中小の各サイズの鉄棒とブランコがあるだけのふつうの公園。
 子供のころは、この公園で美咲もよく遊んだものだが、集落は少子高齢化しているため、最近はあまり利用する人がいないようで、公園の地面はびっしりと夏を越えた雑草に侵されていた。年に二回、この公園の草むしりをすることも自治会役員の重要な仕事だと母が言っていた。
 十分あまり歩いて、第二新光集落を超えて第一新光集落を抜けると、道路の左右は農地や耕作放棄地に囲まれる場所に出る。
 道路の右側を歩いていると、左車線を軽自動車が通り抜けて行った。しかしその軽自動車は、いきなり減速し、そのまま停車した。
 気に留めず通り過ぎようとすると、軽自動車の運転手の男が運転席からこちらを見ている気配を感じた。
 そして運転席の窓が下に降りていく。
 いったい何なんだろう、まさか昼間から道端でナンパでもしてくるつもりだろうか。
 そう思って歩く足を速めると、
「ねえ、すみません。あなた古瀬さんじゃないですか? 古瀬美咲さん」という声が聞こえてきた。
 いきなり自分の名前を呼ばれたので、立ち止まって振り返る。帽子のつばを少し持ち上げた。青いシャツを着た、短髪で丸顔の男が運転席に座っている。
 どなたですか、と問おうとした瞬間に、一気にいろんなことを思い出した。
「やっぱり、みっちゃんだ。ひさしぶりやん。覚えとる?」
「あー、ゆうちゃん!」と美咲は言った。
 窪園雄一郎。美咲と同い年で、第二新光集落の八班が属する区画住んでいる。子供のころはよく一緒に遊んでいた。いわば、幼なじみという関係になるのだろう。
「みっちゃん、こっち帰ってきとったんやね。いつ?」雄一郎は言った。
「うん、今年の四月くらいに」
「へえ、全然知らんかった。……で、今どこ行きよるん?」
「ちょっと、コンビニに」
「コンビニって、公民館前のファミマ?」
「うん、そう」
「ほいじゃ、乗ってく? 俺もちょうどそっちのほうに行くけん」
 雄一郎はそう言って助手席のほうを指さした。
「いや、いいよ。すぐ近くだし」美咲は軽く手を振ったが、
「遠慮しなくてもええて、どうせついでなんやし」
 雄一郎は、せかすように左手の親指で助手席のドアを指している。
「それじゃ、お願いします」
 そう言って美咲は助手席に乗り込んだ。
「十五年ぶり、くらいかな。もっとかな」と美咲は言った。
 冷房の風が矢のように細く直接頬に飛んでくるようで、冷たい。美咲は帽子を脱いだ。
 幼なじみとの思わぬ再会に、気分が少し高揚していることを自覚する。
「そんなになるんか。みっちゃん、ぜんぜん変わっとらんね。後ろ姿ですぐわかった」
「ゆうちゃんもぜんぜん変わってないよ。不思議だなあ。お互いちゃんと歳取ってるはずなのに」
「みっちゃん、まだ独身やね」雄一郎は遠慮なしにそう言う。
「なんでわかるの?」
「だって、指輪してない」
 言われて美咲は自分の左手を上げて見る。
 そしてハンドルを握っている雄一郎の手に視線を移した。
「ゆうちゃんも?」
「いや、俺はバツイツ」平気な表情のままそう言った。
「あらら、そうだったの」
「七年くらい前になるんかな。二十七のときに結婚したんじゃけど、三年ももたずにダメになってしもて」
「そう。子供は?」
「元嫁さんとこに、女の子がひとり。今年で五才」
「そう」
 同級生がすでに結婚し子供もおり、さらに離婚したと聞かされても、美咲はそれほど驚かなかった。実際、昔からの同級生の友人はほとんど結婚しており、独身なのは美咲ほか数名ほど。
「で、みっちゃんは何でコンビニ行くのに歩いてた? 車は?」雄一郎が言った。
「あ、いや……、私ペーパードライバーだから」美咲はそう言いながら少し恥ずかしさを覚えた。
「ああ、そっか」雄一郎は納得した様子で言った。
 地方で生活するには、車は必須だと言ってもいい。鉄道も路線バスも本数が少なく、生活の足にするにはあまりに不便だ。だから家庭に一台どころか、成人一人に一台が必要となる。
「大学卒業した後も、東京の会社に就職してずっとあっちで暮らしてて、免許はあっても車を運転する機会がなかったから……。こっち帰ってきてからは、ちょっとした買い物は歩いて行ってて、遠くに行く必要があるときは、お母さんに乗っけていってもらってるんだけど」
「そう。てことは、会社辞めてこっちに帰ってきたん?」
「いや、今年の春先から、会社が完全リモートワークになっちゃってね。あっちで借りてた部屋はそのまんまにしてるんだけど、どうせ通う必要がないなら、戻って来ないかってお母さんが言ってね。まあ、あっちの部屋を引き払って完全にこっちに戻ってくるか、また向こうに帰るかは、まだ決めてないんだけど。会社のほうも、リモートを継続するかどうかまだ決めかねてるみたいだし」
「へえ、都会のほうじゃ、今やそういうのが主流なんやね。仕事内容はどんなの?」
「今は大手IT屋の子会社に勤務してるんだけど、企業のウェブサイトをデザインしたり、メンテナンスしたり」
「すごいんやね。俺そっち方面のこと、ぜんぜんわからけん」
「ぜんぜんすごくないよ。単純作業に毛が生えたようなもん。今どき中学生でもちょっと慣れればできるようなことだし。私たちIT屋の作業員なんて、『デジタル土方』とか『IT土方』とか言われてるくらいだしね」
 車通りのない交差点を曲がって、視界の先に目的地であるコンビニの看板が見えてきた。
「ゆうちゃんは、今どうしてるの?」
 雄一郎は高校卒業後、県庁所在地の○○市にある調理師専門学校に進学したことを美咲は思い出した。
「ああ、俺、今失業者なんよ。今日もこれから職安に行くとこじゃったんじゃ」
「あら、そうなの?」
「学校卒業した後、○○市の高級料亭に修行のつもりで就職したんじゃけどね」
「高級料亭って?」
「知ってるかな、『たむら』っていうところ。『た』は田んぼの田で、『むら』は平仮名の」
 美咲もその「田むら」という名前は聞いたことがあった。県内で最も有名な料亭で、地元の政治家や企業経営者が会員となっていて、よそから来た賓客をもてなすときにも選ばれる料亭だった。もちろん美咲は田むらに行ったことはない。
 雄一郎は話を続ける。
「高級料亭って、給料めちゃくちゃ安いんじゃ。夜は店を閉めるのが明けて一時くらいで、そっから後片付け。ちょっと仮眠を取ると、市場に仕入れに出かけて、家に帰れるのはようやく朝の八時くらい。寝て起きたら、夕方にはもう出勤で、超激務。その割に給料は時給に換算したらギリギリ最低賃金を上回ってるくらいなんよ。まあ、修行させてもらってるみたいなところもあるんじゃけど」
「田むらって、コースの懐石料理だと一人前で五万円は下回らないってうわさ聞いたことあるけど、本当?」
 雄一郎は少し苦笑した。
「うん、本当。材料もいちばんええとこ使っとるから、どうしてもそういう値段になるみたい。それでも、週に三回くらい来る客もおるんよ。いったい何やっとる人かは知らんけど。……ほいで、二十五くらいまで田むらで修行させてもろうたんじゃけど、そっから給料のええ別の店に移ったんじゃけどね」
「辞めっちゃったの?」
「いや、倒産してしもうた。二か月前に」
 美咲は、先ほど自分が消去したウェブサイトの記述を思い出した。飲食店が窮地に陥ってるのは、日本全国どこも同じらしい。
「離婚した後も○○市にずっと住んどったんじゃけど、家賃も掛かるから仕事が見つかるまではということで、実家に帰ってきたんじゃ。でも、飲食店での仕事はなかなか見つからん。というか、求人がほとんどない。いつ回復するかも、ぜんぜん見通し立たんし」
「そっか、厳しいね。……それじゃ、ゆうちゃん料理は得意なんだね」
「まあ、得意というか、いちおうプロじゃし。洋食はぜんぜんダメやけど」
 美咲は大学生になって以降、長く一人暮らしをしていたが、料理はほとんどできない。最初は気合を入れて、調味料一式を揃えて見よう見真似でいろいろやってみたのだが、肉を焼いても魚を煮ても満足いくものは作れず、そして余った材料を冷蔵庫で腐らせるだけだった。ほとほと自分は料理をするということに向いてないと理解するまでに、三か月を要しなかった。使い切れなかったみりんや三温糖や出汁昆布などの調味料や材料は、結局全部捨てた。以来、インスタントラーメンと朝食用の目玉焼き以外は、何も作ったことがない。
「じゃあゆうちゃん、もし仕事見つからなかったら、私が養ってあげようか?」美咲は冗談めかして言った。
「いやあ、さすがにそうはいかん。やっぱりいつかは、俺も自分の店を持ちたいし」雄一郎は苦笑しながら言った。
 車はコンビニの駐車場に入った。地方のコンビニは、店舗の床面積よりもはるかに広大な駐車場を有している。
「ありがとうね」そう言って美咲は下車した。
「あ、みっちゃん。もしどっか行くとこがあったら、いつでも俺が足になっちゃるけん。遠慮せずに言ってきて。うちに電話してくれたらええけん。どうせ俺もすることないし。うちの電話番号、知っとるじゃろ?」
「えっと、昔と番号変わってないんだよね。うんわかった。何かあったときはよろしく」
 美咲はドアを閉めた。
 軽自動車は左に曲がりながらバックして、するりと駐車場を抜けて行った。美咲はそれに向かって軽く手を振った。
 第二新光集落には、ほかにも同級生が何人かいたが、ほとんどが親元を離れて東京や大阪や福岡などの大都市か、県庁所在地の○○市にいる。進学を機に故郷を出て、そのまま帰ってくることはほとんどない。盆や正月にだけ、都会の人間の顔を装って帰省する。
 政府から企業へリモートワークが強く推奨されるようになり、地方移住や故郷に帰ることを選ぶ人間はけっこう多いようで、美咲もその一人なのだが、はたしてこれが定着するのだろうか。それとも、嵐が過ぎ去ればまた都市に吸い寄せられるように戻ることになるのだろうか。根拠はあまりないが、美咲は後者のような気がしている。


 夕方六時過ぎ、美咲がリビングでテレビの夕方のニュースを見ていると、母の敏子が帰宅した。
「安売りじゃったけん、ちょっと買いすぎてしもた。レジ袋有料になったんじゃね」
 敏子はいつも使っているエコバッグのほかに、白いレジ袋を手に提げていた。なかに入っているシチューの固形スープの黄色い箱が透けて見える。
「まったく、なんでレジ袋にお金払わないかんのんよ。あのバカボン大臣のせいで」敏子は悪態をついた。
 今年の七月一日から、環境問題に対処するためという名目で、スーパーやコンビニで買い物をするときのレジ袋が有料化された。消費者にとってはずいぶん評判の悪い政策で、ニュースを見ると小売店側もレジでの接客に支障を来したり、またマイバッグを持つ人が増えたために万引きを見つけることが難しくなったということだった。しかも焦点となるはずの環境対策も、レジ袋を有料化したところでプラスチック消費の総量にはあまり影響がないらしく、本当に誰も得をしない愚策となっている。
 当の環境大臣でさえ、「有料化はプラスチックごみ対策ではなく、環境問題に意識を持つきっかけとなることを期待している」などと、得体の知れない自信を満たしながら言っている。少なくとも美咲には、この愚策は意識を持つきっかけにはならなかった。
「すぐ晩御飯作るけん、待っとってね」敏子はそう言って、台所に向かう。
 冷蔵庫の扉を開けて、食材を中に入れている母に向かって、
「今日、お昼に回覧板来たんだけど」と言った。
「あー、下駄箱の上にあったね」
「見る?」
「別に見んでもええじゃろ。何書いとるか、全部知っとるし」
「そうだよね。じゃあ、私お隣に回してくるね。たぶん、もう帰ってると思うから」
「お願い」
 美咲は玄関に行き、回覧板を手に取るとサンダルを履いた。

 夕食は、サンマの塩焼きに切り干し大根とにんじんの煮物、豆腐とわかめの味噌汁に、昨日の残りものでほとんどショウガと醤油の味しかしないこんにゃくとレバーの煮物。
 テレビを見ながら敏子が、
「サンマも高なったねえ、昔は冷凍もんなら一匹九十八円とかじゃったのに、今は二百円もして、その上に消費税が掛かるんじゃけん」などと独り言のように言っている。
「あ、そういえば今日の昼間、ゆうちゃんに会ったよ。窪園さんとこのゆうちゃん」
 敏子はそれを聞くと、少し箸を止めて何かを思い出すように視線を天井のほうに向けた。
「窪園さんとこの。ああ、そいえば、少し前に帰ってきたみたいじゃね。あの子はたしか○○市のほうにいっとったはずやけど」
「うん、飲食店に勤めてたらしいんだけど、お店が潰れちゃったんだって。だからこっちに帰ってきたって」
「そう。残念じゃね。今はどこも厳しいんやねえ。特に料理屋さんとか旅館とか」
 母は雄一郎がこちらに帰ってきていたことは知っていたようだが、ほかのことは知らないらしい。ということは、雄一郎がバツイチであるということも知らないのだろう、美咲はそう思った。もちろん、わざわざ知らない人に知らせるような情報ではないため、美咲はそれ以上は言わなかった。
「そういや、窪園さんところの子も、一人っ子やったね。子供のころ、あんたとよう仲良うしよったね」
 それを聞いて、母はやはり気づいていなかったのか、と美咲は思った。
 実は、高校一年から三年の夏あたりまで、美咲と雄一郎は恋人どうしという関係だった。ふたりは中学までは学校が一緒だったが、高校は別のところに進学した。しかし、自転車で高校まで向かっていると、家を出るタイミングがほぼ同じなのか、第二新光集落の中央公園のあるあたりで鉢合わせするので、それぞれの高校に向かう分かれ道まで、一緒にしゃべりながら通学するということがよくあった。
 そして、そのころにようやく携帯電話を持たせてもらうようになったので、美咲は雄一郎と電話番号とメールアドレスを交換した。それがきっかけとなり、幼なじみと頻繁に連絡するようになって、距離を徐々に近づけることになった。
 別れを切り出したのは、美咲からだった。理由は、「受験勉強に専念したい」というものだった。言い訳に受験勉強を持ち出したのではなく、本当にそうだった。家にいても雄一郎とメールのやり取りをしているうちに、いくらでも時間が潰れてしまう。しかし、やってきたメールに何時間も返信しないわけにもいかない。いつの間にか、美咲にとって雄一郎の存在が負担になっていた。
 別れを告げられたほうの雄一郎もあっさりしたもので、嫌な顔ひとつ見せずに、「それじゃ、がんばって」と言い、美咲の前から去って行った。後になってから、美咲と別れた後にすぐ雄一郎はほかの女と付き合い始めた、などとどこかで聞いた記憶があるが、真相がいかなるものだったのかは知らない。
 ふたりが交際していることを親に隠していたわけではないが、敏子は保険の外交員としてフルタイムで勤務しており、土日も営業に出ることが多かったので、しぜんと親子の会話も少なくなってしまい、告げる機会もなかった。
 夕食が終わると、敏子は炊飯器の飯を小さなお椀の形をした仏器に盛り、和室に入って仏壇に供えた。そして線香に火を点けて、おごそかに手を合わせた。
 飯の水蒸気と線香の煙、ふたつがいびつな渦を空中に描き伸びて消える。
 美咲は食後のタバコを吸いに行こうと、二階の自室に向って階段を登っていると、それを察した敏子が、
「いいかげん、止めなさいよ。身体にも悪いんじゃけん。女のくせにタバコなんか吸いよったら、いつまで経ってもお嫁に行けんよ」と怒気を含んだ大きな声で言ってきた。
「うるさいなあ。女は関係ないでしょ。今残ってるぶんを全部、吸ってしまったら止めます」おざなりに美咲は答えた。
 部屋に入って、さっそくタバコに火を点ける。「禁煙など簡単だ。私は何回もやっている」と豪語した著名人がいたが、いったい誰だったか。
 IT屋に勤務している人間は男女問わず、おそらく他業種よりも喫煙率が高い。ディスプレイに向かっての単純作業を延々と続けることになるため、気分転換を必要とする人が多いのだろう。
 オフィスに出勤していたころは、少しでも臭いを減らすために加熱式のタバコを吸っていたのだが、リモートになってからは充電の必要がない紙巻きタバコを吸うようになった。
 平均すると、三日で二箱を消費している。それほどのヘヴィスモーカーではないと美咲は自分では思っている。しかし、自分の健康にはあまり自信がない。実家に帰ってきて、外食やコンビニ弁当だけという生活を脱することはできたが、とにかく運動をしない。コンビニまでわざわざ歩いて行っているのも、ペーパードライバーというのもひとつの理由だが、運動不足を少しでも解消しようと思ってのことだった。
 キーボードの上に置いてあったスマホを手に持ち、YouTubeのアプリを起動させたが、よく見ているチャンネルの新規投稿は無かったので、アプリを閉じた。
 敏子は毎日、必ず仏壇に手を合わして美咲の父を弔う。
 美咲に父の記憶は一切ない。父がどんな人だったのか全く知らない。
 父の古瀬光俊が蒸発したのは、美咲が三才か四才のころだった。この第二新光集落に家を建てて、その五年後に蒸発してしまった。父が去った理由はもちろん美咲にはわからない。警察は事件性がない失踪については、ほぼ何もしてくれなかったらしい。
 敏子は配偶者である光俊が蒸発した後も、この家に住み続けた。母子ふたりで住むには、二階建て4LDKの一戸建てはあまりに広大だが、それでも引っ越すことはなかった。
 敏子は結婚後は専業主婦になることを選んだのだが、光俊の失踪後には自分が大黒柱となるために結婚前に勤務していたところとは別の保険会社に入社した。
 昔の言葉でいう「生保レディ」だった母の成績はかなり良かったのか、美咲は一般的な母子家庭としてイメージされるような貧困を感じたことはない。実際、母の受け取る歩合制の給料は平均よりも高かったようなのだが、しかし住宅ローンをいなくなった光俊の代わりに払い続けるのはかなり厳しかったはずだ。おそらく光俊の父母つまり美咲の祖父母の援助もあったものだと推察するが、そこまでしてこの家に住み続けた理由はいったい何なのだろうか。
 美咲はそのことを母に尋ねてみたことがあるが、「引っ越すのが面倒だった」とか、「引っ越してあんたの保育園が遠くなると大変だし、保育園を変わるのもかわいそうだと思った」みたいなことを言った。その答えに美咲はいまいち納得できていない。
 父が蒸発してから七年が経過した日、ついに家庭裁判所より失踪宣告がされた。
 美咲が十一才だったある日、業者がやってきて、和室に仏壇を運び込んできた。当時の美咲の身長より高さのある大きな仏壇で、実際かなり高級なものだとのちに知った。
 仏壇にはややこしい漢字の書かれた位牌がおかれ、次の日曜日には寺の住職が呼ばれて、簡単な法要も行われた。
 失踪宣告は法的な死を意味するが、敏子はそれをリアルな死としても捉えたようだった。仏壇を購入して供養まで行うということは、敏子は配偶者が帰ってくることはないと覚悟を決め、気持ちに区切りをつけたのだろう。
 寺の敷地には父の墓もある。もちろん納めるべき遺骨はないので、骨壺のなかには父の写真と使用していた眼鏡などを入れているということだった。
 美咲は母と違って、父の位牌を拝んだことは、一度もない。正確には何度か敏子に促されて、手を合わせる真似事をしたことはあるのだが、自ら進んでやったことはない。記憶にない人間を、どのようにすれば弔うことができるだろう。
 実は美咲には、幼いころに見た父の記憶らしきものがある。
 場所は間違いなくこの家のリビングで、短髪で口ひげを生やしていた男だった。しかし、生前の父の写真を見ても、父は当時には珍しく耳が隠れるほどの長髪に近い髪型をしており、髭を伸ばしたことは一度もないらしい。
 記憶の底にはあるあの髭の男は、いったい誰なのだろう。ひょっとしたら父はまだ生きていて、そのうちひょっこり帰ってくるのではないだろうか。そんなことを考えたこともあった。今でもある。
 美咲はタバコの煙を吐き出した。先に宙に薄く漂っている煙を、自分の吐息が吹き飛ばして混ざっていく。
 先ほど敏子が言った、「女のくせにタバコなんか吸いよったら、いつまで経ってもお嫁に行けんよ」という言葉が頭の中で残響となって消えない。もし同じ言葉を会社や公的な場でえらい人が言ったならば、即座に問題発言とされるだろう。政治家の発言ならば、辞任要求すらされるかもしれない。
 男女同権が求められ、自由で多様な生き方が容認されるようになったことは良いことなのだろうが、一方で堅苦しさを感じることもある。
 二十九歳のころ、同僚に誘われて業者が主催する婚活パーティというものに何度か行ったことはあるのだが、自らの過去や体形を「スペック」と比喩される形に数値化して顕し、その情報を交換するという作業は、まるで自分が店頭に並んでいる値札の付いた食材になったようで、あまり気分のいいものではなかった。
 タバコを吸っている人間を配偶者に選びたくないという人は男女を問わず確実に一定数いて、婚活パーティに参加する際に書いたプロフィールにも、喫煙者か非喫煙者かを記入する欄があった。母の言っていることはそれほど的外れというわけではないだろう。パートナーを見つけるという目的を果たすためには、喫煙がマイナスになることはあってもプラスになることはない。
 美咲は三十三歳で、今年で三十四になる。東京で借りているワンルームと職場を往復していると、いつの間にか二十代が終わっていた。


 九月二十二日、第四水曜日の午後四時。
 美咲はノートパソコンの入ったバッグを手に持って、敏子と一緒に第二新光集落の集会所に入った。
 横開きのドアを開けて、靴を脱いで靴箱に入れる。そして木製枠のガラス戸を開けると、二十畳ほどの広い空間のなかに一人の男が足の低い長机の向こう側に、床にじかに座っていた。
「会長さん、こんにちは。もう来とったんじゃね」と敏子が言った。
「古瀬さん、こんにちは。さっき冷房のスイッチ入れたばっかりじゃけん、まだ涼しくなってないんじゃけど」
 西日の差し込む集会所の大部屋は、九月半ばを過ぎてもまだ暑い。冷房が効き始めたときの独特の粘り気のある空気に満ちていた。
 自治会長を務める五島岳《ごとうやまと》は、六十八歳の男。すっかり頭は禿げ上がっており、耳の横から後頭部にうっすらと馬の蹄鉄の形で髪の毛が残っているばかりだった。垂れ目で柔和な雰囲気をしており、実際喋り方もおだやかだ。その押しの弱い人に自治会長というリーダー役が務めるのだろうかと不安になるほどだが、これまで何とかやってきたようだ。
 五島は必ず、役員班長会議に一番にやってきている。そして、長机をセットして窓を開けて換気をしておく、あるいは空調を起動させるということをやっている。
「どうも、いつもお疲れ様です」と敏子が五島をねぎらった。
「いやいや、これも会長の仕事じゃけん」
 美咲はバッグからノートパソコンと充電コードを取り出して、
「すみません、自治会長さん。パソコンの電源、使わせてもらっていいですか?」と言った。
「ああ、どうぞどうぞ。ご自由に」
 自治会長はコンセントのある集会所の隅を指さした。
 自治会役員であるのは敏子で、美咲には役員班長会議に出席する義務はないのだが、書記の仕事である回覧板の文書を実際に作成するのは美咲の役割になっている。
 六月までの役員班長会議は敏子だけが出席して、文書にすべき内容と敏子が手書きのメモを作って持ち帰り、それを見ながら美咲が文書を作成するということをやっていたのだが、七月の会議では敏子がメモを取っていたものの具体的な数字を間違ってメモしており、あらためて文書を作成しなおさなければならなくなるということがあったため、以降は美咲も一緒に出席して、その場で文書を作成するようになった。
 コンセントに電源を指してノートパソコンのスイッチを入れると、出入口の扉が横に開かれた。
 広報担当役員の島本拓也、そして一班班長の佐伯美子。島本は六十二歳で、佐伯は五十八歳。
「こんにちは」と言いながら島本が頭を下げた。
 三十五年前に第二新光集落の宅地が売り出された最初から引き続きここに家を建てて住んでいる人は必然的に家と共に歳を取っているので、すでに六十代になっている人が多く、それに伴って役員や班長もその年代が多い。
 佐伯は手に持っていた回覧板を、自治会長が座っている長机の上に置いた。島本は回覧板から、役目を終えた文書を取り除いく。
 その後も続々と人が集まってきて、回収された回覧板が机の上に積み上がっていく。
 東陸男《あずまりくお》、六十五歳、会計担当。古瀬敏子、書記担当、六十八歳。佐藤留美子、六十一歳、防犯担当。玉木裕子、六十歳、衛生担当。鈴木玲子、七十二歳、副会長。三田浩二、七十二歳、副会長。
 そして、一班班長、佐伯美子、五十七歳。二班班長、高崎達子、六十六歳。三班班長、金田一基、五十五歳。四班班長、金田恵子、六十歳。五班班長、水上孝二、四十二歳。六班班長、酒本サチ子、三十八歳。七班班長、芝山明美、五十九歳。八班班長、福井優里亜、二十二歳。
 全ての役員と班長が集まった。
 同じ集落に住んでいるので、顔を見たことある人ばかりなのだが、やはり何人かは顔と名前と集落の住んでいる場所とが一致しない人もいる。
 六班班長の酒本サチ子は、実家を改装・増築して美容院を経営しており、美咲が実家に帰ってから二回、その美容院に髪の毛を切ってもらいに行った。酒本ももちろんこの集落で子供時代を過ごし、理容の専門学校に通ったのちにこちらに帰ってきたようだった。美咲より五歳も年上だったため、子供のころに交流を持ったことは一度もなかったが。
 最初に髪を切ってもらいに行ったとき、椅子に座った美咲の背中を軽くマッサージしてもらった。
「ずいぶん凝ってますねえ」と酒本は言った。
「ずっと家でパソコン打ってますので」美咲が答えると、
「ああ、やっぱり。キーボード打つ人と打たない人とでは、明確に差が出るんですよ」
 先月の月曜日の夕方、散歩に出てていると酒本と偶然ばったりと道端であって少し立ち話をしたのだが、いつの間にやら酒本は美咲のことを「みさきちゃん」と呼ぶようになった。もちろん悪い気はしない。
 ほかの役員班長は、主婦か、会社勤めをしているあるいはしていた人ばかりなのだが、三班班長の金田一基は、二階が居宅になっている店舗で、小さな居酒屋を経営している。ちなみに四班班長の金田恵子は、一基の親戚に当たるらしく、班は違うもののすぐ近くに住んでいる。
 自治会長の五島が立ち上がった。
「えー、お忙しい中お集まりいただき、まことに恐縮です。それでは、九月の役員班長会議を開始いたします。よろしくお願いします」そう言って頭を下げた。
 続けて言う。
「まず、役員のほうからお知らせがございます。どうやら、市のゴミ処理場のほうから苦情が来ているようでございます。詳しくは衛生担当役員の玉木さんのほうからお伝えします」
 五島は玉木のほうを向いて目で合図をした。玉木が立ち上がって、入れ替わるように五島が座った。
「えー、衛生担当の玉木です。よろしくお願いします。先日、市のゴミ処理場のクリーンセンターから連絡がありました。第一、第二新光集落のゴミを収集している収集車のなかから、きちんと分別されていないゴミがたくさん含まれていると……。それで自治会経由で分別の徹底を周知するようにと言われました。特に資源ゴミである空き缶やペットボトルが、燃やせるゴミや燃やせないゴミに混ざっていることが多いそうです」
「それ、本当にうちの地域から出されたゴミなんでしょうか?」四班班長の金田恵子が言った。
「私もそれを疑問に思ったんですが、『新光集落を含む収集車から』ということなんで、はっきりしたことではないようです。同じ収集車が回ってるほかの自治会にも、同じような注意が出てるみたなんで、うちも一応、注意喚起をしておく必要があると思うて」
「なるほどねえ」と誰かが言った。
 美咲は聞きながら、起動させていたワープロソフトに「ゴミ、分別、注意喚起」と書いた。母の敏子も、いちおう手元の紙に何か記入している。
「何年か前に、そういやゴミの分別でけっこう大変なことになったことがありましたよね」防犯担当の佐藤留美子が言った。
 それを聞いて、一同が肯いている。
「何があったんですか?」最年少の福井が言った。
 二十二歳の福井はショートカットの髪型でまだ少女のあどけなさを残していて、六十代の人間が多い役員班長のなかにあって、鶏群の一鶴のように目立っている。
 会計担当の東がそれに答える。
「もう六年くらい前になるんじゃろか。ゴミの分別の仕方がそれまでと変わって、まあより細かく分別せにゃあいかんようになったんじゃけど、やっぱり前と同じように分別してしまう人がようけおったんじゃ。きちんと分別されてないゴミ袋は、収集して行ってもらえんけん、その場におきっぱなしになってしまう。で、誰が出したのかはっきりせんゴミはその場で野ざらしになってしもうて、しまいにはそのゴミ袋を当時の班長と役員が開けて、犯人を特定するっちゅうことをしたんじゃ」
 ずいぶんと嫌な役回りだな、美咲は聞きながら思った。
「ほいで、コイツが怪しいという人が何人か上がったんじゃが、ゴミのなかに個人情報が入っとるようなもんは入っとらんかったけん、もう本当に住人どうしが相互不信になってしまうようになってのう。結局は、自治会長と副会長が衛生担当役員が、毎朝ゴミ置き場に立って、きちんと分別されとるか監視するようになったんじゃが、もちろん誰も自分とこから出たゴミなんぞ人に見てもらいとうない。役員はまるで汚いものを見るような目で見られるようになって。最終的には、班ごとにこの集会所に集まってもろて、分別の講習会というのをやって、出したゴミ袋には油性マジックで名前を記入することを義務つけて、ようやっと収まったっちゅうことじゃ」
「そんなことがあったんですか」と福井が言った。
「あんころはねえちゃんはまだ学生じゃったろ。本当にもう、ゴミ出しをめぐって住人が相互に監視し合って牽制し合うみたいな状況じゃった」
 それを聞いて、衛生担当玉木が挙手をして発言します、という合図を出した。
「あれ以来、六年も経つので、分別をきちんとしよういう意識も薄くなってきたんでしょう。誰だって好き好んでよそのお宅のゴミなんか触りとうないですよ。……まあ、実際分別されてないのはほかの集落のことなのかもしれませんけど、きちんと徹底しておくことに越したことはないので」
「そうですなあ」と自治会長が言った。
「ついでに、衛生担当としてもうひとつ付け加えておきたんですが、ゴミ出しは当日の朝に出すよう、報知してもらいたいんです。五つのゴミ置き場全部でカラスよけネコよけのネットは掛けとりますけど、やっぱり夜中のうちに出されるとどうしてもカラスやらが寄ってきますけん。それと、もう九月ですけどまだ暑いけん、夜中のうちに出されると生ゴミの臭いが出てきてしまうんで」
 美咲は「ゴミ出し、朝に」とキーボードを叩いて書いた。
 ゴミ置き場は、衛生担当と副会長ふたりが交代で清掃することになっている。美咲もバケツに汲んだ水で、デッキブラシでゴミ置き場をこすっている副会長の姿を見たことがあった。
「ゴミに関して、いろいろ徹底せにゃあいかんみたいですね。またあの、住人どうしで相互監視みたいな事態になることだけは、避けにゃあいかん」七班班長の芝山が言った。
「役員からは、以上です。ほかに、何か連絡事項がある方はいらっしゃいますか?」自治会長が言った。
 美咲はキーボードを叩いて、さっそく回覧板の文書を作成していく。
「自治会長よりお知らせ ①市のクリーンセンターより、第二新光集落のゴミ収集車から分別がされていないゴミが多く見られるそうです。分別を徹底するようお願いします。分別方法は、市のホームページ等を確認するか、衛生担当役員までご確認をお願いします」
≪衛生担当役員までご確認≫という部分は美咲が勝手に書いたもので、あとで玉木にそれでいいかどうかを聞いておかなければならない。
 ほかに発言をする人はおらず、集会所内には美咲がキーボードを打つ音だけが響いている。
「それでは、ほかに発言する人がいないようであれば……」
 自治会長がそう言って、本日の役員班長会議の閉会を宣言しようとしたとき、美咲の視界の端に挙手する手が見えた。
 最年少の福井優里亜が、再び発言する機会を求めている。
 自治会長が、どうぞ、と言って指名する。
「あの、八班の福井です。発言させていただきます」
 美咲も手を止めて、福井のほうを見た。福井は黒のサマーニットにジーパンをはいている。
「あの、こういうことを言うのは問題あるとは思いますが……、この自治会って意味あるんですか?」
 美咲を含む一同はそれを聞いて、最初は福井の意図を理解できずにぼけたような表情をしていたが、やがて誰もが困惑の色を浮かべた。
「えっと、それはどういうことですか?」自治会長が言う。
「うちが班長になったということで、私も四月から役員班長会議に出席してますけど……。みなさん本音では、役員も班長も厄介ごとだと捉えていて、誰もやりたがらないですよね。くじに当たったら、本当に残念そうにして」
「ええ、まあ。そうですが……」と誰かが言った。
「でも、会議で話し合われることは、さっきみたいに役所や公的機関の下請けみたいなことばかりで。ゴミ出しで問題ある人がいて、それを指摘するのは自治会の役目なんでしょうか。それは市役所なりクリーンセンターなりの仕事じゃないんでしょうか。行政の怠慢を、こっちに押し付けられていて、しかもそれによって住人どうしが対立するなんて、おかしいと私は思います」
 美咲は役員や班長の顔を見回す。怒りを浮かべている人もいれば、苦笑するだけの人もいる。
「それに、自治会に入るメリットって、何なんでしょう。最近、新しく引っ越してきた人のなかには、たしか入ってない人もいますよね? 少額とはいえ自治会費を負担して、メリットはほとんどないのに、役員や班長をやらなければならない負担だけは回ってくる。本当に、自治会っていうのはこれ以上継続する必要があるんでしょうか?」
 それは誰もが密かに思っていることだった。しかし、誰も言い出すことができない。住人の誰もが、年度末のくじ引きで役員や班長にならないことを祈りながらハラハラしている。自治会は住人の負担にしかなっていないのだ。
 自治会を解散するにしても、誰が決めてどうやって解散を決議するか、そのやり方は誰も知らない。惰性で続けているだけだった。
 役員班長会議の内容を報知するための回覧板もどれほどの意味があるのか、文書を作ってる美咲でさえ疑問に思うことがある。きっとほとんどの家庭で、回覧板の中身などろくに見ずに日付と署名だけして次に回しているに違いない。
「あの、すみません。発言してもよろしいでしょうか」水上が挙手をした。
 水上はほとんど丸刈りに近いような短髪をしていて、肩幅がしっかりとした体形をしており、半袖のTシャツから出ている二の腕は、明らかに平均以上に太い。
「どうぞ」自治会長が水上のほうを向いて言った。
 水上は座ったまま話をする。
「五班の水上です。私と妻は警察官をしておりまして、私は署の交通課、妻は警務課に所属しております」
 美咲は五班班長の水上が警察官であることは、母から聞いて知っていた。勤務の都合があるのか、役員班長会議には、夫婦が交代で出てきているようだった。
「いちおう行政側に身を置くものとして、今のご意見に少し申したいことがございます。……おっしゃるように、本来行政が担うべき任務を、自治会にご負担いただいているのは、まさにその通りだと思います。自治会だけでなく、防犯協会や交通安全協会など、民間の活動があってこそ、我々も安心して任務に専念できておるのです。この自治会にも、防犯担当の役員様がいらっしゃいますが、自治会と地域の交番や駐在所と連絡を密にすることによって、犯罪防止が達成されておると確信しております」
 それを聞いて、防犯担当役員の佐藤が軽く肯いた。そして、
「四月に駐在さんがやってきて、ここ一年間の住人の移転や、カーブミラーやガードレールの破損などを聞いて行かれました」と言った。
 水上が話を続ける。
「自治会を解散するとなると、防犯の効果を維持するには、警察が直接住人の状況を把握しなければならなくなります。もちろんそれはプライバシーの懸念も出てくるでしょう。市役所やほかの役所のことは私はわかりませんが、自治会が存在するということは、全体としてみれば効率が良くなっていると、考えるべきだと私は思います。役員や班長の皆さんはご苦労の多いことだと思いますが、やはり維持するべきだと思います。そして、どこかよその国では、こういう諺もあるようです。『なぜ壁が築かれたかわかるまでは、壁を取り除いてはいけない』と。非合理に見えるシステムでも、撤廃しても問題ないと証明されるまでは、維持すべきなのです」
 その演説を聞いて、部屋のなかは静かになった。それなりの説得力を誰もが感じたようだった。
「まあ、たいへん言うても一年の辛抱じゃけん。がんばりんさい」副会長の三田が言った。
「まあ、そうじゃね。今回やりゃあ、五年は楽できるんじゃけん。五年後は私は死んどるかもしれんけど」もう一人の副会長の鈴木が言った。
 それを聞いて一同が笑った。
「えっと、福井さんのご指摘も一理あるでしょうけど、とりあえず今すぐに決めるべきことではないと思います。とにかく今年度の役員班長は我々が務め上げなければいけないでしょう。長期的な課題として承る、ということでいいんじゃないでしょうか」五島が言った。
 その発言は、いわゆる「先送り」というやつなのだろうと美咲は思った。自治会長としてはそれがもっとも無難な選択なのだろう。
「わかりました。出しゃばったことを申し上げました。すみません」
 福井は丁寧に頭を下げた。
「では、これで役員班長会議を終えますが、よろしいでしょうか」
 異議なし、という複数の声が上がった。
 会議は散会となったが、集会所から去る人は少なく、引き続き集会所内に留まってそれぞれ気が合う者どうしで会話をしている。
 美咲は回覧板の文書の作成を続ける。
 誰かわからないが、女の声が水上に、
「あなたお巡りさんじゃったん? 知らんかったがね」などと気安く声を掛けている。
「まあ、いちおう。白バイ乗りの交通違反取り締まりをしてるので、市民の皆さんの嫌われ役ですよ」と水上が自虐的に答えた。
「うちの息子もこの前、一時停止で捕まったばっかりじゃ。わっはっは」
「是非交通ルールとマナーを守った安全運転をお願いします」
 自治会長の五島と副会長の鈴木が、給湯室から現れた。ふたりとも手にはお盆を持っていて、麦茶の入ったコップが乗っている。
「お疲れ様でした、どうぞ」と言ってそれを配る。
 美咲の前にも五島がやってきて、
「いつもお疲れ様です。私らもう年寄りで、コンピューターはぜんぜん使えんけん、古瀬さんが頼みです。お世話になっております。どうぞ」とコップを置いた。
 美咲は手を止めて、ありがとうございます、と言った。
「お菓子もありますので、欲しい方はぜひ召し上がってください」と鈴木が言った。
 集会所に常備している菓子は住人から集められる自治会費で購入している。住人で集会所の利用者は誰でも食べてよいことになっている。昔は集会所で将棋や囲碁をする集まりがあったようだが、最近は集会所を利用する人はほとんどいなくなったため、菓子を食べることはは役員や班長の数少ない役得となっている。
 美咲は立ち上がって、クッキーをかじっている自治会長の近くまで行った。
「次の回覧板、これでいいですか?」と言って、ノートパソコンのディスプレイを五島のほうに向けた。
 本来の書記役の敏子もやってきてディスプレイを覗き込む。

***

 月 日

自治会長よりお知らせ。

①市のクリーンセンターより、第二新光集落のゴミ収集車から分別がされていないゴミが多く見られるそうです。分別を徹底するようお願いします。分別方法は、市のホームページ等を確認するか、衛生担当役員までご確認をお願いします。

②ゴミ出しは必ず当日の朝にお願いします。前日の夜に出すと、カラスや猫がきてゴミ置き場が散らかる原因となります。

③感染症予防のため、手洗いやマスクの着用に引き続きご協力ください。

以上

***

「①の『衛生担当役員までご確認』というのは、私が勝手に付け加えたんですけど、問題ないでしょうか」と美咲が言った。
「ああ、問題ないじゃろう。みんなとりあえず分別の仕方は知っとるわけじゃし」五島は衛生担当の玉木に確認せずにそう言った。
「日付のとこは今のところ空欄にしてますが、どうしましょう。たぶん実際に回覧板を回すのは、今月の末か来月の頭くらいになると思いますけど」
「うーん、九月の末日でええんじゃないじゃろうか」
「それで問題ないじゃろう」敏子が言った。
「じゃあ、九月三十日にしときますね。いつものように、各班分八枚でいいんですよね?」
「はい、お願いします」五島は小さく頭を下げた。
「じゃあ、明日か明後日くらいに印刷して、広報担当さんまで届けますので」
「ありがとうございます」
「私も一枚いただきます」美咲はそう言って、机の上のザルに置いてあったクッキーを手に取った。


 翌日の朝五時過ぎたころに、美咲は自室で目が醒めた。
 実家に帰ってきてもう五か月になり、リモートワークにも慣れたせいか、ずいぶんと生活リズムにムラがある。翌日朝までに仕上げればよい仕事などの場合、夜中まで先延ばしにしたり、または翌朝はやくに目覚まし時計をセットしておいて、起床してから作業を再開し、ファイルを送信するのは締め切り時間ギリギリになったりもする。
 今日は別に仕事を残しているというわけではないのだが、昨晩早くに眠たくなってしまい、そのまま寝たので結果的に早起きになってしまったらしい。
 美咲はタバコに火を付けて灰皿を手に持ち、ベッドの上で胡坐をかいた。
 カーテンの隙間からは、すでにじゅうぶん明るくなった朝の太陽光が漏れている。もちろん母はまだ起きていないだろう。
 朝食の時間まで、動画サイトを見て時間を潰そうかとスマホを取り出したが、そういえば回覧板の文書をまだ印刷していないことを思い出した。
 ノートパソコンの電源を入れ、キヤノン製のプリンタをUSBに接続する。
 そして、集会所で作成した文書を表示させた。
「印刷」ボタンを押し枚数設定をすると、紙がプリンタに吸い込まれ、そして印字されたものが出てくる。
 回覧板も、やっかいなものだな、と思いながら、美咲は今年四月上旬に、実家に帰ってきたばかりのことを思い出した。

「美咲ちゃん、パソコンでやってほしいことがあるんじゃけど」
 実家に帰ってすぐのころ、敏子が唐突にそう言って小型の八ギガバイトのUSBメモリを手渡してきた。USBメモリの裏型には、「第二新光集落 自治会」と細い油性マジックで書いてあった。
「なに、これ?」
「お母さんもよくわからん。先週の自治会のくじ引きで、書記ということになったんじゃけど……。要するにパソコンで書類を作らにゃいかん仕事なんやけど。USBって何かわかる?」
「そりゃUSBはわかるけど、なかに何が入ってるの?」
「わからん。USBっていうのが何なんかも、私にはわからん」
 ずっと生保レディをやって対人スキルだけを頼りに生きてきた母は、昔から機械に弱かった。電子レンジの温め時間指定さえまともにできず、レンジのふたの向こうで回転する皿を眺めて温まるのを待っているようなありさまだった。
 USBメモリがウイルスに感染している可能性はゼロではないが、見てみないことにはわからない。
 パソコンに接続して中を見ると、いくつかのフォルダに分けられていて、フォルダには「平成○○年自治会連絡網」や「平成○○年お知らせ文書」という名前が付いている。フォルダを開くと、なかはたくさんのワープロソフトの拡張子が付いたファイルがあった。
 いくつか開いてみると、「自治会長よりお知らせ」みたいなものばかりだった。
 敏子に書記担当役員の仕事内容を聞いてみて、ようやくこのファイルは前年までの書記担当が作成した文書を保存したものであることがわかった。誰が作業したのかはわからないが、データ化される以前の文書も、PDF化されて大量に保存されている。
 規約により、自治会で作成した文書は保存しておく義務があるらしく、十年近く前からは紙の文書ではなくデータとして保存することになったらしい。
 書記担当は必然的に簡単なパソコンスキルを要することになる。
 もちろん年輩の住人にはパソコンを一切使えない人もいる。敏子もその一人だった。なので、そういう人間のあいだでは、役員に当たるにしても書記だけは絶対に当たりたくないと、敬遠されているようだ。
 敏子は、今年度の役員名簿と班長の連絡網だけは、今週中に作成しなければならない、と美咲に言った。
「お願い、お小遣いあげるけん」
 敏子は我が子に懇願するように手を合わせ、財布のなかから一万円札を出して手渡してきた。
「別にいいよ。簡単な作業だし。去年の役員名簿のデータがあるみたいだから、それを今年の役員に書き換えればいいだけでしょ?」
 美咲はそう言ったが、敏子は一万円札を美咲に押し付けてきた。
「で、今年の役員の名前と連絡先は? それがわからないと、名簿の書き換えもできないけど」
 敏子は手のひらくらいの大きさのノートを出して、今年度の役員を手書きで書いてあるページを開いた。
「じゃあ、これ借りていくね。ちょっと時間かかると思うけど」
 約三十分後に、リビングにいる敏子に印刷した役員名簿を示すと、
「もうできたん?」と敏子は驚愕の表情を見せた。
 簡単な作業なのに、母にとっては三十分で文書を作ることはとんでもない難業と感じたらしい。母にやたら賞賛され、美咲は自分が魔法使いにでもなったような気分になった。


 八枚の紙の印刷を終えた。それを揃えてプリンタの上に置く。
 どうしよう、もうひと眠りしようか。
 そう思いタバコの火が消えてることを確認してもう一度布団に入って目を閉じ、うつらうつらしていると、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきて、だんだん近づいてきた。続いて、救急車の音の聞こえてくる。
 パトカーも救急車も、美咲の家の前を通り過ぎて行き、そしてその後停止した。
 どうやらすぐ近くで何かあったらしい。
 九月二十三日、秋分の日。間もなく美咲は、第二新光中央公園で、男の死体が発見されたと知ることになる。

第二話


 パジャマを脱いで、Tシャツとひざ丈のハーフパンツに着替えた美咲は、サンダルを履いて表に出た。昨日の夜のうちに雨が降っていたらしく、アスファルトがシミのように黒くなっている。
 サイレンの音が消えたあたりに小走りで向かうと、中央公園の入り口にはすでに黄色いテープに「KEEP OUT」と黒字で書かれた規制線が張ってあった。
 美咲と同じく野次馬として表に出てきた住人が、すでにその規制線の前に数人いた。
 パトカーは二台停まっており、分厚い防弾チョッキを来た制服警官が四人いた。
 救急車の救命士もいて、制服警官と何やら小声で話をしている。
 ざわついてる人の声にパトカーの無線の音が混ざって、「検視官」や「搬送」などという単語が部分的に聞こえた。
 美咲は野次馬のなかの一人に、美容院経営の酒本サチ子の姿を見つけた。公園の向こう側に酒本の美容院はあるので、すぐに出てくることができたのだろう。酒本は美咲と同じく全く化粧をしておらず、明らかにパジャマという服に薄手のカーディガンを羽織っていた。
 美咲は恐怖と好奇心の混ざった顔をしている酒本に近づいて、
「すみません、何があったんですか?」と尋ねた。
「あ、美咲ちゃん。どうやら、死体が見つかったみたい」酒本が答える。
 公園の真ん中を見ると、四メートル四方はありそうな大きな青いビニルシートが地面にかかっていて、その中央が盛り上がっている。そこに、死体があるようだ。
「酒本さんは、見たんですか?」
「いやあ……、来たらすでにこの状況だったから。たぶん、東《あずま》さんが第一発見者じゃないかな」
 昨日、集会所で顔を見た会計担当役員の東陸男が、警官ふたりに挟まれるのような格好で、聴取を受けている。
 東の口から、「犬の散歩をしとったら」とか「携帯電話を持って出んかったけん」や、「ぜんぜん心当たりがない」みたいな言葉が発せられている。
 また遠くからサイレンが聞こえてきたと思うと、ものすごいスピードで覆面パトカーが二台やってきて、タイヤをきしませながら集会所の前に停車した。
 そして一台からそれぞれ二人ずつ、私服のスーツ姿の警察官が飛び出してきた。
 そのうちの一人が、美咲と酒本の前にやってきて、
「この近くの方ですか?」と興奮しながら尋ねてきた。
「はい、そうですけど……」と酒本が答える。
 美咲も、
「この向こうの角から二番目に住んでるんですが……」遠慮がちに答えた。
「私は県警の者です。昨日の晩から明け方まで、変わった出来事はありませんでしたか?」
「いえ、ぜんぜん。さっきサイレンが聞こえてきたから、出て来ただけですので」
 私服の警官は美咲のほうを向いた。
「私も同じです」
「そうですか。またあらためて話を伺うことになると思います。お名前を聞いてよろしいですか?」
「酒本サチ子と言います。向こうの看板が見えるあの美容院がうちです」
「古瀬美咲と言います。家はさっき言ったとおり、あそこですけど」
「古瀬さん。失礼ですが、ご職業は?」
「普通の会社員です。東京の会社に勤務してるんですけど……、今はリモートワークになったから、こっちに帰ってきたんです」
「ああ、なるほど。ご協力ありがとうございました」
「あの、すみません」酒本が言った。
「なんですか?」
「えっと……、殺人事件なんですか? 事故とか病死とかじゃないんですか?」
「それを今調べているところなんです」
「亡くなった方は、どんな方ですか?」
「あまり具体的なことはお答えできないんですが、男性のようですね。若い、たぶん二十代か三十代前半くらいのようです。と言っても、私もまだホトケさんのお姿は拝見してないんですが」
 いつの間にか、野次馬が倍以上に増えていた。
 私服警察は、野次馬のひとりひとりに声を掛け、さっきと同じような質問をしていた。
 さらに警察の車らしいワンボックスカーが到着した。そして中から青いユニフォームを来た一団が下りてきた。手には四角の金属製ケースを持っている。
 そのうちの一人が、雨上がりのぬかるんだ公園の土を見るなり、
「これじゃ、ゲソコン出ねえなあ。人、入れるんじゃねえぞ」と言った。
 二十分ほどだろうか、美咲は警察が捜査をしている様子を眺めていた。救急車のストレッチャーが規制線を超えて、公園のなかに運ばれていった。そしてブルーシートが掛かったままの遺体を乗せ、救急車に収容した。
 救急車は発車したが、サイレンは鳴らしていなかった。
「とりあえず、帰ろうか。ここにいても、もう何か知ることはできそうにないから」酒本が言った。
 美咲も自宅に帰ることにした。


 目玉焼きの乗ったトーストをかじりながら、美咲は敏子に朝の出来事を話していた。
 敏子はおどろいたことに、朝方のサイレンにはまったく気づかずねむり続けていたという。目を覚ましたのはいつもと同じように七時ちょうどだったらしい。
「で、あんた朝からそれ見にいったん?」
「だって、気になるじゃない。死体が見つかったなんて。美容院の酒本さんも来てたよ」
「へえ、さっちゃんまで。……で、どうなん、事件なん? 死んどった人は、男なん? 何歳くらいなん?」
 敏子は少し興奮気味に、矢継ぎ早に疑問をぶつけてくる。
「わかんない。亡くなってたのは若い男の人なんだって」
「若い男……、て何歳くらい?」
「さあ。二十代か三十代前半みたいなことを、言ってたけど」
 コーヒーを一口飲むと、唇に移っていたマーガリンがコーヒーに溶け出して、小さく丸く浮いている。
「そう。あんま、うろうろして警察の邪魔したらいかんよ」
「わかってるよ。もう行かないから」
「まあ、殺人事件だったら、ずいぶん珍しいことじゃろね。田舎じゃけん、市内でも凶悪事件は年に一回あるかないか」
「もちろん、この第二新光でこれまでに殺人事件なんて起こったことないよね?」
「あるかいな。絶対にない。こんな家ばっかりのところで。空き巣騒動は何年か前にあったような気がするけど、人殺しは聞いたことない」

 敏子はいつものように、七時四十五分ぴったりに家を出て、軽自動車を運転して職場に向かう。敏子は五十五歳で生保レディは引退して、今は和菓子を製造している地場の食品工場で、午前八時から午後四時までのパート勤務をしている。
 朝早くに目が醒め、その後に眠れなかったせいか、神経はやたらと高ぶっているが、眠気がある。なにせ、近所で人が殺されたかもしれないのだ。犯人は、まだ近くに潜伏しているかもしれない。気温は窓を開ければ心地よいくらいで、昼を過ぎると暑くなって最近は開けっ放しにすることが多い。しかし美咲は、朝から家の窓がすべて閉まっていることを確認してから自室に入った。
 パソコンを開いてメールチェックをすると、上司から今日美咲がすべき作業の指示が届いており、午後一時からはオンライン会議が開催されるということだった。
 朝の二度寝を思わぬ形で中断されたため、まぶたが少し重い。少しだけ寝ようか、作業は晩御飯を食べた後にゆっくりやったので間に合いそうだ、と怠惰が首をもたげようとしたとき、
「いちおう、確認しとこうかな」と美咲は独り言を言った。
 家の固定電話の棚に置いてある、手書きの電話番号帳をめくる。そして、窪園雄太郎の項目を見つけて、その番号に電話を掛けた。
 三回コールしたところで、相手は電話に出た。
「もしもし、窪園ですけど」
「あ、朝早くにすみません。古瀬と申します」
「あ、みっちゃんか。どうしたん? 何か用?」雄一郎が言った。
「あ、昨日はありがとう。いきなり、ごめんね。ちょっと気になることがあって電話したんだけど。ゆうちゃん今朝のこと知ってる?」
「もしかして、公園の殺人事件のこと?」少し興奮気味に言う。
 やはりすでに第二新光集落のなかで話は広まっているらしい。
「そう。っていうか、殺人事件なの? 朝、私が見に行ったときは、事件か事故かわからない、みたいなこと言ってたんだけど」
「さあ。俺もさっき、朝飯食う前にちょっと見に行ってみたんじゃけど、パトカーのほかにも鑑識っていうんかな、青い服着た人がたくさんおって、何やら調べよったけん、殺人かなって思て」
「そう。まあ……」
「で、何か用があって掛けてきたんじゃろ。なに?」
「あ、いや……、亡くなってた人って、二十代か三十代くらいの男の人なんだって。だから、もしかしたらその死体がゆうちゃんだったんじゃないかと、ちょっとだけ思って、一応念のため」
 それを聞くと、雄一郎は電話の向こうで大きな声を上げて笑った。
「なんじゃ、心配してくれとったんかい。俺なら元気じゃ。死んどりゃあせんわい」
「警察の人が、ぜんぜん詳しく教えてくれなかったから。朝に行ったときは、『またお話をお伺いします』みたいなことを言ってたから、たぶんそのうちゆうちゃんの家にも聞き込みに来ると思うよ」
「しかし殺人にしても事故だとしても、物騒なことには変わりないのう。うちのオカンも興奮しっぱなしで、すっかり探偵気分で、朝からあちこちにメール打っとるみたい」
 美咲は子供のとき以来、何度も会ったことのある雄一郎の母親の姿を頭に思い浮かべた。なぜか美咲は、彼女に対してあまりいい印象を持っていない。小学校低学年のころ、雄一郎の家で遊んでいると、「もう五時になるよ」とか「雨が降りそうよ」と言ってきて、やたら帰宅を促してきていた。直接何か嫌なことをされたということはないのだが、好かれていないことは子供心にも理解できた。
「昨日、職安どうだった?」美咲は雄一郎に尋ねた。
「うーん……、先週に比べて、求人は増えるどころか減っとった。飲食とかホテルとか旅館だけじゃなくて、ほかの業種にも悪影響が出てきよるみたい。ハローワークの窓口も失業者で溢れとって、いま日本で繁盛しとるんは、病院と職安だけじゃろね」
 それを聞いて美咲は少し笑いそうになったが、まんざら冗談ではないかもしれないと思う。日本中が、かつて経験したことのない大不況に陥り、回復の見通しは全く立っていない。他人事ではない。遠からず、巡り巡って美咲の会社にも影響が及ぶだろう。
「まあ、もし何かええ仕事がありそうやったら、教えてえな。できれば和食の飲食店で働きたいけど、贅沢言うてられんかもしれん」
「うん、わかった。……あ、ゆうちゃう。もし良かったら、携帯の番号教えてくれない?」
「ああ、うん」
 雄一は番号を言ってから、大手のSNSの名前を挙げて、
「IDも番号で登録しとるから」と言った。
「わかった。あとで申請しとくね」
 電話は切れた。
 早速SNSの友だち申請すると、しばらく経って承認されたという通知が来た。
 時刻はまだ午前八時過ぎ。美咲はスマホのタイマーを二時間にセットして、Tシャツ姿のまま布団の上に寝転がった。

 美咲は実家に帰ってきてから、昼食をあまり摂らなくなっている。
 朝と晩は母が用意してくれるが、平日の昼間は食べないことが多い。そもそも家で座ってパソコンをいじってるだけなのだから、それほどエネルギー消費はなく、あまり腹も減らない。夕方くらいに甘いコーヒーを飲みながらパンやスナック菓子などをつまんで、夕食までのつなぎとしている。
 その日も何も食べないまま、昼の十二時五十分にパソコンのオンライン会議のソフトを起ち上げた。
 十分後に会議が始まるのに、ログインしているのは二年先輩の三宅優子だけだった。オンライン会議が時間通りには開始されることは、ほとんどない。画面を通してだと人を待たせているという感覚が薄れるのか、直前になって「すみません、少し遅れます」などというSNSのメッセージが飛んできたりするのが常だった。
 画面に現れた三宅の顔が動いて、
「どうも、おはようございます」と言った。
 三宅の自宅からの会議参加のようで、画面の背景は住宅用の白い壁紙が写っている。
「おはようございます」と美咲は返事をした。
「古瀬ちゃん、今実家よね?」
「ええ、そうですけど」
「実家って、H市って言ってなかったっけ?」
「はい、そうです」
 三宅は身を乗り出してきて、画面に顔が大きく映る。
「今朝、H市で、殺人事件があったんじゃない? 知ってる?」
「あ……」
 三宅は地獄耳の能力でも持っているのだろうかと、少し唖然としてしまった。もう、そんなに話が広まっているのだろうか。
「なんで知ってるんですか?」
「なんでって、お昼のニュースでやってたよ。たぶん検索したらネットニュースにもなってるんじゃないかな」
 朝に現場に行ったときには、近隣住民の野次馬と警察と救命士しかいなかった。あの後にマスコミがやってきたのだろうか。
 画面の向こうの三宅は、殺人事件を怖れたり美咲の身を心配したりというふうではなく、興奮して好奇心むき出しの表情になっている。美咲は、三宅がミステリ小説の愛好家だということを思い出した。リモートワークになる前は、昼休みに昼食を終えた三宅がいつも電子書籍や投稿サイトで、最新作のミステリ小説を難しそうな顔をして読んでいた。
 何冊か、美咲も勧められるままに読んだことはあるのだが、いわゆる本格ミステリというのはトリックに少し無理があるような気がして、結末に納得できないことが多かった。
「今日、朝の五時すぎくらいですけど、現場に行ってみたんですよ」と美咲は言った。
「うそ、本当? 古瀬ちゃん、わざわざ現場に行ったの?」
「行ったというか、すぐ近所なので……。実家から百メートル以上は離れたところですけど、二百メートルよりは近いかな」
「すごい、すごいじゃない」三宅はなぜか拍手をし始めた。
 人が死んでいるのに「すごい」という反応はいかがなものかと思ったが、ミステリ愛好家にとっては現実の犯罪というものはリハーサルで鍛えた思考力を役に立てる絶好の機会と感じるのかもしれない。
「で、どう? 機捜は来てた?」
「キソウってなんですか?」
「あ、ごめんなさい。機動捜査隊のこと。事件があったら刑事部のなかで真っ先に現場に駆けつけて、初動捜査を担当する部隊のこと」
「あれが機捜かどうかはわからないですけど、制服のおまわりさんのほかに、私服の警察官も何人かやって来てましたよ。現場近くに集まってる人に、変な音は聞かなかったか、とか一通り聞いてました。私も聞かれましたけど」
「拳銃持ってたら、機捜で間違いないんだけどね」
 美咲は朝の警察官の姿を思い出した。薄手のスーツを着ていたが、あの下に拳銃のホルダーを閉めていたのだろうか。
「じゃあ、もしかしたら古瀬ちゃんの家にも、近いうちに聞き込みに来るんじゃない?」
「まあ、たぶん来ると思いますけど」
「それじゃ、『警察手帳見せてください』って言ってみて。警察手帳規則第五条で、警察官は呈示を求められたら基本的に拒めないってことになってるから」
 その三宅の知識と好奇心に、圧倒されてしまう。
「はあ……」
「で、どうなの? 犯人の目星ついてるの?」
「いえ、ぜんぜん。ていうか、そもそも本当に殺人なんですか?」
「ニュースではたしか、事件・事故両方で捜査を開始、みたいな言い方だったと思うけど、現場に刃物が落ちてたから、ほぼ確定でしょう」
「そうなんですか?」
 すぐ近くに住んでいて、実際に現場まで足を運んだ自分より、東京にいる三宅のほうが事件についてなぜか詳しく知っている。もちろんメディアで報道された情報なのだろうが、少し不思議な感じがした。
 二人の同僚が続けてオンライン会議のソフトにログインした。
「おはようございます」
 三宅はそう言って、以降は事件については語らなかった。

 オンライン会議は途中休憩を挟んで二時間を要した。
 自分の業務に関係しないことが大半を占めていたが、途中で抜けるのは不可能ではないにしても心理的に難しい。美咲は結局会議の最後まで付き合うことになった。
 営業担当者はみんな今でも東京にいて、業務の一部しかオンライン化できないため、直接クライアント回りを続けているらしい。
 飲食店のクライアントからは、求人の停止のほかには、テイクアウトを導入したのでそのようにウェブサイトを改変してほしい、という依頼が山のように来ていると営業担当者の一人が言った。
 新たにページを増設しなければならなくなる。それに伴ってトップページも書き換えなければならなくなるだろう。その手間を思い、美咲はバレないようにため息を吐いた。
 また店舗の営業時間を変更したり、テイクアウトオンリーにしてしまう店も多くあるようだ。
「リモートワークを恒久化するか、それともどこかのタイミングでオフィスワークに戻すかはまだ未定です。リモートワークは利点が多いものの、コミュニケーションが一部困難になっているのは事実ですので」美咲の上司にあたる部署の長がそんなことを言った。
 そして付け加えるように、
「完全リモートの勤務になっている人は、来月から交通費の支給が停止されます」と言った。
 ということは、美咲のお給料からも、月六千円あまりの交通費は無くなってしまう。
 多少不満に思ったが、やむを得ない。実家に帰ってきて、交通費は要していないし、水道光熱費も要らず、食費として月に二万円を母に渡しているが、外食とコンビニ弁当ばかり食べていたころより、だいぶ安く済んでいる。
 東京に借りている部屋はそのままにしているので、その家賃はもちろん払い続けている。リモートワークが恒久化されるか否か、早く決めてほしいと美咲は上司に要望した。
 オンライン会議が終り、台所に降りてコーヒーを入れ、自室までカップを持って上がった。
 ブラウザを起ち上げて、「H市 事件」で検索すると、三宅が言っていたとおり、ニュース記事がいくつも出てきた。
 美咲はそのうちの、テレビの地方局の記事を開いた。自動で動画が再生される。

”今朝、午前五時ころ、H市で男性が死体が発見されました。
 発見現場は、H市北部の閑静な住宅街です。
 犬の散歩に出かけていた近所の住人が、公園で男が倒れている姿を発見し、警察に通報しました。
 男性は二十代から三十代と見られ、詳しい身元はわかっていません。“

 アナウンサーが写っていた画面が切り替わって、昨日役員班長会議が開催された集会所を映した映像になった。それから画面は動いて、現場である隣の公園の入り口を映し出した。
 続いて、「近くに住む人は――」というテロップが画面右端に表示されて、首から下だけが映されている男が、インタビューに答えている。
「長いことここに住んどるけど、こんなん初めてじゃ。おう、普段は平和、平和。住人どうしも仲良しじゃし、おかしなことなんか起こったことないよ。ええ、もちろん心配ですよ。早いこと解決してほしいね」
 テレビを通して聞くと、不思議と方言がキツく聞こえる。
「現場には凶器と見られる刃物も見つかっており、警察では事件事故の両方から慎重に捜査を進めています」というアナウンサーの声を最後にして動画は終わった。
 動画の再生が終わるとほぼ同時に、美咲の家のインターホンが鳴った。
 一階に下りて、玄関の鍵を開けて出てみると、身長一八〇センチ以上ありそうな四十代の男が立っていた。短髪で、白のカッターシャツに、グレーのパンツ。古びた革靴を履いている。
 身長と比例するかのように顔というか頭全体が大きく、日焼けした皮膚はかなり荒れていて、一目見ただけで威圧感を強く感じる。
「すみません、警察の者です」男は言った。
 やはり来たか、と美咲は思った。捜査をするときは二人一組で、ということを聞いたことがあったのだが、一人しかいない。朝に現場にいた警察官とは別人だった。
「ご存知かと思いますが、この向こうにある公園で、男性が死亡しているということがあったんですが、ちょっとお伺いしたいことがありまして。こちら、古瀬敏子さんのお宅で間違いないですか?」
「ええ、そうですけど……」
「敏子さんは、今はお留守ですかね?」
「あの、すみません。失礼ですが、警察手帳を拝見させていただいてもよろしいですか?」
 先ほどの三宅の言うことを実践したわけではないが、念のため本物かどうか確認したいという気持ちがあった。
「あ、はい」
 男はそう言って、手に持っていた黒のバインダーを脇に挟んで、パンツのポケットからストラップが付いた手帳を取り出して開いた。バインダーに挟まった紙には、地図らしきものが印刷してあり、赤のマジックで何か記入してあった。
 呈示された手帳を見ると、真ん中には男のカラー写真が大きく載っていて、名前の下に「巡査部長」と書いてあった。
「ありがとうございます。失礼しました」美咲は言った。
「いえ……。で、古瀬敏子さんはご在宅ですかね?」
「あ、今はいません。仕事に行ってます。夕方には帰ってくると思いますけど」
「あなたは、敏子さんのお嬢さんですかね?」
「ええ、そうですけど……」
「こちらには、敏子さんが一人でお住まいになってるかと思ってましたが」
「私、今年の四月に帰ってきたんです」
 美咲は昨日、防犯担当役員の佐藤が、住人の移転などを駐在所に報告うんぬんという話を思い出した。美咲が帰ってきたのは年度を超えてからだったので、連絡が行っていなかったのだろう。
「お名前をうかがってもよろしいですか?」
「古瀬美咲と言います。『みさき』はうつくしいに花が咲くです」
「失礼ですが、美咲さんはご職業は?」
「会社員です。IW情報サービスという東京の会社です。四月までは東京にいたんですけど、リモートワークになったから、こっちに帰ってきたんです」
「なるほど、リモートワーク。業種はIT系ですかね?」
「そうです」
 警官は手元のバインダーに何やら記入をしている。
「昨日の夜から今朝にかけて、どちらにいらっしゃいましたか?」
 それを聞いて美咲は少し嫌な気持ちになる。まさか、自分が犯人だと疑われているのだろうか。
「ずっと家に居ました。たぶん夜の十時くらいに寝て、朝からちょっとパソコンで作業してたら、サイレンが聞こえてきたんで、何かあったのかなって」
「敏子さんもずっと家にいらっしゃった?」
「はい。そうだと思います」
「最近、この近所で不審な人物や車を見たということはありませんか?」
「まったくないです」
「では……」
 警官はバインダーの紙を一枚めくって、美咲のほうへ向けた。
 白黒の線で男の顔が描いている紙だった。肖像画のように精緻ではないが、かなりリアルな絵。長髪で、やや唇が分厚く、口の端が左右に少し下を向いている。
「この男性に見覚えはありますか?」
「あの、それが亡くなってた方の似顔絵なんですか?」美咲は問い返した。
「そうです。髪は薄い茶色に染めていたようです」
 過去形で表現したことが少し引っかかるが、亡くなった人の状態を説明するには、そのほうが適切なのだろう。
 美咲はあらためて似顔絵を見た。どこにでも居そうな、平均的な顔。それが美咲の率直な感想だった。見覚えがないか、と問われれば、誰もがどこかでこういう顔の男を見た、という印象を持つのではないだろうか。
 似顔絵の男の目は開いており、死人の顔を書き写したようには見えない。死体の顔写真を直接見せられるよりはましなのだろうが、死んだ人の顔を書き写したものを見るのは、良い気分はしなかった。
「見たことないです。たぶん」
 美咲がそう言って警官の顔を見ると、まるで睨むような視線でこちらを見ていた。
「ご協力ありがとうございます。また伺うことになると思います」そう言って警官は小さく頭を下げた。
「あの、やっぱり殺人事件なんですか?」帰ろうとする警官に美咲は問う。
「それを今調べてるところです」
 ぶっきらぼうにそういうと、警官は去って行った。
 感じ悪い。あの値踏みするような視線は、自分を犯人の可能性から排除していない。美咲はそう思った。

 午後四時過ぎ。
 自室に戻ってパソコンに向かい、午前中にサボった作業をしていると、家の固定電話が鳴り始めた。美咲は急ぎ気味に階段を下りて受話器を持ち上げた。
「もしもし、古瀬です」
「どうも、こんにちは。お世話になっております。自治会長の五島ですが、書記の古瀬敏子さんはおりますでしょうか?」
 昨日の役員班長会議での五島の姿を思い出した。いかにも気の弱そうな男性だったが、電話の声だけだとさらに弱々しく聞こえる。
「まだ帰ってません。たぶん一時間以内には帰ってくると思いますけど」
「ああ、そうですか。あの、では敏子さんに伝言をお願いします。本日午後七時から、集会所で自治会の緊急で役員班長会議を開催することになりました……。是非参加いただきたいんですが、なにぶん急なことなんで、無理なようでしたら欠席していただいでもかまいません、と」
「はい、わかりました。……でも自治会長さん、会議なら昨日やったばかりじゃないですか。何か、不備でもあったんですか?」
「いえ、そうじゃなくて、今朝の殺人事件のことで、住人に知らせておくべきことがあるんじゃないかと、複数の役員から申し出があったもんで。でも、こんなことは初めてだから、まあとりあえず集まって現状わかってることだけでも役員の中で情報を共有しとこう、みたいなもんです」
「私も今朝、現場にちょっと行ってみたんですが、やっぱり第一発見者は会計の東さんなんですか?」
「えっと、それも含めて、会議で皆さんお知らせしようと思っとります。東さんも必ず出席されますけん」
 きっと、緊急の役員班長会議を開くよう自治会長に申し出たのは東なのだろう。
「わかりました。今日の七時ですね。母に伝えておきます」
 まもなく帰宅した敏子に、美咲が自治会長からの電話の内容を知らせると、
「いったい、何じゃろ。めんどくさい。自治会がなんぞややこしいことせんでも、あとは警察に任せときゃええじゃろ」と言った。
「まあ、わからないことばかりだし、何か新しい情報もあるかもしれないし、行ったほうがいいんじゃない? 私ひとりで行ってこようか?」
「正式な役員は私じゃけん、あんたひとり行かすわけにもいかんじゃろ。ご飯炊いて、とりあえず下ごしらえだけしとって、帰ってから焼いたらええわい。七時からじゃね?」
 敏子はそう言って、エプロンを着けると台所に入った。
 間もなく米を研ぐ音が聞こえてくる。
「そういや、三時すぎくらいだったかな。警察の人が聞き込みに来たよ」敏子の背中に向かって言う。
「そう。ほんで、なんて?」
「昨日の夜はどこにいたか、とか怪しい人物を見なかったとか。心当たりはないって答えると、また来ます、みたいなことを言ってた。お母さんからも何か聞きたそうにしてたから、明日にでも来るんじゃない?」
「私んとこ来たって、犯人逮捕につながるようなことにはならんじゃろ。警察もご苦労様やねえ」
「やっぱり殺人事件となったら、警察は真面目に動くんだね。お父さんが失踪したときは、ぜんぜん探してくれなかったんでしょ?」
 米を研ぐ音でそれが聞こえなかったのか、敏子は何も答えなかった。

 集会所の表に着いたときは、午後七時を十分ほど過ぎていた。九月の空は西側が夕焼けていて、日没してもしばらくはじゅうぶんに明るい。
 死体発見現場である集会所のとなりの中央公園は、まだ黄色いテープが入口に張ったままで、制服の警察官が立っていた。朝に見た県警のワンボックスカーもまだ停まったままで、青い作業服のようなものを着た警察官が数名、公園のなかで何か作業を続けている。
 そして、集会所のすぐ近くに、緑ナンバーの高級車が一台停まっている。タクシーではなくハイヤーのようだ。そのハイヤーのそばには、テレビ局の記者らしい女と、大きなカメラを肩に担いだ男がいた。
 記者の女は、美咲と敏子の姿を見つけるとすぐに駆け寄ってきて、
「あの、すみません。近隣住民の方ですか?」と無遠慮に言った。
「ええ、そうですけど……」
 敏子が美咲の手をつかんで、
「行くよ」と強引に引っ張った。
 さすがに記者は集会所の中までは入ってこなかった。
「ああいうの相手にしとったら、キリがなくなるよ。テレビなんかに映されたら、恥ずかしい」靴を脱ぎながら敏子が言った。
 集会所の大部屋に入ると、自治会長の五島と会計の東、一班班長の佐伯の三人しか居なかった。
「どうも、こんばんは」と美咲が言うと、
「こんばんは」と三人が返す。
「これだけしか来とらんのですか?」敏子が遠慮なしに言った。
「防犯の佐藤さんは、十五分ほど遅れる言うてさっき連絡があったんで、じきに来るでしょう。班長の方々は、まあ昨日の今日じゃけん、あまり来んかも」
 集会所の玄関が開く音がした。そして佐藤と、続いて八班の福井が入ってきた。
 こんばんは、と互いに軽く頭を下げる。
 時刻はすにで午後七時十五分。これ以上待っても人が増えることはおそらくない。
「それでは、緊急の役員班長会議を開始したいと思います。皆さま急なことで大変申し訳ございません」五島が座ったままで言った。
 普段は自治会長は起立して会議の開始を宣告するが、部屋のなかは五人しかいない。その必要はないと判断したのだろう。
「今日お集まりいただいたのは、ご存知のとおり、となりの公園で男性の遺体が発見されたことについてです。警察の捜査が進んでおるようなんですが……。第一発見者は、こちらの東さんです」
 五島は東を手のひらで示した。
「いったい、どういう状況だったんですか?」佐藤が問う。
「えっと、朝の五時前くらいだったかな。夏のうちは、毎朝四時半くらいから犬の散歩に出ることにしとるんじゃが、うちは七班で、家があるんが一番端っこでしょう。だから、集落を一周するように回ってから、公園でちょっと犬と遊ぶことにしとるんです。で、公園に入ったら、真ん中に紺色の何が落ちとって。最初はどっかの洗濯物の飛んできよったんかなっと思ったんじゃけど、犬がやたら吠えよってのう。近寄ってみたら、人間じゃった。とりあえず呼び掛けてみても返事がなかって、ように見てみると、首のあたりに傷があって……。こりゃ死体じゃいうことで、急いで家に帰って一一〇番に通報したんじゃ」
「携帯はお持ちじゃなかったんですか?」佐藤が尋ねた。
「犬の散歩に行くだけじゃけん、毎日持って出とらん」
「血は出てなかったんですか?」美咲が言った。
「今から思うたら、なんかちょっと臭かったとは思うたんじゃけど、昨日の晩は大雨が降っとったんじゃろ? じゃけん、血は流れてしもうたんじゃないかな」
 一同が話の続きを促すように東を見る。
「警察に電話をして、十五分くらいじゃろか。パトカーが二台やってきて、いろいろ聞かれて……。そしてその後、私も警察署について行かれて、ひょっとしたら私が疑われとるんか知らんけど、取調室みたいなとこで、何度も同じ質問されて、結局二時間くらいはいろいろ聞かれて、ちょっと疲れてしもうた」
「被害者の男は、どんな人でした?」五島が東に訊く。
「いやあ……、それがあんな人間の死体を見るんは初めてじゃけん、直視できんかったんですよ、情けない話。とりあえず若い男のようでしたけど」
「首に傷があったんですね?」
「ああ、それは間違いないです。傷口が紫色になってて……」
「いちおう確認ですが、きのうの夕方、ここで役員班長会議をやりましたけど、その時に公園に死体があった、なんてことはなかったですよね」佐藤が言った。
 皆が肯く。
「じゃあ、被害者が殺されたのは、夕方から東さんが発見するまでのあいだ……。たぶん、夜から朝までの時刻ですか」
 美咲はそこで初めて、自分以外の誰もが犯人の可能性があるのではないか、ということを考えた。夜中のうちにアリバイのある人など、ほとんどいないに違いない。被害者がいったい何者かはわかっていないが、犯人はこの集落の住人である可能性は排除されないし、今この集会所の中にいる誰かが犯人である可能性も、ゼロではない。
「で、今日は何のための集まりなんですか?」福井が高い声で言った。
「ああ、そうじゃった。えっと、とりあえず住人に戸締りをしっかりして、警察の捜査に協力するよう、呼びかけるために臨時の回覧板を作ってもらおうと思って。その内容を決めようと」五島が答える。
「え、そんな」美咲は言った。
 両方の手のひらを五島のほうに向けた。
「今日、パソコン持ってきてないですよ」
「ああ、そうじゃった。言うの忘れとりました。すみません」五島は頭を下げる。
「いや、まあ内容だけ決めてくだされば、家に帰ってから作りますけど、……お母さん、メモ帳か何か持ってきてる?」敏子のほうを向いて言う。
 敏子はポケットから小さなメモ帳を出した。美咲は小さくうなずいた。
「……でも捜査に協力するって、うちにも昼にカッターシャツ姿の警察官が来ましたけど、皆さんの家にもすでに来ましたか?」
「来ました」と佐藤が言った。
「うちも来ました。昼過ぎくらいだったかな」福井が言う。
「うちは来てないね、だって私、言うべきことは全部警察署で言うたはずじゃけん」東が言う。
 美咲が佐藤と福井に、やってきた警察官の風体を聞くと、やはり身長の高いがっちり体型の男だったという。美咲の家に来た男と同じ人物のようだ。
「正直言うて、ちょっと感じ悪かったね。あのおまわりさん。威圧的というか、こっちを疑ってるというのがバレバレで。できればもう来てほしくないんじゃけど。最初見たときはヤクザが来たんかなと思った。駐在さんとはえらい違いじゃ」佐藤が言う。
 不意に、集会所と玄関を隔てる扉が開いた。
 そこに居たのは水上だった。
「どうも、遅れてすみません。自治会長さんが留守電入れてくれとったの聞いて、やってきたんですが、まだ会議は終わってませんよね?」
 警察官である水上が入ってきて座るなり、東と佐藤が同時にいくつもの質問を水上に浴びせかけた。どうなってるんだ、とか今後の見通しは、という言葉が次々に発せられるが、水上は両手を振って困惑した様子を示した。
「皆さん、とりあえず落ち着いてください。私に答えられることはほとんどありません。だって私、白バイ乗りなんですよ。若いころに一時刑事課に配属されたことはありますが、すぐに移動願いを出して半年もいなかったんだから、何にもわかりませんよ。もちろん捜査にも参加できません。私みたいな素人が入ったら、刑事課も迷惑でしょう」
「じゃあ、署のほうはどうなんですか? ちゃんとやってる様子なんですか?」佐藤が問い詰めるように言った。
「上のほう……、えっと、刑事課は警察署《カイシャ》の四階で、交通課は一階のフロアにあるんですが、まあそんなことはどうでもいいや、とにかく四階ではずいぶん騒ぎにはなってるようです。テレビや新聞もやってきて、さんざん階段を上り下りしてたようですが」
「何か、新しい情報はないんですか?」
「ありません。もしあったとしても、私が勝手に申し上げることはできません」水上はきっぱりと言った。
「じゃあ、これからどうなるんですか?」福井が問う。
「知りませんて。刑事に聞いてくださいよ」
「奥様も警察官なんですよね? 奥様から何かうかがってませんか?」五島が言った。
 水上は眉を顔の中央に寄せた。
「いえだから、言えないっていうのに……。何も聞いてません」
「言えない、言えないって、ちょっと無責任じゃないか。あんた公僕じゃろ」東がなぜか怒りを含んだ口調で言う。
「無責任って、私に何の責任があるんです。私は刑事でもないし、警察署長でも県警本部長でもありません。重箱の隅を突くような交通違反を挙げて、市民の皆様に蛇蝎のごとく嫌われるのが私の責任ですよ。いいかげんなことは言わんでいただきたい」半ばヤケ気味に水上が答えた。
「まあ、両者とも落ち着いてください。東さん少し言葉が過ぎます」五島が言う。
 五島にたしなめられて、すみません、と東は頭を下げた。
「じゃあ、今回みたいことがあった場合、警察の捜査というのはどうやって進行していくんですか? 一般論でいいので、教えていただけませんか?」美咲が言った。
 まあそういうことなら、と水上はひとつ咳払いをした。
「あくまでも私の知ってることですよ。今は違うかもしれません。それを前提に聞いてください。……まず事件があって一一〇番通報があると、署の通信指令センターというところに連絡が行きます。そして次には、最寄りの地域課つまり交番や駐在に連絡が行って、すぐに現場に駆け付けます。同時に、関連する課、要するに殺人事件や強盗ならば刑事課、少年事件なんかだと生活安全課、交通事故だったらもちろん交通課ですが、担当する課に連絡が行くんですね。……でもまあ、今回みたいなケースだと通報があったのは朝早くだったみたいなので、当直の人間が真っ先に現場に行ったと思います」
 美咲は朝現場にいた警察官の姿を思い出した。あの人たちが、地域課または当直の人たちだったのだろう。
「そして、担当する課の人間と、必要があれば鑑識が行きますね。鑑識ってのはご存知でしょうけど、写真を撮ったり指紋やDNAを採取したり、証拠の確保をして、科学的に分析する部署です。現場に真っ先に入るのは、この鑑識ですね。刑事ドラマなんかでは、刑事がホトケさんの姿を確認したり鑑識に指示を出したりする場面がありますが、ああいうのは実際には有り得ません。鑑識が最優先です。そして、重要事件であるということが確定すると、所轄と県警本部が合同で捜査本部を組織することになります。捜査本部は、署の講堂や大会議室に設営されることが多いです。捜査本部の本部長は、刑事部長が就任することになってますが、刑事部長が実際に指揮を執ることはないですね。殺人などを捜査する捜査一課長か、その下の管理官が行います。そうして捜査本部に情報を集約して、所轄の署員と県警本部からやってきた一課の刑事がやってきて、犯人検挙に向けて動くということになります」
 水上は言葉を途中で絶やすことなく一気に言った。
「これでよろしいでしょうか。何か、ご質問があれば答えられる範囲でお答えしますが」
 五島が小さく挙手した。
「どうぞ」
「あの、で、その捜査本部というのは、今回はできそうなんですか?」
「たぶん、できるんじゃないでしょうかね。本部の一課の連中がすでに何人か来てたようですから」
「被害者について、何かわかってることはあるんですか? たとえば、死亡推定時刻とか」と佐藤が問う。
「さあ……そもそも、まだ遺体を解剖してないでしょうから、具体的なことは何にもわかってないんじゃないでしょうか」
「まだ解剖してないんですか?」
「解剖って医者なら誰でもできるわけではなくて、大学の法医学の先生に来てもらってやるんですけど、もちろんあちらさんのご都合もあるでしょうし、けっこう着手までに時間がかかるもんなんですよ。それに、高齢化のせいか、あちこちで孤独死や道端でぽっくり行ってしまう人が増えてて、解剖してくれる医者は慢性的に不足してるんです。下手したら、三日とか四日後になる場合もあるようですよ」
「そんなに……」
「具体的な死因や死亡推定時刻はそれまでははっきりしないと思います」
「あの、私もいいですか?」と福井が挙手をした。
「ええ、どうぞ」
「うちにも今日の昼過ぎに、おまわりさんが聞き込みに来たんですけど……、その、ちょっと態度が高圧的というか、怖いみたいに感じて。刑事さんというのは、ああいうものなんでしょうか」
 合いの手を入れるように、佐藤が、
「うちもそうじゃった。何か、私らが悪いことしとるような感じで」と言う。
 美咲も同感だった。
 福井が話を続ける。
「あっちからはいろいろ聞いて来るくせに、こっちから何か質問したら、『答えられません』の一言ですまされたんです。具体的に言うと、『凶器は何だったんですか?』とか、『不審人物の目撃例はあるんですか?』とか聞いても、何も教えてくれませんでした。近所の住人としては、そういうことも知りたいじゃないですか。でも、『答えられません』とか『捜査上の秘密に当たるためお話できません』とか。捜査に協力するつもりで聞き込みに応じて正直に答えてるのに、こっちには何も教えてくれないのは、その、フェアじゃないと思います」
 それを聞いて、水上はため息を吐いた。
「おっしゃる意味は良くわかります。刑事はどうしても人当りが強くなってしまうので、悪い印象を与えてしまう……。正直言って私も刑事課、特に組織犯罪対策の人間は、見てるだけで怖いくらいですから。捜査の情報に関しては、公式には広報を通して以外では発表できませんし、一刑事が自分の判断だけで情報を漏らすなんてことは、あってはならないことです。それに捜査の情報を公開しないのは、ちゃんと理由があるんです」
「どんな理由なんですか?」五島が問う。
「秘密の暴露、というんですが。例えば、犯人が使った凶器のナイフが、川底から見つかったとしましょうか。この情報はマスコミに発表せずにあえて伏せておくんです。そして、被疑者を逮捕して、『ナイフを使って殺し、あとで川に捨てた』という自供が取れたとしましょうか。すると、真犯人しか知り得ないことを自供したということで、裁判で犯人であることを立証する最有力の証拠となるわけです」
「なるほど、わかりました」
「ですので、皆さんが捜査本部からもたらされる情報が少ない、あるいはぜんぜんないと不満に思う気持ちは理解できますが、最優先はあくまでも被疑者の検挙です。捜査というのはそういうものだと諦めてもらうしかないと思います」
 福井は眉間にしわを寄せながらうなずいた。
「あの、自治会長さん、ちょっとええですか」それまで一言も発していなかった佐伯が言った。
「なんでしょう?」
「あの、十年以上前になると思うんですけど、自治会で集落の交差点などの要所要所に防犯カメラを設置してはどうか、ということが提案されたことがあるんですよ。私はそんときに防犯担当役員じゃったけん覚えとるんですけど」
「そんなことがあったんですか?」
「ええ……。賛成する人が多かったんじゃけど、業者に見積もりを頼んだら、かなりの額になってしもて、しかも電力会社に電柱一本一本ごと借りる申請をせにゃいかんということで、立ち消えになってしまったんです。こんな物騒なことが起こるようなら、もう一回検討してもええ気がするんですけど、いかがじゃろか」
 五島はしばらく考えていたが、
「難しい問題ですね。防犯カメラ設置するとなったら、自治会費も値上げせにゃいかんことになるじゃろうし……、役員と班長だけで決めてええことじゃないでしょう。たぶん住人総会特別決議が要るじゃろう。今ここでは、何とも言えんです」
「そうですか……」
 発言する人がいなくなり、集会所は静まり返った。外から窓を隔ててカラスの鳴き声が聞こえてくる。
「それじゃ、臨時の回覧板を回すとして、文面はどうしましょうか」美咲が言う。
「えっと……、戸締りはきちんとすること、不要不急な外出はなるべく控えること、警察の聞き込みには協力すること、気が付いたことがあれば警察に連絡すること、くらいかね」と佐藤が言った。
 敏子がメモ帳にボールペンを走らせる。
「えっと、たぶんこれだけ現場近くだと、聞き込みは複数回来ると思うので、そのことも書いておいていただけますか?」水上が言った。
「わかりました」と敏子が答える。
「それじゃ今から家に帰って、文書を作って、いつものように広報さんのお宅に届けたんでいいですか?」美咲が言った。
「いや、まあ今日はもう遅いし、明日でもいいじゃろう。あんまり出歩くと、物騒じゃから。明日のお昼くらいまでに、広報の島本さんのところに持って行ってもらえばええでしょう。島本さんには、私のほうから知らせておきます」
「あ、はい」
「では、ほかに何もなければ散会とさせていただきますが」
 発言する者はいなかった。
 集会所の下駄箱で靴を履きながら、美咲は、
「そういえば、うちにやってきた刑事さんは一人だけだったんですけど、刑事ドラマでは捜査は二人一組でやるみたいな描写が多いですけど、そんな決まりはないんですか?」と水上に訊いた。
「私が刑事だったころ、今から二十年前はそうだったんですけど、最近ではベテランだと一人で地取りに出されることが多いみたいですね。どこも人間が足りてないので。今回もたぶん捜査本部ができれば、本部だけじゃなくて隣の警察署の刑事も動員されるでしょうね。そのぶん、あっちが手薄になるんでしょうけど」
「どうして、刑事をやめて交通課に移ったん? 刑事は花形じゃろうに」と佐藤が尋ねた。
「いやあ……それが、向いてないというか、とにかく刑事はハードワークなんですよ。まあそれはいいんですが、刑事ってね、臭いんですよ」
「臭い?」
「ええ……。私が刑事になったばかりのころ、県南のほうで殺人事件があったんですが、捜査本部ができると、人が会議室に集まってぎゅうぎゅうになるでしょう。それに、本部から来てる連中や応援に駆け付けた人間は、武道場とかにせんべい布団並べて泊まり込みになるんです。人が多いから、風呂なんかまともに入ってる余裕はないんで、もうシャワーで水をかぶるだけ、みたいな」
「へえ。たいへんなんじゃね」
「最近はだいぶ女性警察官も増えてきたとはいえ、まだまだ男が仕切ってる世界です。泊まり込みだとコンビニ弁当や出前なんかの脂っこいものばかり食べることになるし、当時は署内は禁煙じゃなかったから、捜査本部はもう、タバコの煙と中年の汗と脂の臭いで満ちていて、吐きそうになってしまって。で、これじゃ俺には刑事は勤まらんということで、移動願いを出したんです」
 それを聞いて、喫煙者である美咲は少し耳が痛かった。
 集会所を出ると、水上は現場の見張り番をしてる制服警官に近寄って、「ご苦労様です」と言って敬礼をした。
「あの方、ひょっとして寝ずに番をするんですか?」美咲が尋ねる。
「もちろんどこかのタイミングで交代するでしょうが、まだ鑑識が必要みたいなんで、二十四時間体制で続けるでしょうね」


 翌日の朝、「美咲ちゃん、早く起きなさい。ごはん食べるよ」と階下から叫ぶ敏子の声で美咲は目を覚ました。 
 朝食を終えて敏子が出勤すると、メールチェックを済ませた美咲は朝のワイドショーなどを見ながら怠惰な時間を過ごしていた。今日はオンライン会議の予定はないので、ついつい作業は後回しにしてしまう。ワイドショーはどの局もほとんど内容は同じで、新型感染症の感染者の推移をグラフにしたフリップを出して、無策の政府を批判している。
 午前十時を過ぎてようやく、昨日の臨時の役員班長会議で決まった内容を文書にしなければいけないということを思い出し、自室に入る。

***

九月二十三日
自治会長よりお知らせ


皆さまご存知のとおり、九月二十二日未明に、中央公園において男性の遺体が発見されました。
つきましては、次の事項を遵守していただきますようお願いします。

①警察により捜査が進んでいますが、犯人はまだ見つかっておりません。外出時や夜間などは戸締りを徹底してください。

②警察の聞き込みが来た場合、ご協力をお願いします。聞き込みは複数回来る場合があります。

③不審な人物などを目撃した場合は、警察署へ連絡してください。

④その他、お気づきのことがありましたら、防犯担当役員佐藤までご連絡ください。

⑤感染症予防のため、手洗いやマスクの着用、三密の回避に引き続きご協力ください。

以上

***

 パソコンにプリンタを接続して、印刷を開始する。
 紙が次々に吐き出されてくるが、四枚目あたりからインクがだんだん擦れたようになり、八枚目になるともはや何が書いてあるのかまったく読めない。
「うそ、まじで」美咲は独り言を言った。
 少し前から、「黒インクの残量が残りわずかです」という警告が出てはいたのだが、まだいけるだろうと高をくくっていた。
 黒インクを買いにいかなければならないが、インクを販売しているような大型の電器屋は、片道十キロ以上離れた場所にあるので、歩いて行ける距離ではない。敏子は車に乗って仕事に行ったので、連れて行ってもらうことはできない。
 インクを買うためだけにタクシーを呼ぶのも憚られる。
「あ、そうだ」
 美咲はスマホを取り出して、雄一郎にメッセージを送る。
≪ゆうちゃん、ちょっといい? 暇なら連れてってもらいたいとこがあるんだけど≫
 すぐに既読になって、返事が返ってくる。
≪かまんけど、どこ?≫
≪電器屋。プリンタのインク切れちゃって≫
≪オーケー。山田電機でええかね?≫
≪近いとこでいいよ≫
≪今からそっち行ったんでいい?≫
≪お願いします≫
 美咲は髪の毛を後頭部でゴムで留めると、シャツを着替えてパンツを履き替えた。家のなかの全ての窓に鍵が掛かってることを確認すると、表でクラクションが鳴ったのが聞こえる。
 美咲はあわてて、財布を持って表に出た。
「急にごめんね、ありがとう。助かった」そう言いながら雄一郎の軽自動車に乗った。
「じゃあ、行くよ」
 車は道路をすいすいと進んでいく。
 国道のバイパス道路まで出たところで、
「昨日から、例の事件ですっかり騒ぎになっとるみたいじゃのう」と雄一郎が言った。
「やっぱり?」
「めったにあることじゃないけん、みんな興奮しとるみたいじゃ。うちのオカンが言うには、犯人探しみたいなことを始めとる人もおるらしい。どこそこの誰が怪しい、みたいな」
「そんな、集落の人が犯人と決まったわけでもないのに」
「まあ、好奇心半分、怖さ半分で何やらせんと落ち着かんのじゃろ。近所で人が死んで、不安に思わん人はおらん」
 車は赤信号で止まった。
「でも、リモートワークでも、プリンタのインクなんか使うん?」
「いや、仕事はほとんどデータで送ってるから、紙の書類が要るのはちょっとしかないんだけど、回覧板の文書を作るのに必要なのよ」
「回覧板? あの、回ってくるやつの?」
「そう」
「あれ作ってるの、みっちゃんやったん?」
「うん。だって今年はうちのお母さんが自治会の書記やってるんだから」
「そうじゃったんか。知らんかった。それじゃあ、もし来年、うちが書記に当たったら大変じゃ。うちはオカンもオトンもパソコンよう使わんし、俺も苦手じゃし」
「すぐできるよ、あんなの。わからなかったら、私が教えてあげるよ」
「でも、みっちゃんはリモートワークが明けたら、東京に帰るんじゃろ?」
「ああ、それが……。リモートを継続するかどうか、まだ会社のほうでも方針が決まってなくて。ずっとリモートで行けるなら、あっちの部屋片づけて、こっちに帰ってくるのもあるかもね。家賃も高いから」
「それじゃ、ペーパードライバー卒業せにゃいかんの。こっちじゃ、車なしじゃと不便じゃ。毎回俺が運転手できるわけじゃないし」
 軽自動車は郊外にある大型電気店の駐車場に入った。

第三話


 十月に入って二回目の日曜日の昼、美咲は徒歩で雄一郎宅に向かった。外は少し涼しくなり、どこの家の庭木も徐々に秋っぽく色付きつつある。
 雄一郎の住む家は、瓦葺の和風な一戸建てで、築年数は美咲の家とほぼ同じだろう。車庫は縦に二台停められるようになっているが、雄一郎の軽自動車しかない。
 インターホンを鳴らすと、「はい」という声がスピーカーから聞こえてきた。
「美咲です」と言うと、
「おう、開いてるから入ってきてえ」と雄一郎が言った。
 二足分のゴム製サンダルが無造作に転がっている三和土《たたき》でスニーカーを脱ぎ、お邪魔します、と言って上がった。
 この家に来るのは、もう二十年ぶりくらいになるのだろうか。子供のころに何度も来たことはあるのだが、中学生になったころからはすっかり絶えた。高校生になり付き合うようになっても、ふたりで会うのは母子家庭で母が仕事でいない美咲の家ばかりで、ここに来ることは全くなかった。
「いらっしゃい。こっち」雄一郎が言った。
 リビングに入ると、向こう側の台所でエプロン姿の雄一郎が柳葉包丁を持って料理をしている。
「そこ、座って。今日はオトンもオカンも出掛けて夕方まで帰って来んけん」振り向いて雄一郎は木製のダイニングテーブルを指さした。
 美咲は言われたとおりに、椅子を引いて座る。
「うん、ごちそうになります」
「もうすぐできる。あと十分くらい」
 ガスコンロの火に掛けられた鍋の蓋が、水蒸気を吐き出しながらカタカタと音を立てている。
 SNSのメッセージで、一回うちに料理食べに来んか、と雄一郎に誘われたのは三日前のことだった。料理人としての腕が鈍らないよう、月に一度か二度は本気で料理をするらしい。
 テーブルに座って待っていると、
「とりあえず、これ」
 刺身が乗っている陶器製の皿と、割り箸を出してきた。
 大根のツマの上の刺身は鯛のようだが、皮が付いたままになっている。
「松皮づくりっていうんじゃ。鯛の本当のうまみは、皮ごと食べんとわからん」
 取り皿の濃い醤油にその刺身を箸で一切れつまんで漬け、口の中に入れる。臭みはまったくなく、ふつうの刺身より鯛独特のコクが強い。
「おいしい」と美咲は言った。
 次に雄一郎は蓋をした椀を出す。蓋を開けると、お吸い物のようだが実が何も入っておらず、白ごまが浮いているだけだった。
 何かの間違いだろうか、そう思って、
「ゆうちゃん、このお吸い物、何にも入ってないよ」と言った。
「まあええから、一口飲んでみい」
 言われるままに啜ると、薄味の汁のなかに旨味がしっかり詰まっている。
「なにこれ、おいしい」
「鯛の中骨をしっかり火であぶって、それを利尻と一緒に出汁を取るんじゃ。ほいで、日本酒と塩と醤油で味を付ける。ほかの魚とか鶏肉なんかを煮たら、味が濁ってしまうけん、この出汁はそのまんま飲むんがいちばんええんじゃ」
「へえ、さすが高級料亭で修行しただけあるね。ちょっとだけ鼻にツンと来るけど、何か香辛料入れてるの?」
「気づいた? ちょっとだけ山椒の粉を入れとる。本当は企業秘密じゃけど」
 次は、陶器の茶碗にアルミホイルで蓋をしてあるものが出て来た。雄一郎は美咲の目の前でアルミホイルを外す。それは茶碗蒸しで、固まった玉子の表面に緑のミツバが浮かんでいる。
 木製の匙で掬うと、小ぶりな牡蠣が出てきた。
「牡蠣がうまくなるんは本格的に寒くなってからじゃけど。あんま豪華な食材も用意できんし」雄一郎は言い訳のように言う。
「おいしいよ、本当においしい」美咲はお世辞抜きで言った。
 豪華な和食のメニューに似合わず、なぜか次は油揚げと小松菜の煮物が出てきた。美咲は別に油揚げも小松菜も嫌いではないが、なぜ雄一郎はこんな家庭料理を混ぜてくるのだろう。
 そう思いながら箸でつまんで口に入れると、油揚げが吸い込んでいた濃厚な出汁で口のなかが満たされる。
「なんでこんなふつうの料理が、こんなになるの?」美咲は感嘆する。
「まあ、それがプロの腕っちゅうもんじゃ。高い食材さえ使えば、そらうまいもんはできるけど、やっぱりふつうのもんをうまく仕上げてこそじゃ」
 最後は、サーモンを薄く切ったものと、すだちで味付けした白髪ねぎと海苔が乗ったお茶漬け。さっぱりしたなかに香ばしさがあって、するすると喉を通っていく。
「ごちそうさまでした」
 茶碗を置くと、雄一郎は熱い緑茶を入れてくれた。
「ゆうちゃんはお昼は先に食べたの?」
「俺には鯛のお頭があるんじゃ。しっかり煮込んで、後で食べる」
 雄一郎もダイニングテーブルに着席して、湯飲みでお茶を飲む。
「さすがプロだね。おいしかった。こんだけ料理できたら、もうお母さんの立つ瀬がないんじゃない?」
「それが、うちのオカンは俺が料理したらダメ出ししてきよるんじゃ。この味付けはおかしいとか、包丁の使い方が下手とか、化学調味料は使ったらいかんとか。まあこだわりがあるんじゃろう。みっちゃんは、料理はせんの?」
「ぜんぜん、ダメ。今はお母さんがやってくれてるけど、あっちにいるときはほとんど外食かコンビニかインスタントだった」
「不健康なことじゃ。人間、四十になったらそれまでやってきた不摂生のツケが一気に来るらしいけん、今から気を付けにゃ」
「わかりました、気を付けます」
 美咲は小さく頭を下げた。
「ゆうちゃん、バツイチなんでしょ? 何で離婚したの?」
「さすが、遠慮せずに訊いてくるなあ」
「遠慮したほうが良かった?」
「いや、せんでもええけど。……でも正直言うて、俺にも理由がわからんのじゃ。娘が産まれて一年が過ぎたころ、仕事が終わって家に帰ってきたら、急に嫁さんと娘がおらんようになっとった。夕方になっても帰ってこんけん、あちこち電話してみたんじゃが、どこも知らんて言うて。結局、嫁さんの実家に帰っとったらしいんじゃが、嫁さんの父親は『どこにいるかは言えない』みたいなことを言うた。ほいで、一方的に『あんたにも反省するところがあるだろ』とか、『しつこいと警察呼ぶぞ』とか」
「なに、それ。そんなことあるの?」
「しばらくしたら、家に弁護士から内容証明がやってきてな。要するに、DVとモラハラを理由に離婚をする、慰謝料五百万円を払え、拒否するなら離婚調停を申し立てる、みたいな。内容証明なんか出されたことなかったけん、びっくりしたわい。役所と警察のほうには、もう俺がDVをしていたとして通知が行っとったみたいで、どうしようもなかった」
「本当にDVとかしてたの?」
 雄一郎が暴力などできない男であることを、美咲は知っている。のんびりして、人のことを優先する性格であることは、昔も今も変わっていない。
「神に誓っていうけど、一切しとらん。まったく身に覚えがなかったし、今でもなんでそんなことになったかわからん。……で、自分だけじゃどうにもならんけん、こっちも弁護士にお願いしたんじゃが、相手にはDVの証拠になる医者の診断書があるとかで、たぶんその半年くらい前に自転車で転んだときのやつなんじゃが、だからこっちが圧倒的に不利になるだろう、と。弁護士の先生が言うには、なぜ相手がこんな訴えをするのかわからないが、『もう相手にあなたを愛するつもりはないだろう、人をむりやり愛させることは不可能、そして男親が親権を取れる可能性は極めて低いから、将来のことを考えるなら、ここは前向きにいったん引いて、一から人生をやり直すほうが得だ』って説得されてしもての。親権は向こうで、俺の貯金を財産分与として八割を引き渡すかわりに、慰謝料はなしという条件で、受け入れることにした」
 一方的に子供を連れ去られ、DVをでっち上げられ、離婚を突き付けられる。そういう事例があるということは耳に挟んだことはあったが、まさかその被害者に遭うとは思っていなかった。
「司法は、少なくとも親権や離婚に関しては、女の味方なんじゃ。男の言うことは聞いてもらえん。それがようわかった」
「お子さんの養育費は?」
「今も銀行振り込みで払うとる。毎月五万円。娘が十八になるまでだから、あと十三年かな」
「お子さんとは会えてるの?」
「いや、ぜんぜん。面会交流の取り決めはしとったんじゃが、知らん間にどっかに引っ越したらしくて、今はどこにおるかもわからん」
「そんなこと勝手にして、大丈夫なの? どこにいるかもわからない子のためにお金払い続けるって……、ゆうちゃん納得してるの?」
「納得しとらんが、納得するまで戦おうとすると、こっちのダメージのほうが大きくなってしまう。損か得かという面で考えると、相手の言うがままになるのがいちばんマシになるんじゃ」
 しんみりとしながらも、あっさりとそう言った雄一郎の様子を見て、美咲は雄一郎が今までに受けた苦痛を推し量る。
「たいへんだったんだね。ご苦労さま」
 二杯目の緑茶を飲んでいると、
「そういや、公園のうわさ、聞いた?」と雄一郎が話題を変えるように言った。
「公園?」
「そう、事件があった中央公園」
 新光集落の中央公園で遺体が発見された翌々日、警察署には捜査本部が起ち上げらたらしい。ずっと捜査が続いて、すでに遺体発見から三週間近くが過ぎている。しかし捜査は遅々として進んでいない。遺体が誰なのかもわかっていない。もちろん犯人も捕まっていない。
 美咲の家にはあれから三回、警察が聞き込みに来た。そのうち一回は敏子がいろいろ詳しく聞かれていたが、ほかの二回は「何か新たに気づいたことや、思い出したことはないですか?」と聞かれるだけで、何も進展はないようだった。
「何かあったの?」
「それが、あの公園で、幽霊が出るといううわさが立っとるんじゃ。若い男の幽霊で、夜になったら現れるとか」
「そんな、まさか」
 美咲は鼻先で笑った。美咲はそういう類の話はまったく信じていない。幽霊などただの目の錯覚か、あるいは精神に異常をきたした人の妄想だと思っている。
「最初は小学生のあいだで広まったらしいんじゃが、怖いと言い出す子が多くて、通学路も公園の前を通らない道に変更になって、わざわざ遠回りしとるらしい」
「そんな騒ぎになってるんだね。ゆうちゃんはその幽霊見たことあるの?」
「いや、もちろんないけど。まあ子供が怖がるんはしゃあないじゃろ」


 家の自室に帰って、さっそくタバコを吸った。雄一郎の家では喫煙者はいないらしく、さすがに「タバコ吸っていい?」とは聞けなかった。
 時刻は夕方三時を過ぎたあたり。
 美咲は小さな手持ちの鏡を見て、頭頂部の生え際が黒くなっていることを確認する。襟足の髪の毛もそろそろ伸びてきた。前に酒本の美容院に行ったのは、二か月ほど前だったか。
 今日は日曜日なので、美容院は混んでいるかもしれない。明日の月曜日は定休日だ。
 確認のために、スマホを取り出して電話を掛ける。
「あ、もしもし。古瀬美咲ですけど」
「あら、美咲ちゃん。どうしたの?」
「お忙しいところ、すみません。髪の毛切っていただきたんですけど、今日か、明後日あたりにお願いしたいんですが、大丈夫ですか?」
「あ、うん。今日なら、夕方五時半くらいになると思うけど、それならオッケー。明後日なら、たぶん昼からならだいたい大丈夫。カットとカラーだけでいいのよね?」
「あ、はい。じゃあ、今日の五時半に伺います」
「うん、ありがとうございます。お待ちしてます」
 電話は切れた。

 二時間ほど動画サイトを見ながら時間を潰し、午後五時二十分に家を出る。
 集会所の前、そして中央公園の前を通って、坂本の美容院に向かう。事件直後は中央公園前には見張りの警察官が立っていたが、その翌々日の夕方には鑑識作業を終えて撤収したらしかった。
 今日の雄一郎の話では、ここに幽霊が出ると小学生のあいだでうわさになっているとか。事件後の現場は気味が悪いと思ってしまうのか、公園に入る人はいないようで、ひっそりとした空間になっている。
 酒本の美容院に到着すると、美咲の母親と同い年くらいの女性が椅子に座っていて、半袖のシャツを着た酒本が客の髪の毛を乾かしていた。
「あ、美咲ちゃん。いらっしゃいませ。ごめん、もうちょっとだけ待っててね」
「はい」
 その女性客は、顔に見覚えはあるが、名前はわからない。狭い集落だが、全ての住人の名前と顔を覚えるには広すぎ、全ての人を完全に他人としてしまうには狭すぎる。
 美咲は客用のソファに座って、棚のファッション雑誌を手に取った。
 五分もしないうちに先客の仕上げは終わり、会計をして退店していった。
「おまたせ、どうぞ」酒本が美咲を椅子に座るよう促した。
 座ると、酒本は美咲の背中を掌底部で押し、その手を肩から腰のほうへ動かして行く。
「相変わらず、凝ってますねえ。最近も仕事忙しいの?」
「ええ、まあ」
「うちの店も美咲ちゃんの会社に頼んで、ウェブサイト作ってもらおうかしら」社交辞令のように酒本が言う。
「やめといたほうがいいですよ。私が言うのもあれですけど。オンラインで予約できるシステムみたいなのを組むならともかく、普通のウェブならサンプルのソースコードをいじれば簡単に作れるから、わざわざ業者に頼むようなものじゃないです。正直言って、うちの会社高いですし」
 マッサージの刺激を受けながら、皮膚が得た軽い痛みが、快感となって身体の内側に伝わっていく。
「毎日、何時間くらいパソコン触ってるの?」
「さあ……、日にもよるんでるけど、ちょいちょい休みながら、結局はたぶん六時間くらいですかね」
「そんなに。そりゃこれだけ凝るわね」
「IT屋も、肉体労働みたいなものですから。でも運動不足になりがちで肥満の人が多いから、プログラマは四十歳が限界とか早死にする人が多いとか、言われることもあるんですよ」
「たいへんね。身体に気を付けてね」
 マッサージが終わると、首に店名の入ったケープを巻かれた。
「どうしよう。前とおんなじくらいでいい?」
「そうですね、ちょっと短めにしてもらおうかな」
「わかりました。じゃあ前より三センチくらい短くするね」
 髪を切ってもらいながら雑談し、話題は必然的に事件のことになった。何回警察が来たとか、来た警察の人はどんなだったか、みたいな内容。
「そういえば、公園で幽霊が出るみたいなうわさが立ってるらしいんですけど、酒本さんは知ってますか?」
「うん、そういううわさが立ってるってことは、聞いたことはある。ていうかね、夜中に事件現場を面白半分で見学に来てるのか、それとも肝試しのつもりなのか、集落外から若いのがやって来てるみたいなのよ。特に、週末に。うち、近いから、公園のほうから声が聞こえてきてね。昨日の夜も何組か来てたんだけど、正直言ってちょっと迷惑よね」
「そうですか。……で、本当に幽霊出るんですかね?」
「出るわけないでしょ。そりゃ殺された人にとっては不本意に違いないでしょうけど、ここに出て来られてもねえ」
 カットが終わり、ブリーチを塗ってもらう。強いにおいが鼻を刺激してくる。
「あ、そういえば、うわさと言えば……」酒本はそう言った後、いや、やっぱりなんでもない、と言おうとしていた言葉を飲み込んだ。
「なんですか? 気になるじゃないですか」
「いや、本当に大したことではないんだけど」
「聞かせてくださいよ」
「いいけど、気分悪くしないでね。悪気があるわけじゃないから」
 いったい何だろう。美咲は次の言葉を待った。
「例の事件、犯人はあいつだ、みたいなうわさがいくつか流れてるみたいなのよ」
「そうなんですか?」
「まあまったく根拠はないみたいなんだけどね。私こういう仕事してるから、そういううわさ話は耳に入ってくるから」
「で、犯人は誰なんですか?」
「まあ、あそこの家のあの人が怪しいとか、この人が怪しいとか。で、何人か具体的に名前挙がってるみたいなんだけど、そのうちの一人が、窪園さんとこの息子さんみたいなのよ」
「え、ゆうちゃんが?」美咲は小さく叫ぶ。
「あ、そうか。美咲ちゃんと窪園さんの息子さん、たしか同級生だったんだよね。本人に言っちゃだめよ」
「言いませんよ。というか、言えませんよ」
「まあ要するに、いい歳をして、実家に帰ってきて仕事もせずにブラブラしてるみたいだから、不審人物扱いされてるんでしょうね。それに離婚した理由が、どうやら前の奥さんに暴力やってた、みたいな話もあるみたいだし」
 美咲は顔には出さなかったが、無責任なそのうわさに強い憤りを感じていた。何を根拠にそんなデマを流しているのか。
「ゆうちゃん……、窪園さんが帰ってきたのは、勤めていたお店が潰れたからで、どうしようもないですよ。昨今、飲食店はどこも厳しいんだから。私、昔からゆうちゃんを知ってるからわかるんですけど、ゆうちゃんは暴力できるような人じゃないですよ。まして、人殺しなんて」
「まあ、そうよねえ」
 空気が気まずくなったのか、ふたりとも黙ってしまった。
「うーん……。じゃあ、美咲ちゃんの耳に入れといたほうがいいのかなあ」と酒本がためらいがちに言った。
「なんですか?」
「怒らないでね、あくまでもそういう無責任なうわさが流れてるってだけだから。……もうひとり、犯人かもしれないと怪しまれてる人がいるのよ」
「誰ですか?」
「美咲ちゃん、あなた」
 それを聞いて、美咲は絶句してしまった。
「美咲ちゃんが犯人じゃないかって疑ってる人がいるみたい」
「いったい、誰がそんなことを……。私も不審人物扱いされてるんですか?」
「ごめんなさい、お客さんの情報だから、誰から聞いたかは言えない。でも、後からこの集落に引っ越してきた人は、美咲ちゃんがこの集落出身だって知らない人もいるから……。それに美咲ちゃん、車を運転せずに歩いてるでしょ。田舎だと移動はみんな車でするもの思ってるから、なんでわざわざ歩いてるんだろうって、不思議に思う人がいるんでしょうね」
 美咲は重いため息を吐いた。
 たしかに、コンビニに買い物に行くのにわざわざ歩く人は、この集落内にはいない。十八歳を超えていて運転ができない人間など、足腰が動かなくなった年寄り以外には誰もいないのだ。徒歩で移動する自分を、少し浮いた存在だと思うことは我ながらあった。
「ごめんなさい、へんな話聞かせて」酒本が申し訳なさそうに言う。
「いえ、いいんです。私が話してくださいっていったんだから。私の知らないうちに不審人物扱いされるよりは、知れてよかったですよ。ありがとうございます」
 それは美咲の本心だった。
 それから約三十分あまりで、シャンプーとドライヤーを終えた。
 会計を支払って外に出ると、すでに薄暗くなっていた。帰宅するには、中央公園と集会所の前を通らなければならない。
 中央公園の入口の街灯すでに光っており、道路と公園を隔てる金属製の柵を照らしている。もちろん幽霊などはそこにいない。


 帰宅すると、午後七時を過ぎていた。
 敏子は先に夕食を済ませたらしく、ダイニングテーブルに美咲のぶんのアジフライと小鉢の五目豆が残っている。
 ソファに寝っ転がってテレビを見ている敏子の姿をよそに、ごはんと鍋のみそ汁を椀に注いで食べた。
「ねえ、お母さん。公園に殺された幽霊が出るってうわさが流れてるらしいんだけど、聞いたことある?」アジフライをかじって美咲が言った。
「いや、知らん」敏子は即答した。
「幽霊って、いるのかな?」
 こういう話を美咲は母としたことはなかった。美咲が子供のころには、テレビで心霊番組などをたくさんやっていた記憶があり、怖がりながらも見た記憶がある。しかし、ある時期を境に心霊番組は急激に衰退した。某宗教団体のテロ行為が、メディアがオカルトを慎むきっかけになったという話を聞いたことがあるが、真偽のほどはわからない。
「そりゃあ、おるじゃろ。幽霊というてええんかどうかはわからんけど、死んだ後の人の念というんは、この世に残ると思う」敏子が言った。
 和室の仏壇の仏器には、今日も飯が供えられている。
 母らしいと美咲は思った。


 翌日の月曜日の昼すぎ、パソコンでスタイルシートのコードを書いていた。会社の営業が新たに取ってきた案件で、仕様書にはこれから作成するウェブサイトに記載する「SDGs」とか「ESG」という、最近流行の文言がならんでいる。新たに設立される予定の企業で、ジェンダーフリーや環境に配慮した経営を行うためのアドバイスをするコンサルタント会社のようだ。
 グローバル、イシュー、ソリューション、サスティナブル、コミットメント、パラダイムシフト、ヒューマンリソース、フィージビリティー、アファーマティブアクション……、もはやどこの国の言葉なのかもわからない意識の高そうな単語を眺めてうんざりしていると、一階で固定電話の呼び出し音が鳴っているのが聞こえる。
 率直なところ、美咲は電話に出るのが面倒くさく感じていた。美咲個人に用事があるなら、スマホに直接電話を掛けてくるか、メールかSNSのメッセージを送信してくるはず。母の敏子も、いわゆるガラケーというやつだが、携帯電話を持っている。固定電話にわざわざ電話を掛けてくるのは、保険やリフォームなどの勧誘ばかりだった。母に、「固定電話、契約解除したら?」と何度か言ったことがあるのだが、「もし何かがあったときのために」という曖昧な理由で、契約を続けている。
 十回コールを終えても、電話は鳴り続けている。十五回、十六回と数えながら、一向に止まない。
 美咲は仕方なく一階に下りて、受話器を上げた。
「はい、古瀬です」
「もしもし、二班班長の高崎と申します。お世話になっております。古瀬敏子さんはいらっしゃいますでしょうか?」
 役員班長会議に出席していた高崎達子の姿を思い出す。六十代半ばで、ごく普通の婦人。白髪染めをする習慣がないのか、長い髪の毛はグレー。真夏でも濃い色の長袖のシャツに、足首まである長いスカートをはいていて、大きなハットをかぶっていた。
 役員班長会議ではほとんど口を開かず、高崎が何かを主張しているところを見た記憶は美咲にはない。高崎の住む二班は、美咲の六班とは離れた位置にあるため、道端ですれ違うということもなかった。
「母なら仕事に行ってます。帰ってくるのは、五時くらいになると思いますけど、何か御用でしょうか?」
「あの、お願いしたいことがありまして……」
 次の言葉を美咲は待ったが、なかなか出てこない。
「なんでしょう?」と催促する。
「回覧板で回してもらいたいことがあるんです。大事なことですので……」
「えっと……、回覧板のことなら、次の役員班長会議で提案すればいかがですか? 次の会議は再来週でしたっけ」
「できれば、早いほうがいいと思いまして」
 何が言いたいのか、いまいち掴めない。
「まあ、私には決める権限はありませんので。母が帰ってきたら、そちらにお電話差し上げるよう言っておきます」
「お手数お掛けして、申し訳ございません。よろしくお願いします」
 電話を切って、美咲は多少の不愉快を感じていた。回覧板の文書を作るのが、他愛もない作業とはいえ、そう何度も便利に使われると、気分のいいものではない。新たに買ったプリンタの黒インクも使用する紙も、美咲が自腹で購入したのだ。
 今になってインク代を会計担当役員の東に請求しようかと思ったが、雄一郎に連れて行ってもらって買ったときのレシートはすでに捨ててしまっている。
 美咲は自室に戻って、作業の続きを開始した。

 五時すぎに敏子が帰宅してきた。
 二班班長から電話があったことを知らせると、
「いったい、何の用じゃろね」と言った。
「よくわかんないんだけど、回覧板で回してほしいことがあるとか言ってたよ」
「何なんじゃろ」
 達子は冷蔵庫にマグネットで留めてある自治会の名簿の紙をはずし、固定電話の受話器を上げてダイヤルした。
「あ、どうも。古瀬ですけど、お電話いただいたようで。ええ、ええ……。回覧板? 何でしょう……。被害者の名前? なんでそれがわかったんですか。ええ、ええ。そんなこと言われましても……。自治会長さんのほうにも聞いてみないと、いや、それは私には何とも。……すみません、何を言うとるんかちょっとわからないです。……わからないです。えっと、今からですか? いえ、問題ないですけど。……とりあえず、それを見ればいいんですね? お待ちしております」
 美咲は敏子が受話器に向かってしゃべっているのを横で聞いていた。しゃべりながら、敏子の表情はだんだん険しくなり、眉間にしわが深くなっていく。
 電話を切った敏子に、
「何なの、どんな用なの?」不信感と好奇心を消すため、美咲が訊いた。
「いやあ、正直、わからん。この前の殺人事件の被害者の名前がわかったとか言いよったけど、途中から言いよることの半分も理解できんかった。まあ、とりあえず今からうちに来るらしいけん、お茶でも用意して待っとくしかないじゃろ」電話で話すときと打って変わって、敏子はいつものように方言を使うようになった。
 美咲が急須にお湯を入れていると、来客を告げるインターホンが鳴った。敏子が玄関のほうに向かう。
「お疲れのところ、いきなりすみません、お邪魔します」
「むさくるしいところですが」
 そのような形式通りの挨拶の後に、敏子が高崎を仏壇のある和室に導いた。
 敏子と高崎が冬にはコタツになるテーブルに向かい合って座った。両者とも正座をしている。
「どうぞ」美咲はそう言って高崎に熱い緑茶を出した。
「どうも、すみません」と高崎は丁寧に頭を下げた。
 美咲はお盆を空になったお盆を畳の上の置くと、敏子の横に座った。どうやら高崎の訴えようとしていることに回覧板が絡んでいるらしいので、自分も話しを聞いたほうが良いだろうと判断した。
「で、いったい何のご用でしょう?」
「電話でもちょっと言いましたけど、この前の事件で殺された人の名前が判明したんです」
「なぜ、それを高崎さんがご存知なんですか?」
「先生に見ていただいたんです。亡くなった方の霊を降ろして、先生の肉体に憑依させて、語ってもらったんです。亡くなった方は、高坂翔太郎《こうさかしょうたろう》という人のようです」
 思わず美咲は敏子と目を見合わせる。そして、敏子が得体の知れないものをみるような視線を高崎に向けた。
「あの……、その、先生というのはいったい、どちら様なんでしょう」敏子が言った。
「あ、すみません。そこから説明しなければいけませんね。清光弥勒会《せいこうみろくかい》の教祖様のことです」
 再び美咲は敏子と目を合わせる。
「えっと……、それは宗教団体ということでいいんですか?」
「まあ、世間一般の言い方をすれば、そうなるんでしょうが、清光弥勒会は宗教法人の法人格は持っておりませんし、自らの活動を宗教だという認識は持っていません。弥勒会は、いずれ現れる未来仏たる弥勒様をお迎えするための準備をする人が自発的に集まって、日々修行をしているのです。つまり、弥勒会の活動は宇宙の摂理なんです」
 高崎はまっすぐな視線でそう言った。どうやら、洒落や冗談ではないらしい。
 あなた頭狂ってるんじゃないか、そんな言葉が喉元まで出かかったが、下手に刺激するとどんな反応がやってくるのか、わかったものではない。何とか努力して苦笑を作り出すのが精一杯だった。
 敏子が顔を引き攣らせたまま黙っているので、美咲が、
「で、その何とか会のことはわかりましたが……、いえ、正直言ってわからないんですけど……、それと亡くなった方とがどう関係するんでしょう?」と言った。
 高崎は一口お茶を飲んでから、
「見ていただいたほうが早いと思います」
 脇に置いていた小ぶりのバッグから、スマホを取り出した。六十代の人には似つかわしくない、最新のスマホだった。
「ご覧ください」
 高崎はスマホを操作して、画面を美咲と敏子の前に差し出した。全画面表示になった動画が再生されている。
 画面には、歳は四十代か五十代くらいだろうか、青いスーツを来た細身の男が、つくりのしっかりした高級そうな机の向こう側に座っている。その男は、座ったまま何度か合掌して礼を繰り返し、「未来仏たる弥勒菩薩の名において、先日身許に旅立ちたる魂をここの降霊する」と叫び声のようなものを発した。
 その後、小さいな声でぶつぶつと呪文のようなものを繰り返した。
 そしてその呪文が絶えると、男はいきなり机の上に倒れ込んだ。が、すぐに起き上がる。
≪ようこそいらっしゃいました。まずあなたのお名前を≫画面には映っていないが、部屋にいるらしい女の声がそう言った。
 その声は高崎のものではないようで、おそらく若い女性のものだと思われる。
≪くるしい……≫目を閉じたまま、苦悶の表情で男が言った。
≪苦しい?≫
≪くるしい……≫
≪なぜ、苦しい?≫
≪殺されて、くやしい……≫
≪あなたの名前を教えてください≫
≪俗世での名前は、こうさか……≫
≪こうさか? 高いに坂道の坂でこうさか、なんですね?≫
 男は肯いた。
≪しょうたろう≫
≪それが下の名前なんですね? しょうたろうのしょうの字は≫
≪飛翔のしょう≫
≪高坂翔太郎さん。年齢は?≫
≪二十八歳。先月誕生日を迎えたばかりだった≫
≪事件のことを聞かせてください。あなたを殺したのはいったい誰ですか?≫
≪……わからない。見たこともない男だった≫
≪犯人は男なんですね? 犯人の姿はどんなのだったんですか?≫
≪黒いパーカーを着た、六十代か七十代くらいの男……≫
≪なぜその男はあなたを殺したんですか?≫
≪わからない……≫
≪犯人は今どこにいるんですか?≫
≪現場周辺にまだいる……≫
≪現場周辺にいるんですね?≫
≪早く、早く捕まえないと、災いは繰り返される≫
 男はまた机の上の倒れ込んだ。
 高崎が動画の再生を止めてスマホを引っ込めた。
 三度《みたび》、美咲は敏子と目を合わせる。敏子はもはや汚物を見るような目で高崎を見て、一方美咲は笑いさえ込み上げてきた。
「ご覧になったように、犯人はまだ近くに潜伏しているみたいなんです。ですから、住人の皆さんに注意喚起をして、特に見ず知らずの六十代か七十代の男性がいたら警戒するよう、回覧板で呼びかけてほしいんです」
「そ、それは、降霊術みたいなものなんですか? イタコみたいな……」
 美咲がそう言うと、高崎はテーブルをいきなり手のひらで強く叩いて、
「イタコなんて、インチキです。あんなカルトと一緒にしないでください!」と言った。
 もはや恐怖しか感じない。粘り気のある粘膜が皮膚に貼り付いたような気持ちの悪さに捉われる。
「私たちだけで決めることはできませんから、自治会長さんとかほかの役員にも相談しないと。……とりあえず自治会長さんに電話してみます」
 敏子が立ち上がって、リビングに向かった。
 高崎は涼しい顔をしてお茶を飲んでいる。
「あの、高崎さん。失礼ですが、その降霊術みたいなのを先生にお願いするの、お金が掛かったりするんですか?」
 美咲は沈黙が返って怖ろしかったので、そう尋ねてみた。
「ええ」
「おいくらくらいなんでしょう?」
「五十万円。でも、住人の皆さんの安心と犯人逮捕のためなら、安いでしょう」
「そんなに……」
「もちろん、私が勝手にやったことですから、自治会費で賄ってもらおうなんて思ってません。ボランティアです」
 当たり前だろう。そう思った。美咲が負担したプリンタのインク代とは、いろんな意味で次元が違う。
 リビングから敏子が電話で話している声が聞こえる。
「自治会長さんですか? ええ、ちょっと相談したいことがございまして……。二班の班長さんが、回覧板を臨時で出してほしいと言うとるんです。ええ、今うちに来てもろうとるとこなんですが。……それが、例の殺人事件に関わることで、重大な事実が判明したと高崎さんはおっしゃっとるんですが……。私の判断ではどうにも。ですから、自治会長さんに……ええ、ええ。今から来てもらうわけにはいかんでしょうか? ええ、今から。ご迷惑ですが。お願いします。助かります」
 電話を切って、敏子が和室に戻ってきた。
「今から自治会長さんがこっちに来てくれるって。高崎さん、その件は自治会長さんに直接お話ください」
「わかりました」
 自治会長を呼んだというより、謎しかない高崎の奇行に対して、敏子が自治会長に助けを求めた、というほうが実質に近い。いったい、どうやって高崎を追い返していいものか、さっぱり知恵が浮かばない。
 十分もしないうちに、自治会長の五島がやってきた。
「いきなりのことなのに、すみません」敏子が五島を和室に導いた。
「お茶、入れなおしてきます」
 美咲は立ち上がって、テーブルの上の湯飲みを回収して台所に向かった。
 新たに湯飲みをお盆に乗せて和室に戻ると、高崎が五島に何とかいう宗教団体のことを説明し、美咲と敏子が見せられた動画をあらためて五島に見せていた。
 見終わると、五島も先ほどの敏子と同じような複雑な表情をしている。
「まあ、日本は憲法で信教の自由が保障されとるけん、高崎さんがどんな宗教を信じておろうが自由じゃが……」
 確かにその通りだった。他者に害を及ぼさない限りは、人はイワシの頭や路傍の石ころを特別なものと信じる自由がある。
「回覧板、臨時で回していただけないんですか?」
「難しいんじゃなかろうか……。注意喚起をするのは大事なことですが、根拠がイタコ芸というのは」
 五島がそう言うと、
「イタコじゃないです!」高崎は絶叫した。
 どうやら、この宗教の先生とやらの降霊術を、イタコ呼ばわりされることが地雷になっているようだ。
 すみません、と多少呆気に取られながらも五島が高崎に詫びた。
「被害者の名前や犯人像についてはともかく……、次の会議の後の定期回覧板で、より強い注意喚起をするよう促すということで、納得してもらえんじゃろうか。その先生というのも、何か勘違いすることもあるかもしれんし、もし犯人について誤った情報を拡散してしもうたら、余計に具合の悪いことになるかもしれん」
 高崎はそれを聞いて少し黙っていたが、
「わかりました。でも、早く犯人を捕まえないと災いが繰り返されると先生はおっしゃっています。何かあってからでは遅いんです。そのときは、自治会長さんが責任取ってくださいね」
 高崎はスマホをバッグにしまうと、お邪魔しました、と言って去って行った。
 静まり返った和室で、
「あれ、いったいなんじゃろうか」と五島が言った。
「まあ、とりあえず来てくださってありがとうございました」敏子が五島をねぎらう。
「ああ、いえ。こういう、住人どうしの衝突をほぐすのも、自治会長の役割のひとつじゃろうし……。しかし、高崎さんあんな人じゃったんか。私もあんまり関わったことはないんじゃけど、旦那さんも普通の人で、おかしな言動はなかったようじゃが。言いよることの一割も理解できんかったが、新興宗教の信者じゃったんじゃな」
「昨日今日信じ始めた、みたいな感じではなかったですね」美咲が言った。
 集落の住人がどんな宗教を信じているかなど、近所の人に対しても尋ねたことは一度もなかった。おそらくみんな、正月には神社に行き、葬式や法要は寺の住職に頼み、クリスマスを祝う平均的な日本人ばかりだと思っていた。たまに、選挙活動に熱心な宗教の信者が、近所に投票を依頼するということはあるのかもしれないが。
 気付いていないだけで、ほかにも不思議な宗教団体に所属している住人はいるのだろうか。
「まあ、むりやり信仰を止めさせるというのは、できないし、するべきでもないでしょう。見守るしかない」五島が言った。
「どうしましょう、また回覧板でイタコ芸のことを書けと言ってきたら……」敏子が言った。
「うーん……、まあその時はその時で改めて考えましょう。それまでに犯人も捕まるかもしれんし……。はよ捕まってくれんと、どんどん住人に不安が広まって行ってしまう」
 五島は湯飲みに残ったお茶を一気にあおって、
「ご馳走様でした。私も帰らせてもらいます。お邪魔いたしました」と立ち上がった。
「いえ、こちらこそ、本当に申し訳ございません」
 美咲と敏子は玄関まで五島を見送った。


 目が醒めて、暗闇のなかで枕元に置いてあったスマホを探し当ててホームボタンを押すと、まだ午前三時五十分だった。カーテンの外から街灯の明かりが漏れている。ベッドに入ったのは夜の十一時くらいだったが、ずっとなにがしかの夢を見ていたような浅い眠りだった。
 起き上がって、部屋の蛍光灯を付ける。タバコの箱を手に取って口を開けると、残り三本しかなかった。このまま起きていると、朝までにその三本を吸い尽くしてしまうだろう。近所にタバコの自販機はないし、そもそも美咲はタスポを持っていない。
 さてどうしたものかとためらったものの、寝起きの身体はニコチンを欲してやまない。小動物をしつけるような気持ちでタバコに火を点けた。
 昨日夕方の、高崎の様子を思い出して、やるせない気持ちになる。
 いや、高崎だけではない。
 自分の家の近所で殺人事件が発生し、不安になる気持ちはよくわかる。自分のできる範囲で、何とか真相を知りたいという気持ちを持つことは当然だろう。だから、真犯人は誰だという勘ぐりが始まるし、疑われる立場になることもある。
 酒本は真犯人と疑われている人物として、雄一郎と美咲の名前を挙げていたが、ほかにもたくさん疑われてあらぬうわさを流されている人がいるにちがいない。
 そして、真犯人を特定したいと、集落のあちこちに即席の探偵が溢れていることだろう。美咲は会社の先輩の三宅のように、ミステリ小説やサスペンスドラマを愛好してはいないが、このジャンルの創作物が多くの読者や視聴者を集めているということは、殺人事件の捜査がエンターテイメントの要素を強く持っているということの状況証拠となる。誰もが強い不安や恐怖のなかに、かすかな喜びを見出しているのだ。
 タバコの火を消し、もう一度寝ようと明かりを消して布団に入った。
 どれくらい時間が経過しただろうか、ようやくウトウトしかけたところで、窓の外から誰かが叫ぶ声が聞こえた。
「火事だ、火事だ! たいへんだ、火事だ!」男の声だった。
 美咲はベッドから飛び起きて、窓の外を見る。集落の北の方角の低い空が、オレンジ色に染まっている。
 パジャマの上にオーバーシャツを羽織って、サンダルを履いて玄関を出た。そして道路に出て北を見ると、オレンジ色がまるで風を受けたカーテンのように揺らいでいる。
 美咲は心臓の鼓動が一気に早くなったことを感じた。
 隣家の大黒夫妻も、美咲と同じようにパジャマ姿のままで表に出てきた。
「火事なん? 本当に火事?」大黒夫人が美咲に近寄ってきて、そう言う。
「わかんないです。でも何かが燃えていますね、これは」冷静を装ってそう言った。
「一一九番通報はしたんやろか」
「たぶんもうしてると思いますけど……」
「誰の家じゃろ?」
 遠くから小さく消防車のサイレンの音が聞こえてきた。
「わかりません、行ってみましょうか?」
 大黒夫婦と美咲は、歩いてオレンジ色の空のもとに向かった。
 二百メートルも歩くと、火が大きく舞い上がっているのが見えてくる。木造住宅の右半分の壁面が火で覆われて、一階部分の天井まで燃えている。黒い煙が、その煙を吐き出している火自身の明るさによって空に向かって登っているのが見えた。
 多くの野次馬が、遠巻きに燃える火を見ていた。バケツに入った水を火に向かって掛けている男がいたが、火は勢いを増すばかりだった。
「……ここ、大山田さんのお宅よね?」大黒が言った。
「たぶん、そうだったと思いますけど」
「あれ? あれ、大山田さんなんじゃ」
 大黒が野次馬のなかのひとりの男を指さした。青いパジャマに白髪のその男に近寄ってみると、
「あ……、ああ……ああ……」
 男はまるで呆けたように、燃える火を眺めているだけだった。
「大山田さん、なかにはほかに誰もいないんよね!?」大黒が問う。
 大山田誠三は微かにうなずいた。
 サイレンの音がだんだん近づいてきた。銀色の防火服を着た消防隊員が、消防車の窓から、「道を空けて、危ないから下がって!」と叫んだ。
 消防隊員は降車すると、大蛇のようなホースを引き出して道路の消火栓の蓋を開け、ホースと接続した。
 続いて、警察のパトカーもやってきた。
「下がってください、下がってください。危険ですので皆さん帰宅してください」パトカーのスピーカーが言った。
 警察官がパトカーから降りてくると、野次馬を両手で押すようにして燃えている大山田宅から遠ざけた。美咲も押されてしまった。

 消火が確認されたのは、朝の六時を過ぎたころだった。野次馬の大半は帰宅したが、何人かは残っている。美咲もそのうちの一人だった。
 家の柱であった木材が、炭になって剥き出しになっている。
 大山田が消防隊員と警察官に何か聴取されていたが、その途中でいきなりまるで子供のように号泣し始め、アスファルトの上に突っ伏した。
 ほかの家に延焼はなく、犠牲者も一人もなかったのは不幸中の幸いだったが、大山田の家はリフォームなどでは回復し得ないくらいの被害を受けており、建物の体躯は残っているものの住み続けることはできないことは誰の目にも明らかだった。
 伏したまま泣き続ける大山田に、美咲と同じく残っていた自治会長の五島が近寄って、しゃがむ。
「せいちゃん、五島じゃ。この度は本当にお気の毒です」と五島が声を掛けた。
 そして立ち上がって、消防隊員と警察官に言う。
「私は自治会長をやっておる五島という者です。いろいろあるんでしょうが、聴取はまた後日にしてもらえんでしょうか。せめて、今日の昼以降にでも……。このようにショックで、何にも喋れるような状況ではないんで」
 消防隊員は肯いた。警察官のほうも続いて肯いた。
「ほら、いつまでも泣いとったんじゃ、だめじゃ。とりあえず、集会所に行って、そこで休もう。あとで布団持っていっちゃるけん、ちょっと寝たらええ」
 五島は大山田を抱きかかえるようにして立たせた。大山田は五島に手を引かれ、ひどく狭い歩幅で歩き始めた。

 家に帰ると、敏子はもう起きていて、美咲の姿を見つけると、
「火事、すごかったね」と言った。
「お母さんも見に出てたの?」
「うん。さすがにあんだけサイレン鳴ったら、目が醒めてしもうて。やっぱり大山田さんの家やったん?」
「うん、自治会長さんが来て、とりあえず集会所で休むって」
「気の毒に……。大山田さん家《ち》は、奥さんが一昨年亡くなってしもて、息子さんはたしかふたりとも留学してそのまんまあっちで暮らしよるらしいけん、一人で住んどったはずじゃけど」
「そうなの? 息子さんっていくつくらいなの?」
「下の子が、あんたよりたしか六つか七つくらい年上」
「そう。息子さんが海外なら、たいへんだね。今から息子さんのとこに身を寄せるのも、難しそうだし」
「市内か近くに、親戚おるんじゃろか」
「さあ。見る限り、自治会長さんと昔からの知り合いみたいだったから、自治会長さんがうまくやってくれればいいけど」
 美咲はオーバーシャツを脱いだ。
「あんた、煙の臭いがだいぶ染み付いとるよ。シャワー浴びておいで」敏子が言った。
 美咲はパジャマの袖を鼻に当てて、臭いを嗅いだ。たしかに、タバコではない煙の臭いがする。
「ずっと火事見よったら、そら臭いも付くがね。洗濯するけん、洗濯機のなかに放り込んどき」
「うん」
 今日着るべき服をタンスから取り出して、浴室に向かった。
「タバコ、止めよ。うちもいつ火事になるかわかりゃせんわい」敏子が美咲を叱るように言った。

第四話


 大山田宅火事の翌々日の夕方六時から、臨時の役員班長会議が開催された。火事以降、大山田が集会所で寝泊まりしていたのだが、いったん大山田に退出してもらって、大部屋に役員と班長が集まった。
 大部屋のすみには、大山田が使用しているらしい布団が畳まれてある。少し大きめの衣装ケースもあった。
 会議の仮の議題が、「大山田さん宅の火事と、支援について」と通告されていたので、いつもはだらだらと遅れてくる役員や班長も、時間の五分前に全員揃っていた。
 もちろん二班班長で、怪しげな新興宗教の信者の高崎の姿もある。
「えー、皆さま、お忙しいところまことにありがとうございます。全員揃ったようなので、臨時の会議を始めたいと思います」五島が起立して言い、一礼して座った。
 美咲はいつものように、パソコンを開いてワープロソフトを起ち上げた。
「えー、まず、皆さまご存知のように、三日前の夜から一昨日の朝にかけて、大山田さんのお宅が火災に遭いました。大山田さんには現在、この集会所で寝泊まりしただいております。大山田さんのご子息の寛二《かんじ》くんが、準備が整い次第いったんこちらに帰ってくることになっておるようですが、寛二くんはカナダでお仕事をされていて、空港で感染症防止のため隔離されることになるので、こちらに到着するのはかなり先になるようです。で、まず最初の議題でございますが、現在緊急でこの集会所を大山田さんに提供しておりますが、息子さんがこちらにやってくるまでは引き続きお使いいただこうと思っております。異議がある方がいらっしゃいましたら、挙手をお願いします」
 異議なし、と何人かが言った。
「異議なしと認めます。本日以降もお使いいただく予定とします。その間、住人の集会所利用は、大山田さんの了承を得た場合と緊急時を除いて、禁止といたします。」
 自治会長、と大きな声を上げて会計の東が挙手をした。
「どうぞ」
「大山田さんの調子はどんなんです? 大丈夫なんじゃろか」
「たいへん落ち込んどりますが、ようやく物を食べられるくらいにはなっております」
「日々の食事は、どうしてるんですか?」
「うちに来て食べてもろうとります」
「自治会長もたいへんですねえ」と班長のうちの誰かが言った。女の声だった。
「いやまあ、私とせいちゃんは昔からの釣り仲間ですけん。せいちゃんのとこの上の息子と、うちの息子が同級生じゃったし」
「で、燃えた家の様子はどうなんですか? 家財道具とかで使えそうなものは残っとるんですか?」東が問う。
「いや、家電製品なんかは消火の時の水に浸かってしもて、使えるかどうかは……。衣類は二階のたんすに入れ取ったから、それらは全部問題ないようじゃが」
 大部屋のすみにある衣装ケースの中身が、大山田の衣類らしい。
 付け加えるように五島が、
「あと、仏壇は燃えずに残っとったんで、奥さんの位牌はきれいに無事だったそうじゃ」と言った。
「で、火事の原因は?」
「それが……、まだはっきりとはわかっとらんのじゃけど……」
 五島は言葉を濁している。誰もが次の言葉を待った。
「放火の可能性もある、と」
「放火?」と複数人が同時に言った。
「どういうことですか、放火って」衛生担当の玉木が、五島を問い詰めるように尋ねる。
「どうやら、灯油に火が点いて火事になった可能性が高いと、警察が来てせいちゃん……、大山田さんに言うたようです。家に灯油缶はあったか、とか、灯油を使う製品はあったか、と訊いてきたそうです。最初に燃えたのは、玄関に向かって右側の壁のほうで、家庭用の灯油ボイラーがあるのとは反対側なんで、ボイラーが誤作動して燃えたっちゅうことはないようです。大山田さん宅では、冬に暖を取るのに灯油のストーブを使っとるようですが、今年はまだ出してなかったようです。去年使って余っとった灯油を、灯油缶に入れたまま物置のなかに置いとったようなんですが、出火場所近くの物置もほとんど燃えてしもたから、何かの拍子に物置の灯油にが点いたのか……、それとも誰かが灯油を撒いて火を点けたのか……」
「でも、出火したのは、夜中でしょう。火の後始末をおろそかにして物置が燃え始めるなんてことはありますかね?」防犯担当の佐藤が言った。
「正直なところ、私に聞かれてもわからんとしか言えんです。放火事件なのか、それとも火の後始末をおろそかにした事故なのか。もう少し待って結果が出んことには、何とも言えん」
「大山田さんは、タバコはお吸いになるんですか?」佐藤が再び問う。
「ええ。……でも、火事の後はよう吸わんようになっとるみたいですが」
「今の段階で断定するのは危険そうじゃね」副会長の島本が言った。
「仮に放火だとして、大山田さんが誰かに恨まれるようなことはあったんですか?」酒本が問う。
「いやあ、せいちゃんは人に恨まれるようなことをする人間じゃないと、私は思う。でも、こればっかりは何とも言えん。私もせいちゃんの交友関係を全部知っとるわけじゃないし……」
 美咲は燃え尽きた家の前で、声を出して泣いている大山田の姿を思い出した。ふつうの七十代の紳士という印象。戦後に生まれ、高度成長のなかで働き、結婚して家を建てて子供を育て、妻に病気で先立たれて余生をひとりで生きている。妻を先に失うということ以外は、この世代の男性が歩んできた典型的な平凡な人生といったところだろうか。まさか、ここに来て思い出の詰まった家を失うことになるとは、想像もしなかったに違いない。号泣して、呆然自失となるのも当然だという気がした。
「で、今日の議題である、大山田さんの支援というのはなんですか?」最年少の八班班長の福井が言った。
「それは私から説明させていただきます」
 東が起立する。
「大山田さんがこれからどうするのか、それは大山田さんが決めることで、私たちは口を挟むことではありませんが、家をもう一度建て直すにしろ、別のところに家なりアパートなりを借りて暮らすにしろ、また息子さんのところに身を寄せるにしても、たいへんな大きな負担となるでしょう。ということで、集落の住人の皆さんから義捐金を募って、大山田さんにお渡ししようかと思っております」
「なるほど」と誰かが言った。
「昔、この集落が出来たばかりのころは、近所どうしの『つなぎ』と言いますか、ご不幸があった家にいくらばかりか支援をするということがあったはずですが、いつの間にやら消えてしまいました。まあ、お祝いやお悔みのごとに何かをやってたら、キリがなくなるというので止めることになったんでしょう。で、今回、大山田さんがたいへんな目に遭ったということで、各世帯にいくらかご負担をいただこうかと思っております」
「具体的に、世帯当たりいくらの負担になる予定なんですか?」佐伯が言う。
「それは各家庭でご自由に決めていただくことになります。あくまでも自由意志による支援という主旨です。もちろん一円も出したくなければ、それでもかまいません」
「どうやって集めるんでしょう? 班長が班内の家を直接回るんですか?」
「会計の私が全てのお宅を訪問いたします」
「たいへんじゃねえ」と副会長の三田が言う。
「まあ、会計の仕事はほかと違って、年に一回の自治会費徴収と毎月の雑費の支出以外は、ほとんど仕事がないですけん、こんくらいは」
「でもそれじゃ、東さんには誰がどのくらい義捐金を出したか、知られることになりますね。自由意志でお金を出すのはいいとして、あまりケチだと思われるのも心外だし」広報の島本が言った。
「いえ、そのご心配はございません。各戸に空の封筒を配って、その中に現金を入れていただいて、何日か後に私がそれを回収するという形にします。ですので、誰が何円を入れたかというのは、わからないようにします」
「大山田さんはそれに対して、どう思っていらっしゃるんでしょうか。支援を受けたいということですか?」酒本が言った。
 五島が挙手をして、
「それには自治会長の私から答えます。大山田さんは、最初は『そこまでしてもらうのは申し訳ない』みたいなことを言っていたんですが、最終的には、『皆さんに支えられていると思えば、あらためて生活を立て直す気力を持つことができます。ありがたくちょうだいしたいと思います』ということになりました。……あくまでも自由ですので、先ほど東さんが言うたように、嫌な方はゼロ円でもぜんぜん構いません。なんとか、大山田さんのために、義捐金集めに賛成してください。お願いします」
 自治会長は深く頭を下げた。
「まあ、反対する理由はないですよね。嫌なら封筒にお金入れなきゃいいだけなんだし」七班班長の芝山が言った。
「では、決を取りたいと思います。集落内で、大山田さんに対する義援金を募集することに、異議はございませんか?」
 異議なし、という複数の声が重なった。
「具体的な募集方法は、先ほど会計の東さんがおっしゃっていたような方法になります。東さんには全戸を回るという大働きをしていただくことになりますが、よろしくお願いします。書記の古瀬さんに、義捐金募集の件の文書を作成していただいて、臨時の回覧板を各班に回していただくことになりますので、よろしくお願いします。それでは本日の臨時役員班長会議はこれにて解散としたいと思います。お忙しいなか、ありがとうございました」
 五島が頭を下げた。
 班長のうちの何人かが、大部屋を出て帰宅して行ってるが、美咲はノートパソコンを持って五島と東が並んで座っている机の前に行った。
「すみません、封筒を各戸に配布する日にちと、回収する日にちは、いつになるでしょうか。それも文書に書いておきたいので」
「ああ、そうですなあ」五島が言う。
「臨時の回覧板が各班を一周するのに三日くらいかな。それに合わせて私が封筒を配ってまわります。できるだけ早くしたいんで、回収はその翌々日ということにしましょうか」
 口には出さなかったが、ずいぶん急だなと美咲は思う。今日が十月十九日で、各班の班長から回覧板が回りだすのはおそらく十月二十二日以降だろう。
「ということは、封筒配布の日を十月二十五日にして、回収を二十九か三十日くらいにしておきましょうか」
「うん、それくらいじゃな」東が言った。
「わかりました。文面はどうしましょうか? これまで、こんなこと書いたことないんで」
 東は少し考え込むように額に手を当てた。
「たしか、三十年くらい前になるんじゃが、お亡くなりになった方がおって、そんときもそういう文書が回ってきたような気がするんじゃが、何と書いておったかな。『誰それの家にご不幸がありましたので、義捐金を募集したいと思います』みたいな感じじゃったが」
 はたして、自治会での義捐金を募集する文面は、どういうものがふさわしいのだろうか。
 これまでの回覧板の文書で手書きの頃のものは、PDF化されてUSBのなかに保存されている。おそらく東の言う三十年ほど前の文書もあるだろう。
「じゃあ、その文書を参考にして作ります。でも今日はUSBを持って来てないので、家に帰って確認します」
 五島が座ったままだが丁寧に頭を下げ、
「いつもお手数かけてすまんことです。私ら年寄りには、そういう難しいことはできんけん。古瀬さんがおって、たいへん助かってます」と言った。
「はい。後で印刷して、広報さんのところへ届けますね」

 会議後のお茶会に、敏子は参加したが美咲は先に帰宅した。
 そして、自治会の文書が保存されているUSBメモリをパソコンに差し込んだ。「平成○○年自治会文書」と名前が付けられたフォルダがたくさん並んでいる。それと開くと、「平成○○年度役員班長連絡先」や、「五月回覧板市民清掃について.pdf」や「九月回覧板緑の羽募金その他について.pdf」というファイルがある。
 東は、ご不幸があって義捐金を募集したのは三十年ほど前と言っていたので、この集落が開かれて間もなくのことだろう。美咲は生まれていたのか、まだ生まれていなかったのか。いずれにしても美咲の記憶はあるはずがないころの出来事だ。
 いちばん最初の年度のフォルダから順番に開き、目的の文書を探す。
 ためしにひとつ、「二月回覧板ゴミ出しついて」というものを開いてみた。
 PDFを表示する赤いアイコンのソフトが立ち上がり、少し時間を要しながら手書きの文書を表示させた。おそらくボールペンで書かれた丁寧な文字が書いてある。
「これまで燃えないゴミとして出していた空き缶と空き瓶は、来年度以降は資源ゴミとして木曜日の回収となります。お気をつけください。電池は回収ボックスに入れ、燃えないゴミには入れないようにしてください」
 そんなことが書いてあった。
 フォルダをひとつひとつ開いて、ファイル名から中身を推測しながら眺めていく。
 そして、今からちょうど三十年前のフォルダのなかに、「十一月臨時回覧板 募金募集についてのお願い.pdf」というものを見つけた。
 そのファイルを開くと、やはり手書きの文字が表示される。

***

十一月十日

自治会長よりお知らせ

皆さまご存知のとおり先日、四班班長を務めてくださっていた金田幸助さんがご逝去されました。
告別式は去る十一月七日に金田さん宅においてしめやかに執り行われました。
金田幸助さんの奥様である恵子さまに、お悔やみ申し上げます。

金田さんには今年九歳と八歳になるお子様がおり、夫と父を亡くした恵子さまとお子様へ少しでも力になればと、自治会で募金を集めたいと思っております。

具体的な内容は、次の役員班長会議で決定する予定です。

なお、四班班長は規約により、自治副会長である大城甚吾さんが引き継ぎます。

以上

***

 金田恵子。先ほどの役員班長会議に、四班班長として出席していた。
 たしか六十代で、地味な婦人だが、若いころはさぞ美人だったろうという雰囲気がある。この世代の人には珍しく身長が百七十センチ近くある。
 美咲は金田恵子が未亡人であることは今の今まで知らなかった。
 この回覧板の文書では、夫である金田幸助氏の死因はわからない。金田恵子の夫ということは、金田幸助もおそらくは同じくらいの歳だろう。ということは、三十歳前後ということか。いきなり亡くなるには、早すぎる年齢だ。
「しかし、この字汚いなあ。まあ私も人のことは言えないけど」
 あらためてその手書きの文書を読んで、美咲はそんな独り言を言った。大学生になってからは、ワープロソフトで文書を作ることが多い、というか、鉛筆やボールペンで文字を書く機会がめっぽう減ったため、もともと下手だった字がさらにうまく書けなくなっている。役所へ出す文書や、選挙の投票に行ったときの立候補者の名前を書いたときなど、我ながらまともに読めるのだろうかと心配になるほどだった。
 手書きなので個性が出るのは仕方ないが、読めなくはないものの、もっと丁寧に書いてはどうか。
 興味本位で、同じフォルダのなかにある、その年の「役員班長連絡先.pdf」のファイルを開いてみた。
 上から順番に、自治会長の氏名住所電話番号、その次は副会長の氏名住所電話番号というふうに並んでいる。ふたりめの副会長は「窪園光江」となっていたので、雄一郎の母親が務めていたようだ。

 書記 古瀬敏子 電話番号○○○―○○○○

 その一行を見つけて、「え?」と美咲は言った。
 三十年前といえば、美咲は三才か四才のときだろう。この年にも、母は役員の書記を務めていたのだ。電話番号も、今家で使ってる番号と同じなので間違いない。
 図らずも母の字を貶してしまったわけだが、母には今まで書記を務めたことがあるなどとは聞いたことがなかった。美咲が問わなかったから、言わなかっただけなのだろうか。
 母が帰ってきたら、聞いてみよう。美咲はそう思って、文書の作成を始めた。

***

十月十九日

自治会長よりお知らせ

皆さまご存知のとおり、五班の大山田誠三さん宅で火事が発生しました。
つきましては、次の通りお知らせいたします。

①大山田誠三さんの生活再建支援のため、自治会で義捐金を募りたいと思います。十月二十五日に会計担当役員の東陸男が各戸に封筒を配布いたしますので、その中に義捐金を入れてください。封筒は二十九日に東が各戸に回収に行きます。金額の指定はありませんので、ご協力いただけない場合はゼロ円でもかまいません。

②防犯のため、戸締りを徹底してください。

③感染症予防のため、手洗いやマスクの着用、三密の回避に引き続きご協力ください。

④火の元じゅうぶんお気を付けください。

以上

***

 それを一枚プリントアウトしたところで、敏子が家に帰ってきた。
 印刷されたばかりの紙を持って一階に下り、
「おかえり」と言った。
「ただいま」
「今日の会議の内容で決まった回覧板の文書って、これでいいかな?」
 敏子がそれを声に出して読んだ。そして、
「まあ、ええんじゃない? 念のためあとで私が自治会長さんに電話して、確認しとこわい」
「いちおう、会計の東さんにも確認しといて。問題なければ八枚印刷して、明日の朝に広報さんのところに持って行くから」
「うん、わかった」
 時刻はすでに午後八時近くになっていた。
「帰ってきてから晩御飯作るつもりじゃったけど、すっかり遅くなってしもうたねえ。エビとかき揚げの天ぷら作ろうと思っとったんじゃけど」と敏子が言った。
「なんでもいいよ。何なら、宅配のピザでも取る?」
「そんな身体に悪そうなもん食べんでも。ご飯だけは炊いとるけん、簡単に炒飯でも作ったんでええ?」
「うん」
 十五分もせず、たまごとたまねぎとピーマンとハムの炒飯ができあがった。
 ダイニングテーブルに着席して食べながら、母子の会話はさっきの役員班長会議のことに及ぶ。
「本当に、放火なんじゃろか?」敏子が言った。
「さあ……、どうなんだろう。私が火事見に行ったときには、現場に怪しい人みたいなのはいなかったと思う」
「私はちょっと冷や冷やしたがね」
「何が?」
「高崎さんが、この前言うとったみたいに、『犯人を早く捕まえんから、不幸が続く』みたいなこと言うて、怪しげな宗教団体を布教し出したら、どうしようって。イタコ芸か何か知らんけど、ああいうのをあの場で言われたんじゃ、ちょっとどうにもならん」
 そういえば、今日は高崎は一度も発言しなかった。もとより大人しい印象のあった人だから、それ自体は違和感のあることではない。
「高崎さんのところは、旦那さんと二人で住んでるの?」
「そうみたいじゃね。たしか息子さんがおったはずじゃが、やっぱりどっかで就職して帰ってきとらんのじゃろう」
「やっぱりみんな、県外に行ったら帰って来ないんだね」
「だって、帰ってきてもしょんなかろがね。こっちにはもう、役所と病院とパチンコ屋以外にはまともに稼げるような職はないんじゃけん。東京に出て行ってからこっちに帰ってきたんは、あんたくらいじゃろ」
「まあ、うちの会社はリモートになって、今はむしろ会社に来るなって言ってるくらいだし……。やっぱり市内で就職先を見つけるのって、難しいの?」
「まあ、そうじゃろ。特に今みたいなご時世は。昔からあった地場産業はすっかり衰退して、生き残った会社も人件費の安い海外に拠点を作って、行ってしもうたけんね」
 雄一郎はまだ再就職先は決まっていない。失業保険はいつまでも貰えるものではなく、その期限が切れるまでに見つけられるだろうか。
「そういえばお母さん、自治会の書記だったんだね。三十年前に」
「え? ……そんな前じゃったか。たしかに書記の役員をやらされたことはあったわい」
「東さんが言うには、昔に今回みたいな義捐金を募集する回覧板を回したことがあったらしいから、昔の文書確認してたら、ちゃんと残ってて。そのときの書記が、お母さんになってたから」
「ああ、そんなん書いたような記憶が、ちょっとだけある」
「内容は、金田恵子さんの旦那さんが亡くなったから義捐金を集める、みたいなものだったけど、金田さんの旦那さん、なんで亡くなったの? まだ若かったんでしょ?」
 美咲がそれを問うと、敏子は口のなかに入れた炒飯を咀嚼してから、
「そんな昔のこと、おぼえとるかい」と言った。

 回覧板の指定どおり、十月二十五日に義捐金を入れる封筒が各戸に配布された。もちろん、美咲の家にも。封筒の表には、「二十九日午後に回収に参ります」とだけ書いてある。
 さて、いくら入れるべきか。
 美咲はそのことを敏子と話し合った。
「まあ、気の毒じゃけん、二千円か三千円くらいは入れとったほうがええかもね。なんぼ匿名じゃっちゅうても、あんまり少なかったらケチ臭い気がするけん」と敏子は言った。
 アスファルトに突っ伏して号泣していた大山田の姿を直接見た美咲としては、もう少し力になりたいという気持ちがあったので、
「もうちょっと多くてもいいんじゃない? もし自分があんな立場になったら、ちょっとやりきれないよ」
「じゃあ、あんたはなんぼくらい入れたらええと思っとるん?」
「さあ……、一万円くらい?」と言った。
「うーん……。でも第二新光の総戸数がだいたい合計で百五十くらいじゃろ。じゃったら、みんなが一万円を入れるべきというなら、義捐金の合計は百五十万円になる。そう考えたら、一万円はちょっと多すぎるいう気がせん?」
 言われてみれば、そんな気もする。
「でも、みんなが一万円入れるということは有り得ないし、ちょっとくらい多めに入れる人がいたほうがいいんじゃ」
「それじゃったら、ほかの人が少なく入れるぶんを、結果的にうちが多めに負担するということになりゃせんじゃろか」
「まあ、それも一理あるけど……」
 母と話しながら、義捐金をめぐって集落のあちこちでこういう会話がされているのかもしれない、美咲はそんなことを想像すると、少しおかしくなって笑いそうになる。
「なんらかの目安みたいなのを、知らせておいてくれればよかったのになあ。例えば、自治会長さんが『自分は三千円を募金します』みたいなことをアナウンスしてれば、それを基準に多いとか少ないとか判断できるから」
「もしそうしとったら、大半の人が右にならえで自治会長さんと同じ金額にしたじゃろね」
 美咲も、その場合はそうなっていただろうと思う。ほかの人の動向を観察して、自分の動向を決める。いかにも日本人らしい。家庭が「政治」という営みの最小単位なら、全国にある自治会や町内会というものは、その次に小さい「政治」が行われる集団になるのだろう。そしておそらく国権の最高機関である国会も、似たような原理で意思決定されているに違いない。
 日本人にとっては「みんなと同じ」がいちばん快適で、そしてそれが正義なのだ。
「三十年前の義捐金は、いくら入れたの?」美咲は尋ねた。
「じゃから、覚えとらんというのに」
 敏子はなぜか不機嫌そうだった。
 結局、敏子が封筒に三千円入れ、美咲が一万円入れて、古瀬家からは一万三千円の義捐金が大山田に贈られることになった。

 二十九日の午後三時くらいに、東が古瀬家にやってきた。
「封筒、回収に来ました」
 東の姿は役員班長会議が開催される集会所でしか見たことがなかったが、陽の光の下で見ると、顔のしわがはっきりと見えるためか、集会所で見るときよりも少し老けて見える。
「あ、はい。ご苦労様です。どうぞ」
 美咲は下駄箱の上に置いていた封筒を東に手渡した。
「たしかにお預かりしました。ありがとうございます」芝居をしてるかのように、東は頭を下げた。
 そしていそいそと、隣の家の封筒回収に行った。
 その日の夕方、自治会長から古瀬家へ電話があり、
「回収した封筒の中身を確認するので、手が空いている役員がいれば自治会長宅に来てくれないだろうか」ということだった。
 なぜそんなことをする必要があるのかと、敏子が電話の向こうの自治会長に問うと、
「お金のことじゃけん、一人の人間に全部任せてしもうたら、どうしても『誤魔化したんじゃないか』という疑いが出てくることが防げない。じゃけん、なるべく多くの人が見とる前で封筒の中身を取り出して、合計の金額を数えるのがええと思っております」ということだった。
 まあ自治会長の言うとおりだろうと納得して、敏子は夕方から出掛けて行った。
 そして、午後七時くらいに帰ってきた。
「合計いくらになったの?」と美咲がさっそく尋ねる。
 敏子は手に持っていたメモ用紙を見て、
「全部で三十三万五八九八円。次の回覧板で、『義捐金の合計はいくらでした。ご協力ありがとうございました』という内容を書く必要があるけん、メモしてきた」
 ということは、平均すると一戸あたり二千円強ということになる。まあ、それくらいが妥当だという気もする。もちろん大山田の生活をもとに戻すためには足りない金額だが、引っ越しのための資金くらいにはなるだろう。あるいは、焼け残った建物の体躯を解体して、更地に戻すための費用になるのかもしれない。
「やっぱり、ゼロ円の封筒もあったの?」
「うん、あった。もちろん誰の封筒かは、わかりゃせんけど。自治会長と会計の東さんと、あとは広報さんと防犯さんが来とって、みんなで手分けして封筒の中身を出していって、数えていったんじゃけど、ゼロ円の封筒、たぶん私が開けたんのなかでも、三つくらいはあった。でもね、一万円札が十枚も入っとるのあったよ」
「へえ、すごいね」
「中には、一円玉が一枚だけとか、五円玉が一枚だけっていうのもあった。ほんならゼロ円にすりゃええのに」
「それ、もう大山田さんに渡したの?」
「いや、小銭がいっぱいじゃけん、さすがにこのまま渡すと大山田さんが不便じゃろうということで、今晩は会計さんが預かって、明日の朝に信用金庫にいって両替してもろうてから、あらためて住人を代表して自治会長さんから大山田さんに渡すんじゃと。じゃから、大山田さんにはまだなんぼ集まったか、連絡はいっとらんと思う」
「大山田さん、元気になるといいね」美咲は無邪気にそう言った。
 しかしその義捐金が大山田の手に渡ることはなかった。
 その日の晩、大山田は何者かに殺害された。


 大山田の死体は、集会所に敷いた布団のなかにあった。第一発見者は自治会長の五島。
 火事があった日以降、大山田は旧友である五島の家に三食の世話をしてもらっていたようだが、「奥さんにも迷惑になる」という理由で旧友である五島の好意を辞退して、公民館前のコンビニで弁当やスーパーの総菜などを買って食べていたという。
 息子が帰ってくるまで、そうして集会所で寝泊まりしていた大山田が、なぜ殺されたのか。
 死因は失血死。全身に刃物で刺した痕が十か所あまり。死亡推定時刻は十月三十日の未明。
 大山田は家が火事に遭うという不幸に続いて、殺されたということになる。火事のほうも放火の疑いが濃厚になっていた。誰かが執拗に大山田を狙って殺害したのは、素人の目にも明らかだった。
 警察が最初に被疑者として疑ったのは、なんと五島だった。
 集会所の鍵を持っているのは自治会長の五島で、大山田が集会所で寝泊まりするにあたって、鍵は大山田に預けようとしたのだが、「どうせもうわしには盗られるようなものはありゃせん。集会所のなかも別に盗られて困るようなもんはないじゃろ。もし失くしてしもたら困るけん、鍵はそっちで持っといて」ということで、引き続き五島が所持していた。そもそも集会所に施錠する目的は、空き巣が入ることを防止するためではないく、部外者が勝手に侵入するのを防ぐことだった。
 殺された日、もし大山田が集会所の出入口を内側から施錠していたとしたら、もっとも侵入しやすかったのは五島ということになる。
 第一発見者で、鍵を持っている。警察が疑うにはじゅうぶんな材料だった。
 美咲の家にも、前とは違う警察官が聞き込みにきた。もちろん美咲には警察官に告げるべき事実をまったく持っていなかった。
 九月に若い男が公園で殺された事件に続いて、住人が放火に遭い、そしてその後に刃物で殺される。
 メディアは連続殺人事件として取り上げた。県庁所在地の支局や東京から来たらしいマスコミの人間が、緑ナンバーの高級車ハイヤーで乗り付け、集落の住人にしつこくインタビューを求めた。


 大山田の遺体が発見された五日後、再び臨時の役員班長会議が開催されることになった。議題は、「防犯カメラの設置、義捐金の返還、一時的な外出禁止措置」とあらかじめ通告されていた。
 しかし殺人事件の現場である集会所は、すでに鑑識作業は終えているものの、入りたがる人は役員にも班長にもいない。自治会長の五島宅のリビングで会議は開催されることになった。
 美咲は敏子と出掛け、時間の十分ほど前、五島の家のインターホンを鳴らすと、五島が出てきて、
「ようこそいらっしゃいました。狭いですが、どうぞ」と言った。
 五島は少しのあいだに一気に痩せこけて、顔に深いしわが入っていた。旧友である大山田を失った上、警察に疑われたということがショックだったのだろう。玄関の三和土には、無造作に脱がれた靴がいくつも並んでいる。
 五島に導かれてリビングに入ると、すでに役員班長のうちの大部分がやってきているようで、同じ方向を向いて、座布団の上に座っている。十畳を超える広いリビングだが、たくさんの人がいるため狭く感じる。本来ならばこの部屋の真ん中に置いてあるらしいテーブルが、足をたたんで壁に立て掛けられていた。
 五島の配偶者は会議が終わるまで別室に控えているのか、姿が見えない。
 リビングの空気は重く沈んでいた。連続殺人などという、前代未聞の物騒な事件が発生し、しかもまだ犯人が見つかっていないのだから、誰もが腹に重い物を飲み込んだような気分になっている。
「どうぞ」
 五島が美咲と敏子に座布団を渡してきたので、敷いて座る。
 美咲のすぐ横は酒本が座っており、
「美咲ちゃん、こんばんは」と言った。
「こんばんは。……酒本さんのとこにも、メディアの取材来ましたか?」と美咲は訊いた。
「うん、何社か来た。テレビや新聞だけじゃなくて、週刊誌も来てたみたい。『何か知ってたら連絡ください』って名刺置いてったけど」
「あ、それたぶんうちにも来ました。週刊真相ってところじゃないですか?」
「そう、それ。……でもなんで、テレビ局の人はハイヤーなんかに乗ってくるんだろうね。うちの前にも何台か乗り付けてたけど、ハイヤーなんかここらじゃめったに見ないから、まじまじと眺めてしまった」
「たぶん、タクシーのほうが高くつくからじゃないですか。ハイヤーだと一日いくらの料金設定ですけど、タクシーは待たせてたらいくらでもメーターが上がるから」
「あ、なるほど。……美咲ちゃん、ハイヤーに乗ったことあるの?」
「一度だけ。もちろん自分で呼んだんじゃないですけど。取引先の忘年会に呼ばれて、ハイヤーが迎えにきたことがあったんです」
「そう。さすが都会はすごいわねえ」
 インターホンが鳴り、五島が玄関まで迎えに行く。最後にやってきたのは、水上だった。リビングに、班長・役員あわせて十七人が座っているので、ぎゅうぎゅう詰めとまではいかないものの、空間的な余裕はほとんどない。
 五島が大型テレビの前の着席して、ほかの人間と向かい合う形になった。
「役員班長の皆様、お集まりいただきありがとうございます。えっと、本日の議題につきまして……」
 そこまで五島が言ったところで、
「自治会長、すみません。ちょっと発言させていただいてもよろしいでしょうか」と後ろから声が聞こえてきた。
 振り向くと、水上が挙手をしている。
「ええ、どうぞ」
「あの、急で申し訳ないんですが、私たち一家は近いうちに引っ越しする予定なんです」
 美咲は思わずもう一度振り返る。水上は険しい表情をしている。
「えー、いきなり言われても、それなら……」
「班長が途中で引っ越した場合、どうなるんでしょう? 引き続き、班長の役目はこっちに戻ってきてやらなければならないんですか?」
 自治会長が答えずにぼんやりした表情になっていたが、副会長である鈴木が、
「いえ、その場合はたしか規約で、複数人いる自治副会長のうちの誰かが引き継ぐというということになっていたはずです」と言った。
「そうですか。じゃあ、任期途中で引っ越しても問題ないということですね」
「でも、なんで……。理由くらいは言ったらどうですか?」鈴木が水上を問い詰めるように言う。
 いきなり余計な仕事を増やされるかもしれない副会長の鈴木としては、納得できるだけの理由が欲しいのだろう。
 水上は部屋中に響くような大きなため息を吐いた。
「えっと、先月に公園で殺人事件があって、そして、今回またあったでしょう。誰とは言いませんが、うちの近所の住人で、私が警察官だからという理由で、しょっちゅう夕方や夜に家にやってきて、『まだ犯人は捕まえられないのか』みたいなことを詰問してくる人がいるんですよ」
 理不尽な言いがかりだ。美咲はなぜか、小売店や飲食店で店員に突っかかっている悪質なクレーマーの姿を思い浮かべた。
「そんな……、水上さんには関係ないことでしょう。いったい誰が?」自治会長が言った。
 さっき水上を問い詰めるように言った鈴木は、非常にバツの悪そうな表情をしている。
「名前は申し上げませんが、そういうことをやってくる人間は一人ではないということだけは言っておきます。私は交通課だからうちに言われても困ると言ったんですが、それでも納得しないらしくて、『税金泥棒』みたいことを書いた紙をポストに投げ込んできたり……。まあそんな紙を入れてくるくらいでは、具体的な罪に問うことは難しいでしょうから、無視してるんですけど」
 水上は座布団の上で正座していた脚を崩してあぐらをかいた。
「事件が解決できないまま二人目の被害者を出してしまったことで、警察に対する不満や不信感を持つ理由は理解できます。私も一人の警察官として、忸怩たる思いを抱いております。でも、私がたまたま事件現場の近所に住んでいたからって、警察に対する不満を私にぶつけられても困るんです」
「でも、引っ越しまですることないでしょう。自治会長の名義で、その住人に注意したいと思います。名前を教えていただけないでしょうか」
「いえ、それだけなら私も耐えられるんですが、うちの息子と娘が小学校でいじめられてるんですよ」
「え、それはいったい……?」
「この学区の小学校は、少子化で一クラスしかないでしょう。だから、子供のあいだでもうわさが広まってるようでして。大翔《はると》と萌実《もえみ》の両親はふたりとも警察官だって、みんな知ってるんですよ。おそらく親御さんのなかに、子供の前で『水上の家は警察官のくせに事件を解決できない税金泥棒だ』みたいなことを言ってる人がいるんでしょうよ。うちの子、ふたりとも学校で税金泥棒とか、誰が教えたのか、タックスイーターというあだ名で呼ばれて、いじめられているみたいなんです。昨日から二人とも学校を休ませてます」
「そんな、ひどい。先生に言って、どうにかしてもらえないんですか?」
「先生もうちの子をいじめてるんです」
 一同、絶句した。
 美咲はそれを聞いて、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。横にいる酒本は苦虫を噛み潰したような表情をしている。おそらくここにいる全ての人がそうなっているだろう。
「さいわい、うちの妻が上司に相談したところ、今の警務課長は自宅から署に通っていて、家族で住める課長用官舎が空いているので、特例で貸していただけることになりました。途中で自治会班長の任務を投げ出すのは申し訳ないんですが、私にとっては子供のほうが大事です」
「そういうことなら、お引き止めはできません。自治会長として責任を感じます」五島が立ち上がって頭を下げた。
「いえ、そんな自治会長さんの責任ではないですよ。頭をお上げになってください」
 五島は頭を上げた。
「具体的に、お引っ越しされる日はもう決まっておいででしょうか」
「三日後に業者が来ることになっております」
「そんなに急に」
 水上は立ち上がって、腰を折って深くお辞儀をした。
「間もなく住人でなくなる私がこの会議に参加するのは、ふさわしくないことだと思われますので、これにて退出させていただきます。副会長の方にはご迷惑をおかけしますが、どうぞよろしくお願いします。皆さま、お世話になりました」
 誰かが、お疲れさまでした、と言ったのに続いて、全員が、お疲れさまでした、と復唱した。
 座ったまま、水上の背中を見送った。
「さて、もうひとつ決めなければならないことが出てきました。五班班長の水上さんが抜けることになりました。えっと、副会長の鈴木さんか三田さんどちらかに、五班班長を引き継いでいただくことになりますが、どちらにしましょう」
「それじゃ、私がやります」と鈴木が挙手した。
「かまいませんか?」
「ええ、私は隣の四班ですけん、近いですし」
「それではお願いします。……では、これからあらかじめ皆さまにお知らせしていた議題について述べさせていただきます」
 ようやく役員班長会議の本題に入った。
 五島がすぐ近くに座っている東と、「どの議題からにしましょう」や「では私の件から」などと小声で相談している。
 そして間もなく東が立ち上がって、こちらを向いた。
「皆さん、こんばんは。会計の東です。私のほうから、義捐金の返還に関して説明させていただきます」
 ほかのふたつの議題に関しては、だいたい内容の想像は付くが、義捐金の返還とはいったい何なのだろうか。先に集めた義捐金に関することは間違いないはずだが。
「実は、数人の住人の皆さんから、『大山田さんが亡くなったが、義捐金はどうなるのだ』という問い合わせが私のほうがありました。私は当然、遺族である大山田さんのご子息にお渡しすべきと思っておりました。ちなみに、ご子息は日本にはすでに到着しているものの、今は感染症予防のために政府の指定するホテルに隔離されているため、こちらに来るのは来週以降になる予定のようです。しかし、住人の方から、『義捐金は火事の被害を受けた大山田さんの生活の再建のために拠出したもので、大山田さんのご子息に渡すためではない、大山田さんの息子さんはこちらの集落で育ったものの、すでにここの住人ではないので、集めた義捐金はいったん返還するべきではないか』という意見がございました。これにつきまして、どうするべきか皆さまと話し合って決したいと考えておる所存でございます」
「ちなみに私のほうにも何人か、義捐金はどうなるのか、と尋ねてくる人がありました」と五島が言った。
 大山田の息子は育った実家と父をほぼ同時に失うという不幸に遭ったので、大山田の息子に義捐金を渡しても問題ないのではないか、美咲はそう思う一方、大山田の息子はここの住人ではない、というのは紛れもない事実ではある。大山田の生活再建という名目で集めた義捐金だが、残念ながらもはや大山田には再建すべき生活がない。義捐金の大義名分を失ったからには返還すべきだという意見も、一理あるかもしれない。一回出したお金を返せというのは少し意地汚い、という率直な気持ちはぬぐえないものの。
「全員に返還する必要はないんじゃないでしょうか。私は別に、大山田さんの息子さんが受け取っても問題ないと思います」八班の福井が言った。
「私もそう思っていたところです。希望者だけに返還したのでかまわないと」東が答える。
「でも、返還するって言っても、できるんですか?」珍しく敏子が発言する。
「そこが頭の痛いところなんです。義捐金は皆さんご存知のとおり、匿名性が保てるよう配慮して集めたので、誰がいくらの拠出をしたのか、把握している人はひとりもいません。どういう方法で、誰にいくら返還すべきか、皆目見当がつかないんです」
「義捐金って、合計いくらでしたっけ?」広報担当の島本が問う。
「約三十三万六千円です。平均すると、一戸あたり二千円ちょっとというところです」
「まさか、平均額である約二千円を全戸に返すということはいかんでしょうなあ」五島が言った。
「いちおう現在の私の腹案では、希望者は会計である私のところに直接やってきて、『うちはいくらの義捐金を出したから、返還を求める』と言ってきてもらうしかないと思ってます。それで、言い値で返還する、と」
「まあ、そうするしかないじゃろうなあ」と島本が言う。
 皆、その案で納得しているようだった。このままでは、それが通ってしまうだろう。
 正式な役員は母の敏子で、美咲は役員ではないので会議中の発言は控えるようにしていたのだが、
「でも、それって性善説を前提にしたやり方ですよね。わざと多めに言う人が出てきたら、どうしようもないんじゃないですか?」と口を挟んだ。
「その通りですが、住人の方を信頼してそうするよりほかはないと思います。まあ、一人や二人は誤魔化してくる人もおるじゃろうけど、それは仕方ないと諦めることにしませんか」
 美咲はいまいち納得していなかったが、これ以上出しゃばるのはよくないと首を縦に振った。
「では、返金をしたい人は期日までに東さん宅へ直接申し出るように、ということにしたいと思いますが、それでよろしいでしょうか。期日の設定は東さんに一任ということで」自治会長が言う。
 異議なし、と多数の声が言った。
「では、次に防犯カメラの設置について議論したいと思います。これは一斑班長の佐伯さんからの動議なので、佐伯さんに説明いただきたいと思います。お願いします」
 佐伯が起立して、軽く頭を下げた。
「一斑の佐伯です。お願いします。前にも少し言いましたけど、私は十二年前に防犯担当の役員をやったんです。そのときに、集落内の主要な交差点に防犯カメラを設置してはどうか、ということを議論したことがあったんです。で、今回まことに不幸なことですが、集落内で殺人事件が続けて発生することになりました。だから、もう一度、防犯カメラの是非を議論してもいいのではないか、と思いまして、動議を出させていただきました」
「でも、そう簡単に設置できるもんでもないでしょう。素人がひょいと付けられるものではないし」美咲の背後で誰かが言った。
「ええ。そのとき、具体的に業者に見積もりをしてもらっていたんです。結局、値段が高いということで、役員班長会議では議論が打ち切りになったんですけど」
「そのとき、防犯カメラを装着していたら、今回の事件はなかったかもしれんね。少なくとも、二件目は防げたと思う」芝山が言った。
「まあ、過ぎたことは言うてもしゃあないでしょう」鈴木が言った。
「で、そのときの見積もりの内容は? もちろん、今とは値段が少し変わってるでしょうが」五島が問う。
「はい。防犯カメラの設置と管理を警備会社と契約して全部任せてしまうのでしたら、年間約三十万円でした。防犯カメラの設置だけお願いして、録画の機器をこちらで管理するというのなら、最初のコストが五十万円ほどかかるんですが、それ以降はカメラと録画機器の電気代だけの負担ですむことになっていました」
 前者の案だと、自治会費が各戸二千円くらいの負担増となるだろう。後者だと最初に各戸三千円あまりを負担することになり、電気代がどれくらいかはわからないが、合計で年間数万円、一戸あたりにすると数百円だろうか。
「いずれにしても、大きなお金を支出することになりますから、役員班長会議で議決できる範囲を超えとるでしょうな。住民総会が必要でしょう」五島が言った。
「どう考えても警備会社に全部任せるのは、有り得んのじゃないでしょうか。そんな自治会費の値上げ、受け入れる人はおるじゃろうか」と副会長の鈴木。
 場の中の誰もが、カメラを設置して自治会で管理するという案のほうを選んでいる。そんな雰囲気に満ちた。
 しかし、福井がそれに水を差すように、
「仮に録画機器を集会所に置いて役員が管理するとして、プライバシーはどうなるんでしょう。防犯カメラに映ってしまう家庭は、二十四時間監視されているということになります」と言った。
「プライバシーなんか、どうでもええじゃろが!」東が福井を叱りつけるように言う。
 その剣幕に、一同怯んでしまったが、
「どうでもいいことはないでしょう。日々の行動を見られたくない人には、見られない権利があるはずです」福井は冷静だった。
「ふたり、殺されとるんじゃぞ。プライバシーちゅうんは、命より大事なんか?」
「しかし、そう簡単に権利を制限していいはずがありません。それに、住人全部が同じように負担をするというならともかく、交差点に防犯カメラを設置ということだと、交差点付近の住人に負担が偏ってしまいます。公平性の観点からも問題だと考えます」
「いっちょ前のこと言うな、小娘が! 公共の福祉のためなら人権を制限してもええと、憲法にも書いとるじゃろが!」東が怒鳴った。
「私権の制限をするには、あくまでも正当な補償を条件とします」
「それじゃあお前さんは、プライバシーちゅうのを守るのを優先して、人殺しが続いてもしゃあないっちゅうんか」
「さっきからそう申し上げてます。人権を尊重するためのコストでしょう」
「なんちゅう無責任な女じゃ。親の顔が見てみたいわい。命あってこその人権じゃろうが」東はさらに声を大きして、吐き捨てるように言った。
 東はさらに続ける。
「だいたい、防犯カメラみたいなもんは、国か市役所がカネを出して設置するべきもんなんじゃ。カメラを設置して困るんは、犯罪者だけじゃろ。なんでそんなやつらのために真面目に生活しとるわしらが危険を引き受けないかんのじゃ。……実は、お前が犯人と違うんか? 公園で死んどった男も大山田さんも、お前が殺したんじゃろが! じゃからプライバシーとかなんとか小賢しいこと言うて、煙に巻こうとしとるんじゃろ、この人殺しが」
 福井が何かを言いかけたが、五島が仲裁するように両手を振った。
「お二人とも、落ち着いてください。東さん、さっきから言葉が過ぎます。……こういうふうに、意見が対立してしまうから、住民総会で議論をした上で多数決で決めるしかないんです。この件は住民総会で諮って決定するということにしましょう。両者とも、それでええですか?」
 福井は小さくうなずいて、
「仕方ないですね」と小声で言った。
「ちょっといいですか」と副会長の三田が挙手をした。
「どうぞ」
「みなさんのうちの大方が、案は違うもののカメラを設置するという方向で話をしておるようですが、設置しないという選択肢もあるんじゃないですか。福井さんとは違う理由じゃけど……」
 一同が一斉に三田のほうを見る。
「ふたつの案のうち、どっちにしても自治会費が増えることには違いないんでしょう。お恥ずかしい話、うちは年金暮らしで、ギリギリの生活しとるんです。年金が支給される二か月ごとに、膠原病の嫁とよう生き延びたと言い合っとるような状況です。百円でも、上げてほしゅうない」
 第二新光集落に限らず、日本中どこも高齢化が進んでいる。まずしい年金暮らしをしている老人だけの世帯は、三田宅に限らず少なくないはずだ。いっそのこと生活保護世帯になってしまえば、医療費が無料になるので生活はむしろ楽になるのだろうが、そう簡単に役所が受け入れるはずがない。
 三田は続けた。
「そりゃあ、殺されるんはイヤじゃ。安全に安心に生活できたほうがええに決まっとります。でももう私らは年寄りじゃし、これから生きとっても、たいしてええことがあるとも思えん。殺人犯がやってきたら、それが運命じゃったと受け入れるつもりでおります。大山田さんが殺されたと聞いてから、嫁とそういう話をしとったとこなんです」
 誰かがため息を吐いた。
「わかりました。防犯カメラを設置するか否か、そして、設置するとしてどの案を取るか、という形で、住民総会の決を取ることになると思います。いずれにせよ、業者への再見積もりも依頼しなければいけないし、それから臨時の住民総会開催となると、最低でも二か月はかかります。もちろん、コストは最小になるよう最大限の努力をします」五島が言った。
「そうですか……、お願いします」三田が言った。
「で、三つめの議題ですが……」
 三つめは、一時的な外出禁止措置となっていた。文字通りの内容だろう。
「複数の住人の方から、これ以上の殺人事件発生を防ぐために、夜間の戸外への外出を制限してはどうか、という提案がありました。事件は二件とも、放火を含めれば三件ですが、夜から朝にかけて発生しています。ですので、戸締りをしっかりした上で、不要不急の外出は自粛いただくよう、要請しようと思っております」
「具体的に、何時から何時までですか?」衛生担当の玉木が問う。
「午後七時から翌朝六時くらいまでが目安になると思います」
 誰かが、いい案だ、と言った。
「でも、仕事から帰るのが七時以降になったり、朝五時から出勤する人もいるでしょう。私もですが」島本が言った。
「もちろん仕事や、やむを得ない事情で外出することを禁止するものではありません。あくまでも、不要不急の場合です」
「不要不急とは、どういうものですか?」福井が問う。
「たとえば、犬の散歩とか、緊急でない買い物とかになると思います。つまりそれらは、午後七時までに済ませておくか、朝六時を待ってから行くように、と」
 美咲はそれを聞きながら、仮にそうなっても自分にはそれほど影響はないだろうと判断した。もちろん不便になるには違いないが、出掛けるのはタバコや食料を買いにコンビニに行くくらいだから、きちんとタバコをカートン買いしておけば、それほど問題ない。カートンで買ってしまうと、タバコが切れる心配から解放されて吸い過ぎてしまうのが難点ではあるが。
 福井が、
「そんなこと、自治会が規制できるんでしょうか。移動の自由は大事な人権じゃありませんか」と言った。
 それを聞いた東が鼻先で笑いながら、
「また人権か。お前さん、人権が好きじゃの。人権さんとこに嫁に行ったらどうじゃ」嫌味っぽく言った。
 福井はもはや相手にしていないというふうで、涼しい顔をしている。
 五島が、
「あくまでも、住人の皆さんに対するお願いです。もちろん、強制力はありません。住人の皆さんの自主的なご協力により、外出を控えてもらうというものです」と言った。
「強制力がないなら、何の実効性もないんじゃないですか?」
「いちおう、役員で二人組の交代で見回って、外出してる人がいたら帰宅を促す、というふうにしようかと、防犯担当の佐藤さんとお話をしておりました」
「え、私たちが見回りするんですか?」鈴木が言う。
「はい、そうする予定です」
「そんくらいしたほうがええじゃろ。人殺しを防ぐためじゃ」東が言う。
 美咲はとなりにいる敏子の顔を見た。やはり、めんどくさそうな表情をしている。夜間の見回りなど、やりたい人はいないだろう。
 ほかの役員も難しい表情をしているが、班長のほうは特に感情を表していない。
「ちょっと、待ってください!」三班班長の金田一基の大きな声だった。
「なんでしょうか?」
「午後七時以降、この集落内では外出してはいけないということになるんですか?」
「ええ、そういうことです」
「困ります。皆さんご存知のとおり、うちは居酒屋を経営しとります。お客さんの半分以上は、集落のなかの住人さんです。午後七時と言えば、ようやく仕事が始まったところです。それは、うちに仕事をするなと言うとるのと、同じじゃないですか」
 金田一基のすぐ横に座っている未亡人の金田恵子は、一基の親戚ということで、班は違うもののすぐそばに住んでいる。美咲は酒を外で呑む習慣がないので、金田の居酒屋に行ったことは一度もないが、金田一基夫妻と金田恵子の三人で、店を切り盛りしているということだった。
「それは……、まあご協力いただくしかないと思います」
「冗談じゃない、なんでそんなもんに協力せにゃいかんのですか。わしらに飢え死にしろと言いよるんと同じじゃないですか」
「自治会としては自粛を推奨するだけ、実際に自粛するかどうかは各住人の判断にお任せしますので……」
「見回りまでするんじゃ、実質的に強制するんと変わらんじゃないですか」
 そのとき、美咲のすぐ横に座っていた酒本がその場に立ち上がった。
 そして、金田一基を指さして、絶叫する。
「あなた、甘えたこと言うんじゃないよ!」
 美咲は普段の酒本の態度とあまりに違うために、あっけにとられてしまった。
「あなたも商売人でしょう。良いときもあれば、悪いときもある。当たり前じゃない。悪い波がきたときのために備えておくのは常識。その備えができてなかったってことは、自己責任じゃない。泣き言を言うなら、商売人の資格はないわ」
「殺人事件が起こったっちゅうのは、わしの自己責任ですか?」
「当たり前でしょう。起こったことにはすべて結果に責任を負うってのが、リスクを取ってお金を稼ぐってことでしょう。私だって、借金して自宅をリフォームして店やってるのよ。いざとなったら飢え死にするくらいの覚悟がないなら、おとなしくコンビニでバイトでもしてなさいよ」
「おたくの商売は七時に閉めても何も影響ないじゃないか。安全なところにおるから、こっちに石を投げれるんじゃ。勝手なこと言うな」
「ちょっと、二人とも、不規則発言は控えてください」五島が言った。
 酒本が興奮し切った表情のまま、座布団の上に座る。
「金田さんのご懸念はじゅうぶんわかりますが、ここはひとつ、お持ち帰りのメニューとかを充実させるなどの工夫をしてもらって、なんとか凌いでもらえんじゃろうか。犯人が捕まるまでの、一時的なことじゃけん」
 金田一基は憮然とした表情で何も答えない。
「それでは、住人に対する夜間の外出自粛の要請と、役員による見回りについて決を取りたいと思います。賛成の方は挙手をお願いします」五島が声を張った。
 ゆっくりといくつか手が挙がり、そしてパラパラと続いていく。
 役員のなかでは、五島と東と佐藤が挙手をした。班長は自らは負担がないためか、福井を除く全員が挙手をしている。
「賛成多数となりました。本日の役員班長会議はこれにて散会といたします。役員の皆さまには、夜間見回りの割り振りなどを決めたいと思いますので、引き続きお残りください。ありがとうございました」五島が言った。
 酒本も含め、班長の面々が立ち上がって退出していく。五島宅のリビングが一気に広くなった。
 美咲は、混乱しながらも終わったばかりの役員班長会議を振り返りながら、臨時回覧板の文書に書くべき内容を頭の中で考えていた。

第五話


 役員による夜間の見回りが始まった。
 ほとんどの住人は外出自粛要請に従ったようで、午後七時を過ぎると集落内が死んだように静まり返る。たまに、仕事から帰宅しているらしい車が集落の外から内に向かって入ってくるエンジン音が聞こえてくるが、集落の外に向かう音はほとんど聞こえない。
 しかし、やはり殺人現場を見にこようとするものや、不謹慎な動画配信者などがやってくることはあるようだ。
 美咲は少しだけ気に掛かっていたこともあり、昼間に金田一基の居酒屋店舗兼自宅の前まで行ってみた。表の横開きの和風玄関には、赤提灯に「お持ち帰りできます、お昼十二時から営業中」と手書きの油性マジックで書いた紙が貼ってあった。夜に営業できないぶん、開店時間を昼に前倒ししたのだろう。しかし、客がいる様子は感じられなかった。

 前回の臨時役員班長会議のちょうど一週間後の夕方、パソコンでのその日の作業を終えてリビングでテレビを見ていると、固定電話が鳴った。
「はい、古瀬です」
「あ、どうも。自治会長の五島です。古瀬敏子さんはいらっしゃいますでしょうか」
「いえ、まだ帰ってません。もうすぐ帰ってくると思います」
「そうですか……」五島はそう言って黙った。
「何かあったんですか?」
「いえ、ちょっとしたトラブルが発生して、役員の皆さまに相談したいことが出てきたので、お手隙の方がいらっしゃれば集まっていただこうかと思っておったんです」
「トラブルって、何ですか?」
「いえ、ややこしいのでちょっと電話では説明しにくいことでして」
 美咲は右耳に当てていた受話器を左手に持ち替えた。
「もしよければ、母の代わりに私が行きましょうか? 問題なければ。どうせ、回覧板の文書を作っているのは私ですし」
「ああ……、今回は回覧板に関することにはなりそうにはないんですが、古瀬さんに来ていただけるなら、ありがたいです。ご迷惑ですが」
「それじゃ、今から自治会長さんのお宅に行ったのでいいですか?」
「お願いします」
 テレビを消して、いったん自室に戻って薄手のニットをシャツの上に羽織った。
 五分後には五島宅に到着し、玄関を通ってリビングに案内された。前の役員班長会議のときは壁に立て掛けられていたテーブルが部屋の真ん中にあり、東と佐藤が向かい合う形で座っている。東の前には、手書き字で数字が書かれた小さなメモ用紙があった。
「お座りください」
 五島にそう言われたので、美咲は佐藤の隣の座布団の上に座って、
「母がまだ帰宅しておりませんので、代わりに私が伺いました」誰に言うともなくそう言った。
 東が美咲の姿を見て、
「古瀬さんのお嬢さん、あんたが正しかったよ。私が馬鹿じゃった」と言った。
 意味がわからず、美咲はきょとんとするばかりだった。
 東はなぜか、疲労困憊と言った表情をして顔色も少し悪い。いつも声が大きく強気な物言いをする東だが、今日は身体が一回り縮んだように感じる。
「いったい、何があったんですか?」
「大山田さんへの義捐金の返還の件、あったでしょう」
「はい」
 大山田宛て義捐金の返還については、「返還を希望する人は会計の東宅へ申し出ること、その際封筒に入れた金額も告げる」という内容、そして「預かった義捐金はいったん自治会の口座に入金しているため、後日、東が現金を引き下ろしてから希望者に返還する」ということを回覧板で住人に報知していた。
「合計して、二十六人から返還の請求がありました。もちろん、どこの家が請求してきたかは言えませんが」
 合計百五十戸のうちの二十六戸。二割弱の世帯が返還を要求したということになる。この数字が多いのか少ないのか、比較対象とするべきものがないため、判断できない。
 東は続けた。
「で、その二十六人が言うてきた金額を合計すると、五十五万円になってしもうたんです」
「え? なんでそんなことになるんですか?」
 隣に座っている佐藤は、美咲が来る前にその情報を知らされていたのか、困り果てたような表情をしてはいたが、驚いた様子はない。
「集まったお金、合計いくらでしたっけ?」美咲は確認するように問う。
「三十三万円です」
 少し考えて、ようやく理解が追いつく。
 約百五十戸が出したお金は合計三十三万円。しかし、そのうち二十六戸が出したお金が五十五万円になるという。
 明らかに、自分が出したお金よりも大きな額を返還してもらおうとしている人間がいる。
「あさましい……」思わず口に出して言ってしまった。
 あまり品のよい言葉ではないが、この状況をほかのどういう言葉で修飾すべきか、探しても見当たりそうにない。もちろん、封筒に入れた金額を正直に申し出ている家もあるだろうが、それを確認するすべはない。
「前の会議のとき、古瀬さんが『性善説でやるのは大丈夫か』みたいなことを、おっしゃっておったでしょう。私は大丈夫じゃと思っとった。ここの住人は、みんな真面目で誠実だと思っとった。お金のことになると、人間こんなに意地汚くなるんじゃ」
 東はなぜか美咲に対して敬語を使いながら、目頭に涙を浮かべた。自分の見通しが甘かったということよりも、住人の本性を見せつけられたことにショックを受けているようだった。
 しかし、集めた金額を超えるまでの返還請求があるとは美咲も予想していなかった。人の羞恥心というものは、ここまで脆弱なものなのか。
 天に向かって金額を告げれば金が振ってくるというなら、誰もが大きな額を叫ぶだろう。しかしそんなことは有り得ないのだ。誰かの金が増えたぶん、誰かの金が減らなければならない。
 五島宅のインターホンが鳴った。五島が玄関に行き、衛生担当役員の玉木とともにリビングに戻ってきた。
 東は先ほど美咲が聞いた話と同じ内容を、玉木にも話した。
 聞き終わって玉木は、嫌悪感を隠さない表情を見せた。
「で、どうしましょう? 今さらお金返すのを止めるとも言えんでしょう」佐藤が言った。
 五島が、
「東さんは、こんなことになったんは自分の責任じゃから、足らんぶんは全部自分が負担するって言いよるんじゃが、それは違うじゃろうと。何かええ知恵がないかと、来てもろうたんですが」と言った。
 手元にあるお金は三十三万円、請求された金額は五十五万円。その差額は二十二万円。決して安い金額ではない。つつましく生活している人間にとっては、大金と言ってもいい。
「集まった三十三万円を、請求してきた人数……、二十六人でしたっけ? で割って、全員に同じ額を返すっていうのはどうですか? 事情を説明して」美咲が言った。
 そんなことではどうにもならないだろうと思いつつも、ほかには良い解決方法は何も思い浮かばない。
「来年度ぶんの自治会費を値上げして、それで賄うという方法もあるのでは……」玉木が言った。
 それを聞いて、先日の会議で「百円でも自治会費を上げてほしくない」と訴えた三田の姿を思い出す。
 自治会役員、あるいは役員と班長で分担するという方法もあるかもしれないと思うが、意思決定は参加する人間が多くなればなるほど調整が難しくなる。役員八名のうち、あるいは班長と合わせて十五人のうち、必ず「なぜそんなお金をうちが負担しなければならないんだ」と言い出す人間が出てくるだろう。
「やっぱり、私が全部負担します。私が言い出したことですし……」東が言った。
 それを聞いた五島が、東の肩に手を当てて、
「いや、それはいかん。自治会長の私にも責任がある。ほんなら私に半分持たせてください」
「そんな、申し訳ない」
 ふたりがしばらくそんなやり取りをしていたが、その様子を見ていた佐藤が、
「警察に相談してみたらどうじゃろか。だましてお金を多く取ろうとしとる人間が確実におるんじゃけん、詐欺で間違いないでしょう」
 第二新光集落内で、このところ警察沙汰が続いている。最初の殺人、大山田家の放火、そして大山田の殺人。今回の返還金の詐欺……。
「水上さんに相談してみようか」いきなり警察署に通報することが憚れるのか、五島がそんなことを言った。
 水上はすでに引っ越して行った。官舎というのがどこにあるのかは知らないが、市内に住んでいることはほぼ間違いない。
 五島が畳の上においていた二つ折りタイプの携帯電話を操作して、電話を掛けた。
「もしもし、水上さんですか。五島です。お世話になっております。ちょっと相談したいことがあるんですが、今よろしいでしょうか」
「かまいませんが、なんですか?」部屋のなかが静かなため、五島の耳に当てた電話のスピーカーから水上の声が漏れて聞こえてくる。
 五島は義捐金集めと、その後のことを水上に説明した。
「……ということで、こういう場合、警察に通報して、なんとかなるんもんかどうか、教えていただこうと思って」
「難しいんじゃないでしょうかねえ」水上が答える。
「難しいですか? 犯罪が起こっとることは間違いないと思うんですが」
「と言っても、最初の封筒にいくらの金額が入ってたのかすらわからないんじゃ、捜査のやりようもないでしょう。証拠がなければ、どうにもなりませんよ」
「証拠がないと、警察には動いてもらえんのでしょうか」
 少し間があってから、
「当たり前だろ!」水上が怒鳴る声が、はっきりと聞こえてきた。
 五島が身体をのけぞらせた。
「あのね、あんたたち。根本的に勘違いしてるようだけど、警察ってのは市民の使いっ走りじゃないんだよ。わかる?」丁寧語だった口調が、ぞんざいな言葉遣いに変わった。
 水上は続ける。
「警察っていうのは、犯罪があったら捜査をして被疑者を検挙して、証拠を揃えて身柄と一緒に送検するのが仕事なんだよ。証拠が得られる見込みがないのに、捜査をして逮捕なんかしたら、大問題になる。そんなこともわからないのか。住人どうしのトラブルは住人どうしで解決してくださいよ。そもそも私はもうそっちの住人でもなければ、刑事でも駐在でもない、単なる白バイ乗りなんだよ。もう面倒ごとは二度とこっちに振ってくるなよ。もしこれ以上ゴタゴタ言ってきやがったら、お前ら五キロの速度超過でも切符を切ってやるからな。覚悟しとけよ」
 電話は切れたようだった。
 部屋のなかが一気に静まる。誰もが困った、というより大人に叱られた子供のような顔になっている。
 近隣住民に税金泥棒よばわりされ、息子と娘が学校でいじめられた水上にとっては、この集落の人間は敵という認識になったのだろう。水上の怒りには正当な理由がある。
 五島がなぜか小さく頭を下げて、
「やはり、私と東さんで負担しましょう。この件は内々で処理したいと思いますので、皆さん、これ以上のトラブルを招かないよう、内緒にしていただくよう願います」と言った。

 帰宅すると、午後五時半を少し過ぎたところだった。敏子はすでに帰って来ていて、台所で夕飯の準備をしている。
「どこ行っとったん? 電話も持って行かんと。あんたに電話したがね」
 五島宅に向かう際、すぐに帰って来れるだろうとスマホはリビングのソファの上に置きっぱなしにしていた。スマホを操作すると、敏子の携帯電話から一回だけ着信履歴があった。
「自治会長さんのとこ」
「何しに?」
「長くなるから、後で話す」
 美咲は自室に戻ってニットを脱ぎ、タバコに火を点けた。
 集まった義捐金は三十三万円、返還すべき金額は五十五万円。五島と東が差額を折半で負担するとして、各十一万円となる。余計な衝突を回避するためのコストとしては出せない額ではないのかもしれない。インチキをしている人間を儲けさせるのは不本意だが、ほかにどうしようもない。しかし、自治会長や役員に選ばれたからと言って、こんな負担を強いられるいわれもないはずだ。何をやっても理不尽なほうへしか事態は動かない。
「もう晩ごはんよ、下りておいでえ」敏子が一階から大きな声で言った。
 美咲はまだ長いタバコを灰皿にこすりつけて部屋を出た。
 夕食は生姜焼きとみそ汁、そして小松菜の煮物だった。味は申し分ないのだが、小松菜の煮物だけは、やはり雄一郎の家でごちそうになったものと比較してしまう。なぜこんな単純な料理なのにこれほどの差が出るのか、皆目見当もつかない。
 食べながら、美咲は先ほど五島宅においてあった出来事を敏子に話した。
「そんなことになっとったんじゃね……。まあ正直言うて、役員全員で負担とかにならんかって、ありがたいというか。そんなお金、誰も払いとうないじゃろ。自治会長さんと会計さんには申し訳ないけど」
「ねえ、自治会って、本当に要るの?」
 いつかの役員班長会議で、福井が同じような疑問を口にした。第二新光集落は合計約百五十世帯、役員と班長の数は合計で十六人、現在は水上が抜けたので合計十五人になっているが。役員や班長に選ばれる確率は、一割強。役員など誰もやりたがらないが、仕事の少ない班長でさえ敬遠されている。
 たしか会議では、行政の観点からは「自治会があるほうがコストは低い」みたいなことを水上が言っていた。しかし今回の義捐金についての問題は、自治会がなければ発生していなかったはずで、はたして自治会が住人にとって本当にプラスになっているのだろうか。
「さあ、どうなんじゃろね。自治会を無くして困ることは出てくるんじゃろうけど、この集落のなかで自治会が無くなったことは一回もないんじゃけん、なんとも言えん。でも今もやっとるような、これ以上犠牲者が出んように外出を禁止するとかいうのは、自治会がないと決められんことじゃったとは思う」
 夕食を終えて、午後八時になると、敏子は懐中電灯を手に持って厚いジャンパーを羽織った。外出自粛要請を守っているか見回るという役員の仕事は、二人組で月水金の夜に行われることになっている。
「今日は三田さんと見回り当番じゃ、もうだいぶ寒なったわい。冬みたいじゃ」
 そう言いながら敏子は玄関を出た。


 大山田殺害の犯人が逮捕されたのは、その翌日十一月十一日のことだった。
 昼過ぎにコーヒーを飲みながらスマホをいじっていると、ポータルサイトのトップニュースに「【速報】H市男性殺害事件 女を逮捕」という見出しが出ていた。
 画面をタップしてそれを開くと、

「県警は十月上旬にH市に住む大山田誠三さんが逮捕された事件で、近所に住む女を逮捕したと発表した。女は容疑を認めているという。九月にも近くで男が殺害されるという事件があったが、こちらについては容疑を否認している」

 いかにも速報らしく簡易にそう報じている。
 そのニュースを見てから、美咲は仕事が手に付かなくなり、ブラウザでニュースのページを何度も更新しながら続報を待った。
 やがて最初に報じた通信社に続いて、大手の新聞社やテレビ局のニュース記事が、次々とアップされていく。

「H市で十月三十日未明に大山田誠三さん六十六歳が殺害された事件で、県警は近所に住む吉岡永子《よしおかえいこ》容疑者、五十三歳を逮捕したと発表しました。
 事件現場はH市の北部、山のふもとに位置する閑静な住宅街です。
 大山田さんの住む戸建ての住宅は、十月十四日に放火に遭い、全焼しました。その後大山田さんは地域の施設で寝泊まりをしていたということですが、そこで刃物で刺されて死亡しました。
 吉岡容疑者は、大山田さんの道路を挟んではす向かいに住んでおり、互いに面識があったということです。吉岡容疑者は、放火・殺人ともに容疑を認めています。
 同じ地区で、九月下旬に若い男性が殺害されるという事件がありましたが、吉岡容疑者はこちらについては容疑を否認しています。
 警察では、動機やふたつの事件の関連について慎重に調べを進めています」

 テレビの全国ニュースをテレビ局の公式アカウントがそのままネット上にアップした動画で、有名な局アナがそう報道した。
 画面には、焼けた後の大山田の家などが映されている。
 美咲はサンダルを履いて表に出て、大山田の家があったほうへ歩いて行くと、遠くにマスコミのハイヤーがすでにやってきているのが見えた。近寄るとインタビューを求められるかもしれないので、そこで引き返して家に戻った。
 吉岡永子は、大山田と班は違うが、すぐ近所に住んでいる。美咲は道端で吉岡の顔をちらと見たような記憶はあるが、はっきりとはわからない。もちろん言葉を交わしたこともない。
 いったい、動機は何なんだろう。こういう場合、警察は事件について近隣住民に知らせてくれるのだろうか。そして、最初に起こった公園での殺人事件との関連は……。
 ふつうに考えると、最初の事件も吉岡が関わってると推測するのが妥当のような気もする。しかし、これで全て解決したと言えるのだろうか。
 判断するだけの材料はない。待つしかないだろう。美咲は自室に戻って、スリープモードになっているパソコンを起動させた。
 夕方になり敏子が帰ってくると、どこかから連絡を受けたのか、すでに吉岡が逮捕されたということを知っていた。
「なんかね、吉岡さんとこは、ずっと大山田さんと近所でトラブルになっとったらしいんよ。吉岡さんがよう車庫に車入れんと表に停めっぱなしにしとったんが発端やったらしいんやけど。吉岡さんの旦那さんが退職して大きい車に買い替えてから、車庫に入れるんが面倒になったとかなんとか」どこから仕入れてきた情報かはわからないが、やや興奮しながら敏子が言った。
「吉岡さんとこって、旦那さんと二人で住んでるの?」
「いや、たしか二十代半ばくらいの息子と、息子の嫁と住んどる。孫はまだおらんはず」
 家族と同居しながら、近所に放火したり殺人を犯したりは物理的に可能だろうが、ご近所トラブルでそこまでやるものだろうか。家族は吉岡永子の犯行だとは知らずに、ここ数日を過ごしてきたのだろうか。
 しかし容疑を認めているということなので、それをやってのけたのだろう。
 この先、吉岡の家族がこの集落に住み続けるのは可能なのだろうか。建前では犯罪は家族に連座しないことになっているが、現実的にそれは難しい。
「最初の公園の事件も、吉岡さんの犯行なの?」美咲は母に問う。
「さあ、どうなんじゃろね」と敏子は言った。


 吉岡逮捕の翌々日の日曜日、十一月十三日。
 朝食を終えた後、美咲はタバコを買いに徒歩でコンビニに向かった。曇り空のもと、朝夕はもう冬の寒さで空気が重くなっている。
 吉岡が逮捕された後も、午後七時以降の外出自粛の要請は継続された。吉岡がかたくなに一件目の事件への関与を否認しているので、最初の事件の犯人がまだ近くに潜んでいるかもしれない、というのがその理由だった。
 とにかく美咲としては、外出自粛中の夜の間にタバコを切らさないよう、買い溜めしておく必要がある。
 コンビニで、ペットボトルの緑茶とチョコレート菓子を手に持ってレジに行き、店員にタバコの銘柄を告げ、ワンカートンを購入する。やはり最近タバコの消費量が増えた気がする。
「ありがとうございます、またお越しくださいませ」という店員の声を背後に聞いて退店し、コンビニの広い駐車場を歩いていると、
「すみません、古瀬美咲さんですね?」と不意に背後から声を掛けられた。
 振り向くと、美咲と同い年くらいだろうか、三十代前半の短髪黒髪のきつい目つきをした女が立っていた。紺色のパンツスーツを着ており、身長は高く、百七十近くあるだろうか。
「そうですけど、何かご用ですか?」美咲は答えた。
 女は胸ポケットから何かを取り出し、それを美咲に提示する。
「県警本部刑事部捜査一課の川本と言います。少しお話したいことがあって参りました」
 警察手帳の顔写真の下には「警部」と書いてある。
 事件以降、美咲も全く無知だった警察組織の部署や警察官の階級などについて少しだけ調べて知識を得ていた。地方採用の警察官は、巡査部長あたりで定年を迎える人も少なくないらしく、警部や警視に就任できるのはかなりの少数派、さらに県警のトップである本部長や、本部の部長は国家公務員一種の合格者いわゆるキャリア組が就くことが多いということだった。
 目の前の川本は、この歳で警部というのはかなり出世の早いほうなのだろう。
 いったい何の用なのだろうか。美咲にはまったく心当たりがない。
 川本警部は、駐車場に停まっていた銀色のマークXの後部座席のドアを開けて、
「お乗りください」と拒絶を許さないような口調で言った。
 車内には誰も乗っていない。
「……どこに行くんですか?」
「どこにも行きません。ちょっと車内で話をするだけですので。すぐにすみます」
 ためらいながらも、買ったばかりのものが入っているレジ袋を持ったまま後部座席に乗り込んだ。川本は車の前方を回って、運転席に乗り込む。運転席には無線機らしきものが上部に設置してある。ペーパードライバーの美咲は車にはまったく詳しくないが、普通の車にはなさそうなスイッチもハンドルの向こう側に付いている。どうやら覆面パトカーというものらしい。
「すみません、もう一度ご確認させてください。第二新光集落にお住まいの古瀬美咲さんで間違いないですか?」
「ええ、そうです」
「𠮷岡が大山田氏殺害の被疑者として逮捕されたということは、ご存知ですね?」
「はい、ニュースになってたし、近所で噂になってますから……」
「実は、吉岡は何度か警察署に電話を寄越していたんです。『公園の殺人事件の真犯人は大山田だから早く捕まえろ』みたいな。また、近所の人にもそんなことを吹聴していたようです」
「え……、それはどういうことですか」
「𠮷岡の取り調べを引き続きやっていますが、吉岡は大山田氏が公園の事件の真犯人と今でも思っているようです。『自分は身を守るためにやった、あいつが犯人に違いないんだから正当防衛だ』みたいなことを言っているんです。最初は火を着けて焼殺を試みたようですが、それが叶わなかったために刺殺した、ということのようです」
「……それ、吉岡さんは何か根拠があって言ってるんですか? 吉岡さんは大山田さんとちょっとしたご近所トラブルがあったって話もありますけど」
「それはまだ捜査中で、何とも言えませんが、捜査本部は大山田氏が最初の事件の犯人だった可能性は、極めて低いと見ています。とにかく吉岡は、きっかけはご近所トラブルかもしれませんが、正義感を暴走させて犯行に及んだようです。『警察がトロトロしてるから、私がやるしかないと思った』などと供述しています。もちろん仮に大山田氏が犯人だとしても、そんなことが許されるはずはないんですが」
 うわさで聞くところによると、吉岡の夫と息子夫婦は、早くも引っ越しの準備を進めているらしい。殺人犯を出した家と周囲に知られながら住み続けるのは難しいのだろう。
「……で、それを私に知らせて、どうしようと言うんですか? 私にはあまり関係ないことのように思いますけど」
「実はね、古瀬さん。警察署に『公園の殺人事件の犯人は古瀬美咲だ』と電話で言ってきた人間がいるんです。もちろん吉岡とは別の人間です」
「え……?」
 集落内で美咲が犯人ではないかという根も葉もないうわさが立っているということは、美咲も前に酒本から聞いて知っていた。誰もがそういううわさを流される可能性もあるし、流す側になることもあるだろうと全く気にしなくなっていた。
 しかし、警察署にまで通報するとは、その人間はかなり強く美咲を疑ってるに違いない。もしくは、美咲に嫌がらせをする目的で通報したのだろうか。
「ですので、大丈夫とは思いますが、古瀬さんも大山田氏のように、逆恨みというか、犯人と誤認されて攻撃を受ける可能性がゼロではないので、身の回りにお気を付けくださるよう、ご注意いただきたく思います。地域課のほうでもパトロールの回数を増やすようです」
 つまり川本警部は、美咲に身辺気を付けるよう忠告しにきたのだろう。
「ご注意と言われましても……、正直、気分悪いです。私、何もやってません。それに、そもそもその通報をした人間が誰かわからないんじゃ、注意のしようもないじゃないですか。いったい、誰なんですか、そんな通報したのは」
 川本は、内密に願いますと言ってから、
「窪園光江さんです」と言った。
 雄一郎の母だ。
 美咲は雄一郎の母の光江に対して、あまり良い印象を持っていない。昔から、子供ながらにずっと嫌われている、少なくとも好かれてはいないと感じていた。面と向かってそういうことを言われたことはないし、露骨な嫌がらせを受けたこともないが、美咲を雄一郎から遠ざけようとしているのは子供だった美咲にも明白だった。
 いったい雄一郎の母は、何を根拠に美咲を殺人犯だと言うのか。
「あの……、集落のなか、このところずっと変なんです」美咲は川本に訴えた。
「変、と言いますと?」
「水上さんのことは、ご存知ですよね?」
「……どなたでしょう?」
「交通課の警察官の水上さんです。つい最近まで第二新光に住んでた」
「いえ、私は県警本部からこっちに来ている人間なんで、所轄のことはあまり知らないんです。その警察官がどうかしたんですか?」
 美咲は水上が近隣住民から嫌がらせを受けていた事実を簡単に説明し、続けて大山田に対する義捐金の顛末について話した。
「それだけじゃないんです。みんな疑心暗鬼になって、誰々が犯人だみたいなうわさは私に限らずいろいろ流れてるみたいで。自治会で防犯カメラを設置するみたいな話も出たり、夜間は外出を自粛するように決まって、見回りをしたり……」
 言いながら、美咲は住人に不安が広まったのは、自分が作成している回覧板の文書もひとつの要因になっているのではないかという気がしてきた。回覧板の情報に接した住人が過度に警戒するようになり、そして自治会で行き過ぎた対処法が決議され、その内容を回覧板がさらに拡散する……。そうやって住人の間で、まるで感染症のように次々と不安が再生産されて行く。吉岡が大山田を殺害したのも、その不安が原因のひとつとなったのかもしれない。
 川本は聞きながらも表情を変えない。
「そんなことになってるんですね。犯人検挙が遅れているからそうなった、と言われても仕方ありません。申し訳なく思っています」
「公園の事件の捜査、どれくらい進んでいるんですか? 言えないことがあるのはわかりますけど」
「実は、ぜんぜん進んでないというのが正直なところです。マルガイが誰かも特定できていないんです。身分を証明するようなものは持っていなかったので、歯の治療痕を手掛かりに探しているんですが、掴めていません。聞き込みの範囲を拡大しているんですが、有力な情報は得られていません。この店の」
 川本は車の窓からコンビニの店舗を指さした。
「防犯カメラの映像もお借りして、事件発生日時の一か月前までさかのぼって確認したんですが、被害者や被疑者の姿は見つかりませんでした。手詰まり状態です」
 警察がサボっているとは思わないが、事件からこれだけ時間が経ってもそんな状況ならば、もう犯人を見つけ出すのは無理なのではないか。だとすると、事件のことなど誰もが忘れて風化するのを待つしかないのだろうか。
「話はそれだけですか? じゃあ、私は帰らせてもらってもいいですね」
 覆面パトカーから下車しようとすると、
「ご自宅まで、お送りします」と川本が言った。
「いえ、いいです。歩いて帰ります。運動不足なものですから」
 美咲はドアを開けて外に出た。警察の覆面パトカーで帰って来たなどと近所でうわさをされると、何を言われるかわかったものではない。

 コンビニのレジ袋をぶら提げて帰途を歩く。第一新光集落を抜けて、第二新光集落に入ったところで、とある家の中から表の道路まで喧嘩をしているような声が聞こえてきた。
 勝手なことをするな、話が違う、ほかにどうしょうもないじゃろ、あんたがどんくさいけんこんなことになるんじゃ、わしが稼いだ金じゃろうが、安月給を節約して貯めたんは私じゃ……、そんなふうに男女が罵り合っている。家の窓は閉じられているようだが、それでも外まで聞こえる怒声だった。おそらく隣家にも聞こえているに違いない。
 その家には、郵便受けの横に石製の表札が壁に埋め込まれていて、一文字だけ「東」と彫られている。
 心配と、少しの興味もあり、立ち止まってその様子を聞いていると、やがて鬼のような形相をした六十代らしい女が何かを絶叫しながら表に出てきた。女は美咲に目もくれず車庫に行き、軽自動車に乗って発進させた。
 続いて、東が表に出てくる。去っていく軽自動車を見ると、東は大きく舌打ちした。
「どうかなさったんですか?」
 そう声を掛けると、東は振り向いて驚いたのか、少しのけ反るようなしぐさをした。
「ああ、古瀬さん。お見苦しいところを、すみません」と小さく頭を下げた。
 そして声を潜めて話を続ける。
「まあ、夫婦喧嘩と言えば夫婦喧嘩なんでしょうが……。義捐金の返還のことで、ちょっと夫婦で揉めておりまして」
「まだ、何かあるんですか?」
 義捐金返還の超過分は、自治会長と会計である東が負担することで決着したはずで、今さら何があるのだろう、そのようなことを東に問うと、
「返還した人には、内密にとお願いしたんですが、やはり『自分が封筒に入れた額よりも大きな金額を請求したら、言い値でもらえた』と吹聴してまわった人間がおるようなんです」
 人の口に戸は建てられない。そうなるのもやむを得ないだろう。
「まあ、それ自体はええんですけど、今度は、『うちは不幸に遭った大山田さんとその息子さんの支援のためにお金を出した、そんな詐欺師のところに自分のお金が行ったのは納得できんから、うちにも返してほしい』と言い出す者が現れて……」
 同じ気持ちは、一万円を封筒に入れた美咲にもあった。しかし、事情を知っている美咲としてはほかにどうしようもないことは明らかだったので、何も言わないことにした。もちろん返還も求めていない。
「その言い分はもっともです。お金を返すしかない。で、自治会長さんにこれ以上ご負担してもらうわけにもいかんし、もううちでかぶるしかない、と。最初の返還ぶんには、女房もしぶしぶ賛成しとったんですけど、さらに追加となると、承服できんと言うてきまして……」
 言いながら、東はがっくりと肩を落とした。東の額には深いしわが刻まれていて、ここ数週間で一気に老け込んだように見える。
「さすがにそんなことにまでなると、一度役員の皆さんで集まってご相談されてはいかがですか?」
「いや、もうええです。納得いかんという人に好きなだけ金を握らせて、黙っといてもらうんがいちばん気苦労がないです」
 先ほど出て行った東の配偶者は、それでは納得するまいと美咲は勘ぐる。しかしそれは家庭内のことなので、口出しすべきではないという気がした。このトラブルにこれ以上巻き込まれたくない、という気持ちのほうが強かったが。
「こんなことになっとるの、どうかご内密に願います」東は頭を下げた。


 帰宅して自室に戻ると、午前九時を過ぎたところだった。コンビニのレジ袋をベッドの上に放り投げるように置いた。
 月曜日の朝までに仕上げなければならない仕事が溜まっている。本来なら金曜日の夕方までに済ませなければならないはずなのだが、実際に稼働するのは翌月曜日の朝なので、許可をもらった上で締め切りを遅らせてもらっている。
 しばらく悩んだ末に、
≪聞きたいことがあるんだけど、ちょっといい?≫と雄一郎にメッセージを送った。
 すぐに既読マークが付いて、
≪なに?≫と返信が来た。
≪ちょっと人に聞かれたくないんで、迷惑じゃなければ直接会って話したいんだけど≫
 既読が付いてから、数分してようやく返事が来る。
≪なんじゃろ。何か知らんけど、ほなちょっとだけドライブにでも行こか?≫
≪うん。ありがとう≫
≪今からそっちの家に行ったんでいい?≫
≪お願いします≫
 五分もしないうちに雄一郎はやってくるだろう。タバコを吸おうかどうか、一本口にくわえてしばらく逡巡したが、箱に戻した。
 脱いだばかりのブルーのニットを羽織って、一階に下りる。リビングで敏子が見ているテレビの音が聞こえてきた。日曜日の朝の討論番組らしく、流行りの新型ウイルス感染対策について、にわかに名前が売れて頻繁にテレビで顔を見るようになった専門家が、政府の政策を激しく糾弾している。
 美咲はリビングに顔は出さずに、
「ちょっと、出掛けてくるから」と大き目の声で言った。
「お昼は帰って来るん?」
「たぶん」
 スニーカーを履いて表に出ると、間もなく雄一郎の運転する軽自動車がやってきた。
「おはよう。いきなりごめんね」そう言って助手席に乗り込む。
「まあ、暇な身じゃけん」雄一郎は自虐的にそう言って車を発進させた。
「仕事探し、やっぱり難しそう?」
「あれから二件、面接行ったんじゃけど、どっちも倍率二十倍超えとるらしい。二件目のはまだ結果待ちなんじゃけど。こうなりゃ、やっぱり大型か何か免許でも取って、別業種に行くことも考えにゃいかんかもしれん」
 軽自動車は公民館前のコンビニを通り過ぎた。
「どっか、行きたいとこ、ある?」雄一郎が尋ねた。
「いや、別に……」
 はたして雄一郎の母のことを、どのように聞き出したらよいものか、美咲は迷っていた。
「金田さんとこの居酒屋、知っとるじゃろ?」いきなり雄一郎が言った。
 美咲は数日前に金田の居酒屋の様子を見に行ったことを思い出した。ひとつ筋外れるのだが、その居酒屋は雄一郎宅の近所になる。
「うん。それがどうしたの?」
「この前、ちょっと店の前で一悶着あって。夜の八時くらいかなあ、何人かの怒鳴り声みたいなんがうちまで聞こえてきて、表に出てみたら、金田さんの店の前で、もめごとみたいなんが起こっとるんじゃ」
「なぜ? 何の理由で?」
「自治会で、夜七時以降は出歩かんよう自粛せいということになっとるじゃろ? じゃから、七時が来たら店は閉めいと、何人かが集まって抗議しとったみたいじゃ。店の前でずいぶんもめとったみたいで」
 この前の役員班長会議では、外出を自粛というのはあくまでも「要請」ということになっていた。しかし、たかが自治会とはいえ公的な決定がなされれば、それを金科玉条のごとく崇めて利用する者が現れる。
「金田さんは、補償もないのに店を閉めれるかいと言うとったけど、抗議しとる人のなかに、『お前のせいで集落でこれ以上、人が死んだらどうするんだ』みたいなことを言う人もおっての。しまいにゃ、『お前の店に出入りする客、全員ぶち殺してやる』みたいなことまで言い出す人もおって……、最終的には金田さんのほうが折れる形になったようじゃが、もう目も当てられんかったわい」
「何、それ。立派な脅迫と威力業務妨害じゃない。自治会で決定したのは、自粛したい人はしてくださいってことなのに、そんなの許されるはずがない。誰が言ったの、そんなこと?」
「それがの、金田さんとこの常連客だったような人も、抗議しとる連中に混じっとったんじゃ。つい最近までは店の大将と客という、良好な間柄じゃったのに、いきなり敵対するようになってしもうた。……でもいちばん激しく抗議しとったのは、集会所の近所にある美容院のお姉さんじゃったかな」
 集落に美容院はひとつしかない。
「酒本さんが?」
「そう、その人。俺も大将の店は好きで、こっち帰ってきてから何回かお邪魔させてもろうとった。年下の俺が上から目線でこういうのも違うんじゃが、大将はええ腕しとる。特に揚げもん、天ぷらの盛り合わせは、専門店で長年修行した人間でも敵わんもんがある。ほんで、店に行ったとき、何回か美容院のお姉さんも客で来とって、大将と仲良さそうにしゃべっとったんじゃが……、こんなことになってしまうんじゃな」
 役員班長会議では、酒本が強行に午後七時以降の外出自粛を主張していた。髪を切ってもらっているときの様子から想像もできないくらい、激しく感情を露わにしていた。
「金田さんとこの居酒屋、ご夫婦でお店やってるんだよね? やっていけるのかな」
「大将と奥さんと、ほんで近所に住んどる金田恵子さんの三人で店をやっとるみたいじゃ。カウンター席が八つで、四人座れる座敷がふたつだけの小さい店じゃから、もともとたくさん儲かるような店ではないようじゃったが、このところ飲食店は厳しい上に、さらにご近所から攻撃されたんじゃ、たまったもんじゃないじゃろうな。正直、難しいと思う。あんな腕のええ職人さん、なかなかおらんのに、もったいない」
 雄一郎は難しい顔をしている。
「そういや、金田恵子さんはだいぶ昔に旦那さんを亡くしているんだよね」
「ああ、そうみたいじゃ。旦那さんが亡くなったくらいに大将があそこで開業して、お店で働くようになったって」
「たぶん亡くなったときって、今の私たちとおんなじくらいの年齢でしょ。なんで亡くなったのかな」
「自殺」赤信号で停まっている車内で、雄一郎はあっさり言った。
「え?」
「だいぶ前やけど、オカンから聞いたことあるわい。ある日、家で首括って死んどったんじゃと」
 美咲は訝しく思った。母の敏子は、金田恵子の配偶者の死因を、「おぼえとらん」と一蹴した。義捐金を集める文書を作った当時の書記であった敏子が、自殺などという珍しい死因で亡くなったことをおぼえてないなど、有り得るのだろうか。
「たしか、みっちゃんのお父さんがおらんなったんも、同じ年じゃなかったかな。オカンがそんなこと言いよったような記憶がある」
 美咲は少しのあいだ思考が停まった。
 行方不明となった父、古瀬光俊について、美咲はほとんど何も知らない。失踪したのは美咲が三才もしくは四才だったので、直接の記憶はまったくない。父の姿を思い出して懐かしいなどと思ったり、父が不在で寂しいなどと思ったこともない。つまり、美咲にとって父とは、最初からいないも同然の存在なのだ。ただ、母の敏子が毎日、仏器に炊き立て飯を盛って供えて冥福を祈っている対象、美咲にとって古瀬光俊とはそれ以外の何者でもない。
 その存在について、雄一郎から語られるとは、まったく想定していなかったので、いったい何と反応していいのかわからなかった。
 もちろん美咲と同い年の雄一郎が、古瀬光俊について直接何かを知っているということはないだろう。雄一郎の母もしくはその付近の人物からの伝聞以上の情報は持っていないはずだ。
「ほいで、話って何じゃ?」雄一郎が言った。
 信号が青になったので、雄一郎は車を発進させて左折する。役所のある市の中心部が近づいてくる。かつてあった地場のデパートは何年も前に倒産しており、廃墟化した六階建ての建物が巨大な幽霊のような姿で佇んでいる。商店街の入り口のスクランブル交差点に、信号待ちをしている歩行者はほとんどない。
「うん、あの、実は」美咲は少し口ごもった。
 しかし勇気を出して続きを言う。
「あのね、ゆうちゃんのとこのお母さんが、公園の殺人の犯人が私だって思い込んでるって、ちょっと耳に挟んで……」
 ハンドルを握る雄一郎の顔が、これまで見たことないくらいに歪んで、
「みっちゃんとこまで、耳に入ってしもたか。すまん」と言った。
 雄一郎はしばらく黙っていたが、やがて、
「うちのオカン、何の根拠があるんか知らんけど、『公園の犯人は古瀬さんとこの子に違いない』みたいなことを言うんじゃ。そして、それに類することを、近所の人にも言うとるみたい。証拠もなしにそういうことを言うのはやめいと何度も言うたんじゃが、『ぜったい間違いない』みたいに言うて、ぜんぜん聞かんのじゃ」
「じゃあ、やっぱりゆうちゃんのお母さんが、私が犯人という説をばらまき出した張本人なのね?」
「そのとおり。申し訳ない」雄一郎はハンドルを握ったまま頭を下げた。
「あのね、知ってるかもしれないけど、大山田さんを吉岡さんが殺したのも、吉岡さんは公園の事件の犯人を大山田さんだと勝手に思い込んで、犯行に及んだみたいで……。もう住人どうしが疑心暗鬼になってる状態で、誰が誰を疑ってるか、蜘蛛の糸みたいに絡んでわからなくなってるから」
「まあ、俺も疑われとるんじゃろうな。無職の中年っていうだけでも十分不審者扱いされる世の中じゃのに、DVでバツイチとなりゃあ、立派な容疑者候補者じゃ」
 酒本から、雄一郎が犯人ではといううわさがあることも、美咲は聞いていた。
 しかし、自分の場合は警察にまで通報されている。近所でうわさが立っているというのとは、少し次元が異なる。
 美咲はためらいながらも、
「あのね、絶対内緒にしてほしいんだけど」
「なんじゃ?」
「ゆうちゃんのお母さん、『古瀬美咲が犯人だ』って、警察にまで通報したらしいのよ」
「えっ、オカンそんなことまでしとるんか?」大きな声で言う。
「うん、捜査本部の警察の人が直接教えに来てくれたんだ……。内緒の情報だからということで教えてもらったから、誰にも言わないでほしい。私が第二の大山田さんみたいにならないよう気を付けてくれって、注意しに来てくれたんだけどね」
「何考えとるんじゃ、うちのオカン……。みっちゃんを真犯人と思い込んで、みっちゃんに危害を加えるようなやつが出てきたら、洒落にならんぞ」
「うん。警察の人にも最近、集落全体がおかしくなってるって言ったら、パトカーでの巡回を増やしてくれるって。どこまで頼りになるかはわからないけど」
「えらいことになってきたなあ。はよ犯人捕まえてくれんと、どうにもならん」
 雄一郎の運転する車は、市街地を通り抜けて郊外に出た。ロードサイドには、広い駐車場のチェーンの洋服店や食品スーパーなどが、間をおきながら現れる。
「でも、なんでうちのオカンはみっちゃんを犯人呼ばわりするんじゃろ。こっち帰ってきてから、うちのオカンにはいっぺんも会うとらんのじゃろ?」
 美咲は首を縦に振った。
「それでね、ずっと思ってたんだけど、私ゆうちゃんのお母さんに昔からずっと嫌われていたような気がして……。今回みたいに変なうわさを流されるなんてことはなかったけど。何か理由があるのかなって思って。ゆうちゃん、心当たりない?」
 雄一郎はため息を吐いた。
「実は、俺も昔からそう思っとったんじゃ。特に、高校生になってから、俺ら付き合い始めたじゃろ? そのことがオカンに知られると、『あの子はやめときなさい』とか、『早く別れろ』とか、やたら言うてきての。まあ昔のことじゃけど、高校三年のころ、みっちゃんが俺と別れたいと言うたとき、お互いに進路先を真剣に考えにゃいかん時期じゃけん、みっちゃんの好きなようにしてもろうたんでええと思ったのもあったんじゃが、あんまりにもうちのオカンが”別れろ別れろ“と催促してくるんがうざかったという気持ちもあったんじゃ」
 美咲は当時のことを思い出した。恋人どうしの関係の終了を一方的に告げた美咲に対して、雄一郎はあまりにあっさりそれを承諾した。もしかして自分は本気では愛されていなかったのではないかと、返って胸が苦しくなったが、そういうことも背景にあったとは。
 かまわず雄一郎は続ける。
「でも、それ以前の小学校のころも、あんまりみっちゃんとは遊ぶな、みたいなことを言うたことは何度かあった。理由を聞いても教えてくれんかったけど」
 いったい、なぜ雄一郎の母である窪園光江は、そこまでして美咲を遠ざけようとしたのだろうか。
「知らないうちに、私何かゆうちゃんのお母さんに失礼なことしちゃったのかな?」
「いや、そんなことはないと思う。……けど、うちのオカン、みっちゃんを嫌っとるというより、みっちゃんのお母さんに対して何か思うことがあったんじゃないか。ふつう、同級生で家も近所なら親どうしもそれなりに交流もあるもんじゃろ」
 雄一郎は、同じ第二新光集落に住んでいた、同級生の男の子の名前を挙げた。その子は小学五年のときに引っ越したので、それからどうしているのかは二人とも知らないのだが。
「あいつの親とうちの親は、それなりに交流があったみたいじゃし、みっちゃんとこのお母さんも、あいつの親と仲良かったはずじゃろ? にも関わらず、うちのオカンとみっちゃんとこのお母さんが道端で立ち話をしよるようなとこは、一回も見たことがない。やっぱり、何かあるんじゃろ」
 しかし、いったい何があったのだろうか。古瀬敏子と窪園光江のあいだに、何らかのしこりがあったとして、聞いたら教えてもらえるようなものなのだろうか。そして、それが美咲に何の関係があるのか。
「うちのオカンが、本当に申し訳ない」雄一郎が再び言った。
「いや、ゆうちゃんが謝るようなことじゃないよ」
「これ以上みっちゃんが犯人じゃというデマを流すようじゃったら、オカンを叱りつけてやるわい」
 雄一郎の車は郊外を一周回って、海沿いの道を通り、そして第二新光集落への帰途についた。

 美咲の家の前に到着したのは、午前十一時を過ぎたところだった。
「ありがとう。ごめんね」と言って、雄一郎をねぎらう。
「いや、こっちこそ、なんかすまん」シートベルトを締めたまま、雄一郎が頭を下げた。
 そして軽自動車を発進させて去って行った。
 あらぬ疑いを美咲に掛けたということを、雄一郎はいかように母である窪園光江に問い詰めるのだろうか。そして、光江はいったい何を知っているのだろうか。何をやろうとしているのだろうか。何を隠しているのだろうか。
 門扉を通って家に入ろうと足を三歩進めたとき、遠くで何か騒ぎ声のようなものが発生しているのが聞こえてきた。ひとりふたりの声ではなく、集団のようで、その中には拡声器でがなり立てるようなものも混ざっている。
 選挙カーの雑音ようにも聞こえるが、国会はもちろん首長も地方議会も選挙はやっていない。
 門扉を出て声のするほうに歩いて行くと、だんだん何を言っているか聞こえてくるようになった。「出ていけ!」というシュプレヒコールのようなものが聞こえる。狭い道路の交差点の向こうで、それが行われているようだ。
 角を曲がると、一戸建ての敷地に入る門の前に二十人近くの人だかりができている。顔は見たことのある、集落のなかの人間に違いない七十代の男が手に拡声器を持って、「出ていけ!」と叫び、ほかの連中がそれに、「出ていけ!」と続く。
 玄関のドアには、「出ていけ、近隣住民より」とマジックで書かれた紙がたくさん貼り付けられていた。
 美咲は近寄って、いちばん後ろにいた五十代の女に、
「いったい、何があったんですか?」と尋ねた。
「ここの人、カルトなんよ」女は答えた。
 この家の表札には、「高崎」と書かれてある。
「あ……」思わず美咲は絶句した。
 少し前に、二班班長の高崎達子が、信仰する宗教のイタコ芸を根拠に回覧板の文書を回してほしいと無茶苦茶な要求をしていたことを思い出す。
 女は、おぞましい表情をしたまま、話を続けた。
「私たちも知らなかったんじゃけどね、高崎とこの夫婦、変な宗教団体の信者らしくてね。大山田さんが殺されたあたりから、ご近所に『一緒に被害者をご供養しましょう』とか言うて回っとったんよ。なんか知らんけど、気持ちの悪い男が降霊術をしよるみたいな、わけのわからん動画を見せてきてね」
 その動画は、美咲も見せられたものとおそらく同じものだろう。高崎の言う「ご供養」というのが何かはわからないが、あの後、高崎は近所にあの動画を見せて回って、自分の信じる宗教の教義を広めようとでもしたのだろうか。
 高崎はこれ以上集落で不幸が続かないように、という動機で動いたのだろうが、それが人に与える影響までは想像できなかったらしい。
「本当に、気持ちが悪い。近所にあんなんが住んどったことなんか、ぜんぜん知らんかった。あんなカルトをほったらかしにしとったら、きっととんでもないことをやらかすに違いない。じゃけん、班のみんなで相談して、一致団結して高崎を追い出すことにしたんよ。……ひょっとしたら最初の公園の殺人も、あいつがやったんじゃなかろうか。そうに違いない」
 出ていけ、出ていけというシュプレヒコールが続く。
「そんな……、何か証拠なり、法的根拠でもあるんですか?」
 あまりの剣幕に、美咲はそう言わずにはいられなかった。たしかに美咲も、意味のわからないイタコ芸を信じる高崎を気持ち悪いと思った。しかし、気持ち悪いことを理由に強制的に退去を迫っていいはずがない。高崎夫妻は、当然の権利としてこの家に住み続けることができるはずだ。
 気持ちの悪い相手に対しては、具体的な不法行為がない限り、気持ち悪がる以外のことはしてはならない。
「証拠なんか、いるかい。気持ちの悪いカルトのくせに、今まで涼しい顔してここで生活しとったことが、腹立たしい。さっさと追い出さにゃ、こっちが何されたもんやらわからん。これが正義じゃ」
 女はそう言って、出ていけ出ていけ、と叫び声を繰り返し発した。その表情は、まるで狂人のようだった。
 良くない何かが、流行病のように集落全体に蔓延している。

第六話


 美咲は覆面パトカーの後部座席に乗っている。
 午後から降り始めた雨は、霧雨と言っていいほどの弱いものだが、強い風にあおられて車のガラスにアレルギー反応を起こした皮膚のような水滴を付けていく。
 覆面パトカーの運転席には、以前にコンビニの駐車場で会った川本警部がおり、美咲の隣には制服を着た体格のいい男の警察官が座っている。その警察官は、おそらく五十代くらいで、頭髪の側部には短い白髪が針のように混ざっている。
「今日中に、帰れるんですよね?」美咲は運転している川本に問うた。
「ええ、もちろん。お手数おかけしまして申し訳ございません」川本が低い声で答える。
 窓の外を流れる景色を眺めながら、ここ数日のうちに起こった出来事を思い返した。

 集落内でさらに人が死んだことに対して、美咲は違和感を持たなかった。そんな予感がしていた。
 美容院経営の酒本の遺体が発見されたのは、雄一郎に会った日の翌々日だった。
 夕方、出先から帰ってきた酒本の父母が、血まみれになって美容院の椅子にもたれかかっている酒本の姿を発見した。腹部や頭部を合計十五か所刺されており、美容院の床は血の海状態になっていた。
 すぐに救急と警察に通報し、間もなくパトカーと救急車がやってきたのだが、酒本がすでに息絶えていることは誰の目にも明らかだった。
 美容院の隣家に住む主婦が、午後四時くらいに言い争う女の声を聞いたと証言した。
 第二新光集落で、三件目の殺人事件となる。二件目の大山田の殺人はすにで解決済みだが、一件目の公園での殺人事件は未だに解決していない。
 住人の懸念にも関わらず、犯行の翌日にあっさりと酒本殺害の容疑者は逮捕された。
 犯人は、自治会三班班長の金田恵子、六十歳だった。酒本の美容院から道路に続く足跡が、わずかに血痕を伴って残っており、それが早期に犯人逮捕の決め手となった。
「私たちの生きる手段を奪われたのが許せなかった」金田恵子は動機をそう語った。
 金田恵子の証言するとおり、金田一基の店に警察が捜索に入ると、金田夫婦が首を吊った姿で発見された。
 事件当日、金田恵子は金田一基と連絡が取れないことを不思議に思い、店舗兼住居に行ってみると、
「店の営業を停止しては生きていけません。住人の皆さんにご迷惑をおかけしました」という内容の遺書を発見した。
 衝動的な怒りに駆られて、役員班長会議で強烈に外出自粛を唱えていた酒本を殺害を決意したという。
 春先より金田一基の居酒屋は急激に売り上げを減らしており、仕入れ先への支払いや銀行借入金の返済を滞らせていたが、近隣住人による店の営業に対する圧力を受けて閉店を余儀なくされたことが、金田夫妻の心中を決定的にしたようだった。
 しかし、警察の取り調べが進むにつれ、金田恵子はさらに別件の犯罪を自白した。
 自白した内容に従って、金田恵子に家の庭を掘り起こしたところ、白骨化した遺体が発見された。
 いったい、これは何なのか。
 殺人事件が相次ぎ、居酒屋経営をする夫妻が自殺し、さらに殺人犯の庭から身元不明の遺体が発見されたという事件が、世間の耳目を集めないはずがない。集落内には、週刊誌の記者らしい人間が頻繁にやってくるようになり、美咲の家にも何社か取材にやってきた。

「死屍累々、呪いの住宅街」

 あるゴシップ週刊誌は、第二新光集落をそう表現し、誰も聞いたことがないようなこの近辺に伝わるという説話を紹介していた。
 緊急の役員班長会議が開かれ、これ以上の被害拡大を防止するために、夜間の外出自粛要請だけなく、職場への移動と日用品の買い物、そして緊急時のやむを得ない場合を除いて外出を全面的に禁止する、そして役員の見回りを強化するという案が出された。同時に、住人はテレビや週刊誌などのメディアの取材を受けることは禁止する、という案も出された。
 両案とも、八班班長福井以外の全員の賛成により、可決された。


 警察署に到着し、美咲が覆面パトカーを下りると、川本も運転席から出てきた。そして、
「あっちに停めといて」と後部座席に乗っていた男性警察官に指示を出した。
 雨はまだ降っている。頬に水滴が当たって弾ける。風はさらに強くなったようだ。
「こちらにいらしてください」
 そう言って警察署の入り口に向かう川本の後を、美咲は付いて行った。
 警察署に入ると、すぐ正面がエレベーターになっており、川本はボタンを押してその扉を開けた。
 狭いエレベーターのなかに入ると、
「刑事課は四階になってますので」と言った。
 警察署の刑事課など、一度も行ったことがない。さすがに緊張する。エレベーターのボタンのすぐ横に、各階の案内表示のような小さなプレートがあり、

一階 交通課
二階 警務課・署長室
三階 警備課・講堂
四階 刑事課
五階 生安課・武道場

 と書いてある。
 警察署だから、きっとこの建物のなかのどこかに留置所がある。美咲はなぜか留置所は地下室にあるという勝手なイメージがあったので、警察署に地下階がないことを少し不思議に思った。
「あの、逮捕された𠮷岡さんや金田さんは、こっちの牢屋にいるんですか?」美咲は川本にたずねた。
 川本は少しのあいだ考えるようなしぐさをして、
「いえ、もう両被疑者とも送検してますので、ここには居ません。移送されてなければ、今は市内の拘置支所にいるんじゃないでしょうか。拘置所の支所ですね」と答えた。
 拘置所と刑務所が県庁所在地のはずれにあるのは知っていたが、市内にその支所があることは知らなかった。
 エレベーターが四階に到着し、扉が左右に開く。
 目の前は広い空間になっており、ふつうの事務机がいくつも並んでいる。一見するとふつうのオフィスのようだが、天井から「刑事二係」や「組織犯罪対策係」というあまり見ない単語の看板がぶら下がっている。
 人は少なく、特に「強行班係」という看板の下には、ひとりも人がいなかった。
 エレベーターから右に曲がり、細く伸びた廊下を、川本に着いて歩き、「応接室」という表示の出ている扉の前までやってきた。
 そのとき、背後から、
「川本警部」という男の声が聞こえてきた。
 三十代のスーツを着た男が、こちらに駆け寄ってくる。
 そして、男は「ちょっと……」と言いながら川本の耳に顔を寄せ、小声で何かを言った。
「それ、本当?」聞いた川本が顔色を変えた。
「はい。間違いないです。とにかく至急、捜査本部まで来てください」
 川本が肯くと、男は美咲の姿をちらりと見ただけで、去って行った。
 川本が応接室の扉が開けて、中に美咲を導く。
 そして、
「すみません。たいへん恐縮ですが、なるべく早く帰ってくるので少しお待ちください」
 美咲を部屋にひとり残し、やや乱暴に扉が閉じられた。
 何かが起こったらしい。
 どうすることもできないので、美咲は黒い革製のソファに座った。
 磨りガラスの窓の外から、細かい雨が斜めに振り付けている。応接室とはいうものの、四畳くらいの狭い空間に、ソファと安っぽい木製のテーブルがあるだけで、絵画や花瓶など部屋を飾るものは一切ない。まるでドラマで見る取調室のようだった。
 部屋に灰皿はないので、禁煙なのだろう。タバコとライターをポケットに突っ込んで持ってきてはいるものの、吸えるのはしばらく先になりそうだ。
 美咲はスマホを取り出して、ブラウザを起動させた。

 十五分ほど経過して、ようやく川本が応接室に戻ってきた。
 扉を開けて、美咲を見下す格好になった川本は、なぜか少し苛立っているように見えた。川本の後ろには、五十代くらいの男が立っている。
 二人は部屋に入ってきた。
「申し訳ございません、お待たせしました。でも本題に入る前に、古瀬さんにはお知らせしておくべきだと思います」
「なんですか」
 川本は美咲の真正面に座った。
「第二新光集落の公園で亡くなっていた方の死因が、自殺であることがほぼ確定しました」
 とっさのことなので、一切が理解できない。
 自殺……? 殺人事件の被害者が、自殺などするはずがない。川本は何を言っているのだろう。
「それは……、どういうことですか?」
「公園で亡くなられていた方は、京都で一人暮らしをしていた二十一歳の大学生だそうです。滋賀に住むご両親が、息子と連絡取れないことを不審に思い、一週間ほど前にアパートを訪ねたところ、遺書があった、と。『少し旅に出て、その後どこかで死にます』というようなことが書いてあったそうです。行方不明人の捜索として、こちらにも顔写真が回ってきたんですが、その写真が公園で発見された遺体に似ていたため、ご家族にこちらで見つかった遺体の写真を送って確認していただきました。胸と首筋に特徴的なホクロがあったため、こちらで発見された遺体はその方でほぼ間違いないようです」
「遺書があったって、どういうことですか? わかりません。なんでそんなことになるんですか?」
「つまり、殺人の被害者ではなく、ただの自殺だったようです」
 ようやく、公園で発見されたその京都の大学生の死体を、殺人の被害者として警察が誤認していたのだということ、脳がじわじわと理解していく。
「そんな、今さら……。おかしくないですか。警察は、自殺か他殺かの区別もできないんですか?」しぜんと責めるような強い口調になった。
「当日の未明は雨だったため、通常は発見される犯人の下足痕なども見つかりませんでしたし、ご遺体にも自殺の場合には多く残るためらい傷が首にも腹にも残っておらず、傷も自殺ではありえないくらい深いものだったので、殺人の可能性が高いという検死結果が出たのです。そうである以上、こちらとしては殺人を前提として捜査するのが妥当と判断しました」
 まるで全身の骨が一気に液状化したように、脱力する。
「それじゃ、公園の殺人事件なんて、最初から存在しなかったということなんですか?」
「そういうことになります」
 いったい、これは何の騒ぎだったのだろう。
 全てが無駄だった。全てが徒労だった。
 集落全体が、見ず知らずの若い男の自殺に振り回され、存在しない殺人犯の影におびえて、住人どうしが警戒し合い、疑い合い、侵害し合い、そして殺し合いさえした。人間とは、なんと愚かな存在なのだろう。大げさだが、そんなことさえ思ってしまう。
 そして、このようなことになったのは、回覧板で必要のない注意喚起を煽る文書を作成した自分にも、責任の一端がある。
 腹の底から酸っぱい液が、喉元までせり上がってくる。
「何にせよ、殺人事件でなかったと判明したことは、社会にとっては良いことです」川本が言った。
 その通りなのだろう。
 しかし、それが判明するまでに払った無駄な犠牲が、あまりに大きすぎる。こんな事態を引き起こすことになった憎むべき人殺しが居てくれていたほうが、まだ救われた気持ちになれたのではないだろうか。
「それでは、すぐに済みますので、ご協力をお願いします」
 川本がそう言うと、一緒に部屋に入ってきた男が、プラスチックのケースを開けた。そして、プラスチック製の細長い棒状のものを取り出した。その棒の先の、ボールペンのキャップのような蓋を取り、男はそれを美咲に差し出してきた。
 美咲はそれを受け取った。綿棒が付いている。
「これで、頬っぺたの内側を何回か擦ってください」
 言われたとおりにする。三十秒ほど、口のなかで綿棒を往復させたところで、
「もう大丈夫です。ありがとうございます」
 男がそう言ったので、美咲は綿棒を口から出して男に手渡した。
「どうも、ありがとうございます。ご自宅までお送りします」
 川本がそう言って、美咲に立つよう促した。美咲はそれに抗って、
「あの、結果って何日くらいでわかるんですか?」と尋ねた。
「何日もはかかりません。たぶん、四時間くらい?」
 川本が男に顔を向けると、男は小さくうなずいた。
 スマホの時計を見てみると、まだ午後一時を過ぎたところだった。
「それじゃ、ここで待たせてもらえませんか」美咲は訴えた。
「ここで?」川本は意外そうな顔をする。
「はい。私、少しでも早く結果が知りたいんです。ご迷惑じゃなければ、待たせてください」
「それはかまいませんけど……。それじゃ、一階の運転免許更新の待合室にいらっしゃったらどうでしょうか。あそこなら、暇つぶし用の雑誌や書籍などもありますし。交通課のほうには、私のほうから連絡しておきます」
 川本に案内されてやってきた交通課の待合室は、壁に囲まれてはいるものの出入口にドアの付いていない空間になっている。四人ほど座れる横長の椅子が六つ並んでいて、出入口すぐそばの木製マガジンラックにはファッション雑誌や月刊誌、今日付けの地方新聞と交通安全啓蒙のための小冊子などがある。子供連れで免許更新にきた人のためか、パトカーや白バイなどの小さな模型も、マガジンラックのそばに置いてあった。
 美咲は小難しいことが書いてある月刊誌を手に取って、椅子に座った。月刊誌の目次を見ると、新型ウイルスに対処できない政府を糾弾するような見出しが、びっしりと並んでいる。
 待合室は平日の昼間なのに、人の出入りが頻繁にある。そのほとんどは高齢者と言っていい年齢の人たちだった。部屋に入ってくる人は、みんな手にラミネート加工されたハガキほどの大きさの番号札を持っており、椅子の前の大型ディスプレイにその番号が表示されれば、更新の次の手続きに移行するようになっているらしかった。
 聞き耳を立てていたわけではないが、外から「免許返納の手続きはどこですか?」という、ゆっくりとした老人の声が聞こえてきた。


 三時間半が経過した。喫煙所がどこにあるのかわからないので、その間、三度外にタバコを吸いにいった。
 待合室の新聞や雑誌はすでに読み尽くしてしまったので、子供向けの「こうつうあんぜんのために」という絵本を開いてみた。
 お巡りさんの格好をした人と、犬や猫やライオンのキャラクターが描いてあり、「しんごうのみかた」と書いてある。その次のページをめくってみると、「おうだんほどうのわたりかた」となっていた。
 何をしているというわけではないが、ずいぶんと疲労を感じる。やはりいったん家に帰ったほうが良かったのではないか、と少し後悔したが、今さら帰るので家まで送ってくれとは言えない。
 ぼんやりと絵本を眺めていると、美咲のすぐ横に誰か座り、
「こんにちは」そう声をかけてきた。
 ほかの席も空いているのに、なぜわざわざ横に座るのだろうか。美咲は顔を上げて、横を見る。
 その若い女が、第二新光集落八班班長の福井優里亜であると気づくまで、数秒を要した。もちろん何度も役員班長会議で顔を合わせているのだが、美咲は福井についてほとんど何も知らない。喋ったことも、おそらく皆無だろう。住んでいる区画についてはだいたいの場所はわかるが、どんな世帯で誰と住んでいるのか。まさか若い女がこんな地方の一戸建てに一人暮らしということはないとは思うが。
「古瀬さんも、免許の更新ですか?」福井が言った。
「いえ、ちょっとほかのところに用事があって……」
「そうですか」
 福井はそう言っただけで、それ以上は訊いてこなかった。
 そういえば、免許の期限が切れるのはいつだったか。ペーパードライバーの美咲は、ゴールドの免許証を身分証面書として使うばかりなので、ふだんまったく意識しない。今年かもしれないし、来年かもしれない。
 美咲の誕生日は来月。期限が今年だったら、住民票は東京に置いたままにしているので、交通安全協会から免許更新のお知らせは東京のアパートに届いているはず。とにかく、遠からず一度東京に帰らなければならないだろう。
 美咲は福井の姿を、初めて近くでまじまじと見た。少女のような若々しさと湛えていながら、細面の顔は美人の要素も強く持っている。ショートカットの黒髪は一度も染めたことがないように、深く黒い。真っ白な肌はきめ細かく、頬や目尻にしみもしわも一切ない。まるでフランス人形と日本人形のいいところだけを合わせたようだ。
 福井は横長の財布を手に持ち、一緒に㊺と書かれた札を持っている。
「あの、福井さん。実は……」
 告げるべきかどうか迷ったが、当然福井も遠からず知ることになるだろう。そう思って美咲は、公園で見つかった遺体が、実は殺人事件ではなく自殺だったということを、福井に説明した。言いながら、美咲は何度もため息を吐きそうになった。
「そうだったんですね」
 聞き終わった福井は、たいして興味もなさげな様子で、そう言ったきりだった。
 その反応があまりに自分と対照的だったため、美咲は唖然としてしまった。集落内で無駄に人が死んだというのに、たったそれだけなのか。
 福井は役員班長会議で、防犯カメラの設置や外出自粛要請について、異議を申し立て、一貫して反対していた。あのとき、福井がもう少し外出自粛要請に強く反対していれば、居酒屋経営の金田夫妻や、酒本は死なずに済んだかもしれないのに。自分もその会議の場にいたにも関わらず、美咲は都合よくそんなことを思う。
「福井さんは、少し前の役員班長会議で、自治会は不要じゃないかというようなことを言ってましたよね? あれはいったい、どういう意図だったんですか?」美咲は尋ねた。
 現に役員や班長の務めを果たしている年輩者を前に、よくも堂々とあんなことを言えたもんだとあのときは思ったが、美咲も今となっては同じことを思う。
「そもそも、統治は可能だったんでしょうか」福井は真っ直ぐ前を向いたまま、そう言った。
「トウチ?」
 予期しない答えが帰ってきたため、美咲は少し混乱する。
「統《す》べる、治《おさ》めると書いて統治です。英語で言うと、ガバナンス」
 ようやく頭のなかで、「トウチ」を漢字に変換できた。
 統治。ふだん使うことのない単語。それは強烈に権力のにおいを帯びていて、危険な印象を人に与える。
「今年の四月から、班長になって会議に出席してましたけど、それでずっと思っていたのが、この自治会は紛い物だ、ということです」
「紛い物……、それ、どういうことですか?」
「自治会っていうのは、集落のなかでの出来事を、住人で運用していくという営みなんでしょう。だから、役員や班長を選んで、重要なことは全員参加の総会で話し合って決める、という」
「ええ、そうだと思います」
「そもそも、住人のなかに地域を良くしたいと思っている人が、どれくらい居るんでしょう。良くするために何かを決めて、その意思決定に参加したいと思ってる人が、一人でもいるんでしょうか。自治会なんて、ただ単に面倒ごとを押し付け合う場じゃないですか」
 年に一度のくじ引きで、役員や班長に選ばれれば誰もが残念な思いをする。今の役員も、事故にでも遭ったと諦めて、しぶしぶ役目を果たしているに過ぎない。
 福井は続けた。
「自分たちのことは自分たちで決める。人民が自分たちで自分たちを支配する。非常に素晴らしいものです。でも、民主的な枠組みだけを作って多数決で物事を決めても、それは実現しません。人民に、統治する者としての覚悟と、統治される者としての責任がなければ、意思決定の場は、負担の押し付け合いと、利権の分配と、権利の侵害と、責任逃れと、見栄の張り合いと、そして足の引っ張り合いに終始することになるでしょう。『自粛を要請』などという、たった五文字で矛盾するグロテスクな日本語を何の疑問も覚えず発する人間に、権力を正しく使うことは不可能です。そんなの、単なる民主政治ごっこじゃないですか。間違った道を正しく歩み、そして必然としてこのような悲劇が起こったんです。違いますか?」
 目の前の大型ディスプレイが、玄関チャイムのような効果音と共に㊺の番号を表示させた。と同時に、「四十五番の札をお持ちの方、写真撮影室にお越しください」というアナウンスが流れる。
 福井は立ち上がった。
「それでは、またお会いしましょう」
 その場に美咲を置き去りにして、福井は交通課の奥にある写真撮影室に向かう。美咲はその背中を見送ることしかできなかった。
 自治会に限らない。複数の人が集って集団ができあがれば、誰かが何かを決めなければならない。そして現に、誰かが何かを決めている。その誰かとは、いったい誰なのか。得体の知れない魔物に、私たちは支配されている。
 目線を手元の絵本に落とし、しばらくすると、人が近づいてくる気配があった。
「古瀬さん、お待たせしました。刑事課までお越し願います」
 川本警部だった。
 美咲は立ち上がって、川本の後を着いて行く。エレベーターに入り、川本が四階のボタンを押した。
「あの、結果出たんですよね? どうだったんですか」
 美咲がそう尋ねると、川本は一度息を飲んだ。
「DNA鑑定の結果、金田恵子宅の庭から発見された遺体は、あなたのお父様、古瀬光俊さんのもので間違いありません」


 覆面パトカーに乗せられて帰宅し、リビングに入ると、敏子は台所にいた。リビングの明かりは点いておらず、台所の蛍光灯が食器棚のガラスを隔ててこちらに届く。
 敏子が金属製のザルのなかでコメを研いでいる音が聞こえる。
「ただいま」
 美咲がそう言っても、敏子は返事をしなかった。ただコメを研ぐ音だけが響き続ける。
 やがて敏子は、コメをザルから釜に移して炊飯器をセットした。
 そして振り返り、美咲の目を見て、
「おかえり」と言った。
「金田さんの庭から出てきた骨、お父さんのだったって」美咲は力なく言った。
 自分で発した「お父さん」という単語が、空疎に感じる。物心ついたときから父の存在を認識しなかった美咲にとって、その単語は自分の父のことを指す言葉ではなく、遠くの誰かを意味する一般名詞でしかなかった。
「そう」敏子はそう答えたっきり、黙り込んだ。
「何が、あったの? 三十年前に」
「もう、だいたい知っとるんじゃろ?」
「ちゃんと、教えてほしい」
 敏子は急須に茶葉を入れ、ポットのお湯を注いだ。そして、湯飲みを手に取ると、ゆっくりとしゃべり始めた。

※※※

 三十年前、美咲が保育園の通い出した年。
 第二新光集落は開発後まだ間もなく、売り出しが開始しても買い手が付いていない土地もいくつかあり、集落としては若く完成途上の状態だった。
 敏子は恵子とは学生時代からの知り合いで、恵子が先に結婚してからは少し疎遠になったものの、敏子が結婚して専業主婦になってからは、再びよく会うようになった。最初は両家族とも市役所から三キロほど離れた借家に住んでいたが、新しく売りに出された第二新光集落に一緒に土地を買って近所に住もう、そう持ち掛けたのは敏子のほうだった。
 その年の三月末、くじ引きで、翌年度の自治会役員の書記に敏子が選ばれた。そして、四班班長には恵子の家が選ばれた。
 当時は、男が働きに出て女が家を守る核家族の家庭が多く、必然的に自治会の役員を引き受けて実際にその役目を果たすのは、専業主婦の女性ばかりになっていた。そして、役員班長会議は、子供が学校や保育園に行っているあいだの平日昼過ぎや夕方に開催されることが多かった。
 役員も班長も、三十代から四十代の主婦の女が務めるなか、唯一の例外が恵子の配偶者の金田幸助だった。幸助は繁華街の夜の店の店員として、夕方からの勤務だったため、恵子ではなく幸助が班長の役を引き受けていた。
 幸助は当時の言葉でいう、いわゆる伊達男で、金田恵子と結婚後もあちこちで女遊びを繰り返していた。
 そんな幸助が、女ばかりがいる自治会の役員班長会議に出て、悪さをしないわけがなかった。
 最初に毒牙に掛かったのは、副会長の窪園光江だった。四月から新年度の自治会が始まったが、五月にはすでに幸助と光江は関係を開始していたらしい。自治会の役員班長のなかでも、二人を疑っているものは少なくなかった。
 間もなく、ふたりの不倫が一部に露呈することとなり、関係は解消された。光江の配偶者と金田幸助が、どのように話を付けたのかはわからない。光江の配偶者が不問に付したか、そもそも気付いていなかったのかもしれない。

 幸助が次のターゲットとしたのが、自治会書記の敏子だった。
 六月中旬、蒸し暑い雨の日の昼間、美咲を保育園に送り出して数時間したころに、敏子の家にいきなり傘を差した幸助が現れた。「回覧板のことで、ちょっと聞きたいことがある」ということだった。敏子は真新しい家のリビングに幸助を招き入れた。
 そして、氷の入った麦茶を出した。
 当時の回覧板は、書記である敏子の手書きの文書を、公民館のコピー機でコピーを取ってバインダーに挟むという形になっていた。
 やってきた幸助は、その月の定期回覧板を持ってやってきて、市内の商店街組合が主催する花火大会への募金募集の方法について、敏子に質問した。
 話が終わり、軽く雑談していると、幸助が急に敏子に襲い掛かってきた。その瞬間、敏子は幸助が最初から性的な目的でこの家を訪問してきたことを悟ったが、すでに遅かった。敏子は幸助に首を絞められ、性行為を強制された。
 その日、夕方に保育園のバスに乗って美咲が帰ってくるまで、敏子は放心状態で過ごした。金田幸助が去る際に、「誰にも言うんじゃねえぞ」みたいなことを言った記憶だけはあった。
 敏子は、幸助に犯されたことを、誰にも告げられなかった。幸助の配偶者で、旧知の間柄である恵子には、美咲より五歳年上と四歳年上のふたりの子供がいる。被害を受けたことを告発すれば、幸助の家庭は一気に崩壊するだろう。警察沙汰にもなる。
 そうなれば、もちろん近所の知るところになるだろう。
 配偶者である古瀬光俊にも相談できなかった。もしこれが原因となって、光俊との関係がギクシャクし始めたら、どうすればよいのか。建てて間もない家のローンは、まだ三十年以上残っている。
 敏子は自分の受けた被害を、悪い夢を見たものと思って、やり過ごすことにした。
 しかし、幸助は敏子が黙過したことを別の意味に捉えたのか、その日以降、美咲が保育園に行っている昼間に、不定期的に敏子の家を訪れるようになり、強引に性行為を求めるようになった。
 そういうことが、三度、四度と重っていくうちに、不思議なもので、なぜか敏子は幸助に好意を持つようになった。配偶者である誠実で穏和な古瀬光俊にはない魅力を、幸助に感じた。
 そして、美咲の夏休みが終わって、九月になるころには、敏子から幸助を誘うほどに積極的になっていた。週に二度くらいの頻度で、人目の少ないところで落ち合い、郊外にあるラブホテルに行く。そんなふうに密会を繰り返した。
 当然のことながら、間もなく二人が不倫しているということは露見することになる。複数人の共通の知人に知られ、そのうちの誰かが恵子に密告したようだった。もちろん、光俊にも通知された。
 十月初旬の平日のある日、金田幸助宅に於いて、金田幸助・恵子と古瀬光俊・敏子が顔を合わせて、この問題をどう決着するかという話し合いが為されることになった。不倫されたのは光俊と恵子であり、不倫したのは幸助と敏子。その日、光俊は会社を休んだ。敏子は死刑執行されるような気分で、幸助宅へ向かった。
 話し合いは最初は、怒りと失望と後悔に包まれながらも、表面的には穏やかな雰囲気で進められた。
 しかし、幸助と敏子が関係を持つに至って経緯を光俊が知ると、光俊は激昂し、声を荒げて幸助を批難した。やがて両者立ち上がって、取っ組み合いになる。
 幸助が、襟元をつかんでいる光俊を離そうとし、後頭部から首を腕で抱えるような姿勢となった。
 恵子と敏子がふたりを引き離そうと、間に入っているうちに、誰かの足が幸助の足に絡まって、幸助はその姿勢のまま畳の上に倒れた。
 畳に身体を叩きつけられた光俊が、何かうめき声を発した。幸助が首に掛けていた腕を離すと、光俊は身体を細かく痙攣させて、目を見開いたまま動かなくなった。
 光俊の頭部はあらぬ方向を向いており、頚椎が折れているのは明かだった。そして、すでに絶命していることも。
 それからどれくらい時間が経ったのはわからない、一瞬だったような気もするし、永遠のように長かったようにも思う。ひとしきり悲鳴を上げ、ようやく少しだけ思考の戻った敏子は、死体となった光俊を前にただ呆然としている幸助と、ただ震えているだけの恵子の姿を見た。
 このままでは、生きていけなくなる。
 敏子は、まずそう思った。光俊を殺したのは、幸助ということになるのだろう。しかし、どのような事情であれ、不倫したあげくに旦那を死なせてしまったとなれば、犯罪者となることは免れても、世間から後ろ指をさされることは避けられない。そんな状態で、女ひとりが幼い子供を抱えて生きていける希望はない。
 恵子が固定電話の受話器を上げて、どこかに電話しようとしている恵子の手を押さえた。
 光俊の死を隠蔽しよう。誰が言い出したのかはわからない。
 不倫して旦那を死なせた不義の女という扱いを受ける敏子、殺人もしくは傷害致死の犯人になる幸助、そして犯罪者になった旦那と離れて子供二人を一人で育てていかなければならない恵子。
 光俊の死を隠蔽しさえすれば、三人全員、そんな不幸な境遇から脱することが可能になる。
 悪魔の所行を為すことを、三人は合意した。
 日付が変わって子供が寝静まった夜中、三人は大型のスコップを持って金田幸助宅の庭に大きな穴を掘った。
 まだ第二新光集落の土地は分譲受付の最中だったので、幸助宅は隣も向かいもはす向かいも更地のままだった。
 誰にも気づかれることなく、朝を待つまでもなく作業を終えた。

 警察に捜索願いを出さなければならない。光俊が行方不明になったことは、いずれ近所に知れ渡ることになる。探す努力を何もしないわけにはいかない。
 緊張しながら警察署に行くと、少し待たされた後に個室に通された。現れた警察官に、十月のある日に配偶者が突然失踪したと告げた。
 警察は、敏子が拍子抜けするほど、古瀬光俊の失踪には関心を示さなかった。「家庭内で少しトラブルがあった」と告げ、事実のうちの一部を述べると、事件性はなく単なる家出でしかないと判断したようだった。金田恵子と金田幸助に簡単な事実関係の聴取をした以外は、ほとんど何もしなかった。連絡もなかった。
 七年。最低でも七年は隠し通さなければならない。七年経てば、裁判所により失踪宣告が出される。そうなれば、団体信用生命保険に入っている家のローンの残債は、全額免除となる。
 敏子は保育園に、美咲の延長保育を申請し、再び生保レディとして働くことにした。
 ローンの返済しながらの生活は決して楽ではなかったが、光俊の両親、つまり敏子の義両親の支援も受けながら、なんとか続けた。義両親はむしろ、美咲という子供がいながら失踪した息子の行動を批難し、敏子に同情的だった。
「うちのバカ息子が、勝手におらんようになって、すみません。ご迷惑をおかけします」
 光俊の母は何度も敏子にそう言って頭を下げた。敏子は自らの死にも等しいような苦しみを感じた。

 死体を庭に埋めて以降、金田幸助はすっかり人が変わってしまった。
 快活で、結婚後も女遊びを控えなかった幸助だったが、人を殺して、しかもその死体が庭に埋まっているという事実が重く圧し掛かったのだろう。仕事にはきちんと行っているのだが、急激に痩せ細っていき、喋ることも少なくなっていた。
 夜中にうなされて目を覚ましたり、いきなり奇声を発して何かに怯えるようにもなった。「すみません、すみません」と繰り返しながら、いきなりスコップで庭を掘り返し始めたこともあった。恵子はそれを必死で止めた。やがて幻覚を見るようになり、「オバケが出た。殺される」頻繁にそんなことを口にするようになった。
 そしてその年の十一月の初旬、金田幸助は自宅で首を吊って自殺した。
 遺書には、恵子と二人の子供に宛てに、ひたすら詫びる文章が書かれてあった。
 金田幸助の自殺を受けて、緊急の役員班長会議が開かれた。敏子は外回りの営業から抜け出して、会議に参加した。
「皆さまご存知のとおり、金田幸助さんがお亡くなりになりました。まだお子さんも小さく、未亡人となった金田恵子さんの苦しみを思うと、胸が張り裂けそうになります。ここはひとつ、金田恵子さんに対するささやかな支援として、自治会で募金を集めようと思いますが、いかがでしょうか」
 当時の自治会長がそういうと、役員班長が一同に「異議なし」と言った。
 その日、敏子は家に帰ってから、回覧板の文書を作成した。
「金田幸助さんの奥様である恵子さまに、お悔やみ申し上げます」
 光俊の死だけではなく、幸助の死にも、自分に責任がある。そんな自分がこのような文書を書くなど、なんと罰当たりで恥知らずなことだろうか。
 敏子は震える手を押さえて、募金を集める内容の文書を何とか書き上げた。

 恵子は当然、母子家庭となったからと言って引っ越すことなどできない。庭には死体が埋まっているのだ。仮に引っ越したとしても、幸助から相続した家と建物を、誰かに売却したり借家に出したりはできない。
 しかし、高卒後に三年だけ商店街の花屋に勤務して、間もなく幸助と結婚した恵子には、二人の子供を養っていくぶんを稼ぐ技術や資格などはない。そんな女が職を求めても、時給六百円にも満たない仕事しか得られない。
 恵子はなんとかして、稼ぐ先を作らなければならなかった。そこで思いついたのが、料理屋で板前の修業をしながら、自分の店舗開業を図っていた縁戚の金田一基に店を持たせて、自分もそこで働くというものだった。恵子は一基に、まだ販売先の決まっていない第二新光集落の土地に店舗兼住宅を建てないかと持ち掛けた。
 一基は最初は、立地が市の中心地から離れているということで渋っていたが、第一・第二新光集落には酒を飲むところはもちろん、飲食店もまったくなかったため、むしろ返って良いのではないかという恵子の説得を受け入れた。
 恵子は一基の店の開業資金として、手元に残っていた幸助の生命保険金を充てて、足らないぶんは一基が国民生活金融公庫からの融資を受け、店を開くことが叶った。もちろん恵子も連帯保証人になった。
 開店した居酒屋は近隣住民から評判で、大繁盛とは言えないが、想定していたよりもたくさんの客が入った。こうして恵子は、糧を得ることに成功した。
 以降、敏子は恵子と連絡は一切取らなかった。
 知り合いでも何でもない、ただ同じ集落に住んでいる人というそぶりを続けた。
 敏子は恵子と違って、この集落に住み続けなければならない桎梏《しっこく》はなかったのだが、母子ふたりで住むには広すぎる一戸建てを離れることはできなかった。
 近くに住み続けるということで、敏子と恵子は、互いに監視し合っていたのかもしれない。

※※※

 リビングは静まり返り、空気が対流するかすかな音でも聞こえてきそうなほどだった。
 そこまで話し終わると、敏子は長い息を吐いた。話し始めるときと比べて、一気に老けたような表情になった。
 だいたいのことは警察署で川本から聞いていたが、実際に敏子から聞かされると、腐臭を感じるほどの現実感があった。
「ゆうちゃんとこの……、窪園さんのお母さんとは、何があったの?」美咲は問う。
 敏子はしばらく沈黙していたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「幸助さんが自殺した後、私らを強請ってきたんじゃ」
 強請ってきた……、いったいどういうことだろうか。
「私らって、誰のことなの?」
「もともと幸助さんと関係があった窪園光江さんは、光俊さんが失踪して、その後に幸助さんが自殺したことは、私らが何かを関わっとるじゃろうと、鎌をかけてきた。『警察に通報されたくなかったら、お金を出せ』と言うてきた。……実際にはどこまで知っとったんかは、わからん。でも、何かは勘付いとった」
「それで、ゆうちゃんのお母さんに、口止め料としてお金出したの?」
「二百万円。恵子ちゃんが、下りたばかりの幸助さんの生命保険金の中から出して、後から私が半分返した」
 ようやく、美咲は雄一郎の母親が美咲を遠ざけようとした理由を発見した。窪園光江にしてみれば、むかし強請った相手の娘が自分の息子と仲良くするというのは、胸中に複雑なものがあったことだろう。まして二人が恋人どうしとなり、もし結婚するとでも言い出せば、強請りの被害者と加害者が義理の家族になってしまう。
 そして今年、東京から帰ってきた美咲が再び雄一郎と接触したということを知ると、ちょうどよいタイミングで発生した殺人事件を利用し、美咲が真犯人であるという噂を積極的に広めて、この集落の中に居られなくしようと企んでいたに違いない。
「……お父さんの保険金はいくらだったの? 失踪宣告が出たあと、保険金下りたんでしょ?」
 美咲がそう尋ねると、敏子は驚いた表情をして顔を上げた。
「五千万円。私が独身のころ生保で働いとるときに、掛け捨ての定期保険に義理で入ってもろうて、それをずっと続けとった」
 七年、古瀬光俊の死を隠し続けることに成功すれば、住宅ローンの残債が団体信用生命保険でゼロになり、負債のない土地建物が手に入る。そして五千万円の保険金。母子で生きていく大変さを補って余り有る利得だろう。
 すべて計画した上での出来事だったのだ。
 突然、薄暗い部屋のなか、炊飯器が飯が炊けたことを示す効果音を発した。
 敏子は立ち上がって、台所に行く。そして、炊けたばかりの白飯が盛られた仏器を持ち、隣の和室に入った。
 それを仏壇に供えて、古瀬光俊の位牌に向かって、いつものように合掌した。
 見慣れたそのしぐさに、美咲はとてつもない嫌悪感を覚えた。
「何それ。何の真似よ。自分で死体を埋めたくせに、旦那を失ってかわいそうな自分を演じてたの?」自分でも驚きそうになるほど、冷淡な声が出た。
「……怖かったんじゃ」
「怖かったって、何が?」
「あの人が、ゾンビみたいになって、土のなかから蘇ったりせんかと。何度も何度も、そういう夢を見て、うなされた。土のなかから這い上がってきて、私や恵子ちゃんに復讐に来る夢。じゃけん、せめて化けて出てこんようにと思うとった」
 日々の弔いさえも、犯した罪を悔いるものではなく、自分の身を守りたいという利己的なものだったのだ。
 この女は、どこまで自分勝手なのだろう。
 身体が勝手に動く。
 美咲は供えられたばかりの飯の入った仏器を手に取り、それを敏子に向かって投げつけた。陶器製の仏器は敏子の顔面にあたり、湯気の立つ飯が畳の上に散らばった。
 敏子の眉毛の端が切れて、血が流れている。
 敏子は顔を抑えて、叫んだ。
「東京でキャリアウーマンやっとるあんたには、わかりゃせん。私らの世代の女は、男にしがみつかんと生きていけんかったんじゃ。たとえ死体でも、しがみつき続けにゃ、子供ひとり抱えた女は、悲惨な生活しかできん」
 そういう敏子の顔を、美咲はさらに平手で打った。敏子の身体が弾け飛んだように畳に倒れる。
「あんたは私を悪人だと思うか? そう思いたいなら、思うたらええ。でも、あんたに不自由のない生活をさせて、東京の私立大学に行かせられたんも、光俊さんの保険金があったからじゃ。あんただって、私の悪事の恩恵を間違いなく享受しとる。私は、人としては間違ったことをしたかもしれんけんど、子を持つ女としては、間違ったことはしとりゃせん」
 敏子は畳の上に伏せて、号泣し始めた。美咲は母の泣いている姿を、初めて見た。
 和室を出て、二階の自室に入る。
 美咲はタバコを咥えて火を点けた。
 刑事の川本が言うには、たとえ事実がどのようなものであろうと、死体遺棄も殺人も、時効が撤廃される平成二十二年より前に公訴時効が成立しているため、今後捜査は一切しない、正確には捜査できないということだった。敏子の事情聴取の予定もないという。
 もはや母は、罪を償うこともできない。
 美咲は煙を大きな息で吐いた。
 警察署で初めて対面した父は、土にまみれた髑髏の姿になっていた。
 敏子の言うとおり、美咲は母の悪事の恩恵を受けている。最大の受益者と言っていい。
 かつて、女が抑圧された昭和、そして平成という時代があった。
 その抑圧のなかで、なりふり構わず幸せをつかみ取ろうと、母は必死に足掻いたのだろう。
 私は、母に感謝し礼を言うべきなのだろうか。殴ったことを詫びるべきなのだろうか。美咲はしばらく考えたが、答えは出なかった。
 いつの間にか、タバコのフィルターが涙でぐちゃぐちゃになっていた。

エピローグ


「ごめんね、送ってもらっちゃって」助手席に乗っている美咲は、運転席の雄一郎に言った。
「いや、別に。本当に、新幹線の駅まで送っていかんでええん?」
「うん、普通列車で向こうの駅まで行って、そこからのぞみに乗り換えるから」
「もう帰って来んのじゃろ?」
「さあ、どうだろう。でもしばらくは帰って来ないと思う」
 軽自動車の貧弱なサスペンションが、拾った道路の段差を吸収しきれず、車体が上下に揺れる。
「私のうちほどじゃないけど、ゆうちゃんとこもけっこう大変だったんじゃないの?」美咲が雄一郎に問う。
「まあ、なあ……。別に昔のことはどうでもええけど、ご近所にみっちゃんのことを悪く言いふらしよったっちゅうのは、ちょっと許せんわい。俺も、仕事見つからんでも、家を出ようと思うとる」
 自治会は活動を完全に停止した。今年度末の住民総会を経て、正式に解散されることになる。
 自治会長の五島は、自分の任期中に集落で殺人事件が相次いだことに責任を感じたのか、重度のストレス性胃潰瘍と大腸炎を併発して入院した。会計の東は、義捐金の返還トラブルが原因となり、熟年離婚になった。新興宗教の信者だった高崎は、追われるようにどこかに引っ越して行った。殺された酒本の美容院は、土地と建物が開業の際に借りた銀行融資の抵当になっていたため、銀行差し押さえとなった。
 自治会の所有物である集会所の土地建物をどうするかまだ決定していない。売却するにしても、トイレはあっても風呂はないので居宅としては非常に使い勝手が悪く、しかも大山田が殺された事件現場である集会所を欲しがる第三者が現れるとは思えない。更地にして売り出しても、買い手が付くだろうか。
 誰もが不幸になった。きっと美咲が知らないだけで、存在しない殺人事件をめぐって、住人どうしが争い諍い、そして何かを失った人がほかにもいるのだろう。
 美咲はハンドルを握っている雄一郎の左手の甲に、手を重ねた。
「もしよかったら、私と一緒に東京来ない? 来たからって、別に何かが変わるわけでもないけど……」
 雄一郎は前を見ていた目を、ちらりと美咲のほうに向けた。
「東京行っても、土地勘がない場所で仕事見つけてやっていけるかどうか。俺はずっと田舎で暮らしてきたけん。なんぼ地方の有名な料亭で修行したいうても、都会じゃ誰も知らんじゃろう」
「いつか言ったでしょ、私が養ってあげるって。その代わり、私専属の料理人と運転手やってもらうけどね」
 雄一郎は鼻先で小さく笑った。
「俺は和食しか作れんぞ。寿司は握れても、洋食も中華も専門学校以来やっとらんけん、毎日食べるような家庭料理はできん」
「でも、私よりはましでしょ。私なんか、ゆでたまごの殻むきもまもとにできないもん」
「自慢げに言うことかいな」
 そんな会話をしながら、美咲は自分が笑顔になっているのを自覚した。ここ最近、笑っていなかったことを思い出す。
「そういや、来月はみっちゃんの誕生日じゃったの」
 いきなりそう言われて、美咲は少し驚いた。来月十二月八日で、美咲は三十四歳になる。
「覚えてたの?」
「忘れるかい。忘れようと思ても、忘れられんわい」
 美咲は自分も雄一郎の誕生日を覚えていることを、脳内で確認する。四月八日。ほかの人の誕生日はことごとく忘れ去ってしまったが、なぜか雄一郎の誕生日だけはしっかりと記憶されていて、消えない。
 駅前に到着した。客待ちをしているタクシーの列ができている。雄一郎はその十メートルほど手前に車を停めた。
「それじゃ、連絡待ってるからね」
 美咲はそう言って降車し手を振ると、キャリーバッグを引きずって駅の入り口に向かった。




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