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柳原良平主義〜RhoheIZM 22〜

非のうちどころは?

破天荒な人生を送り、作品以上に人生(生き様)が面白がられる、そんなアーティストはたくさんいるが、柳原良平はその対極に位置するアーティストのように見える。本当だろうか?と思った。


アーティストの生き様

一般的に面白がられるアーティストの生き様というと、身近な人々にとっては逆に面白いどころか大迷惑で、さんざんな目にあっている人だらけの場合が多い。だいたい暴力や浮気、借金または各種の違法行為であったりするが、柳原の人生にそういった影は微塵もない。合法な酒とギャンブルは大いに楽しんでも、それで周囲に迷惑をかけたという証言や記録は皆無だ。

本当に心配してたのか?

それでも家族にだけは迷惑や負担をかけていたのでは?と勘繰ってみた。たとえば家族を残して一人での船旅を計画する際の話が『船旅絵日記』(徳間文庫)に書かれているが、その中で「ちょうど長男が中学入試を前にした大事な時期でもあり、慎重にプランを立てる必要があった」という記述がある。その時期のことを長男である良太氏に思い出してもらった。

「12歳だから1973年かな。父がそういう気遣いをしていたことに当時は気づきませんでした。逆に言えばそれだけ家族思いだったということだと思います。だからといって勉強しろとか言われたことはまったくなくて、ほったらかしでしたけど(笑)」

と拍子抜けのコメントが返ってきた。だがまあ、それほど息子の成績や入試の合否に神経質な親だったら、そもそも旅行になど行かないだろう。

夫人を泣かせた?

では多忙を極め大酒を飲み、さらには、ひとり船旅に出る夫に対して、柳原夫人はさぞ苦労させられたのでは?と勘ぐってみた。良太氏は言う。

「父は自宅が仕事場で、人を雇っていなかったので、母は接客、電話応対など秘書としての苦労はありましたが、そのことでグチをこぼしたことはなく、むしろ誇りをもってサポートしていたと思います。船旅にあまり同行しなかったのは、留守番役が必要というのもありますが、船に弱い(船酔いする)からということもあったと思います」

またまた拍子抜け。他にもいろいろ聞いたが家庭内においても柳原は、言動も穏やかで激情したりすることなどなく常に自然体だったという。

実は、刺激的な話があった方がコラムが面白くなると思ってあれこれ探ってみた次第だが、それらの悪だくみ(?)はすべて徒労に終わった。

船キチサラリーマンとして

一方サラリーマンとしての柳原も、無遅刻無欠勤を誇った。柳原のサラリーマン時代は寿屋(現・サントリーホールディングス)での約5年間を指すが、本人が「意地のように」(『柳原良平のわが人生』如月出版)と書いていることから、絶対に休んだり遅刻したりはなかったと推定できる。

ちなみに”サラリーマン”は、今ならビジネス・パーソンなどと呼ぶのだろうが、昭和30年代(1955年〜)の話なので、ここはあえてサラリーマンと書く。そしてサラリーマンを辞めて嘱託になった時期もさほど変わらないとの記述があるので、立場は変わっても淡々と定時に出勤していたのだろう。

さらにはその後サン・アドを設立してからの生活も似たようなものだったろうと想像される。なにしろサン・アド時代は、毎月の請求書の発行も他ならぬ柳原がやっていたらしい。PCなどない時代だから、あの独特の丸みを帯びた筆跡で大量の請求書を書いていたと思うと、なんだか微笑ましいし、ひょっとしたら『請求書』という名の作品になるかも、なんて思ったり。

仕事は完璧

そしてすべての仕事は、もちろん締め切り厳守。それを証明してくれるのは元・商船三井の中島淳子氏。

「先生はそういう面では、すごく正確な方でした。一度も遅滞なく毎月お手紙が届くので、開けるのがが楽しみでした。困ることは一度もなかったです」

元・商船三井の大貫英則氏も口を揃える。

「先生は芸術家でしたけれど、同時に商業デザイナーでもあり、寿屋でサラリーマンをしていた時期もありますから、サラリーマンがどういうふうに仕事してるのかを知っていた。思いつきで何かを変えてしまうと相手を混乱させてしまうとか、そういう配慮は十分にあった方だと思います」

というわけで

結局、柳原良平の”アラ”は見つからなかった。半分嬉しいが、正直言えば半分は残念だ。柳原の”非のうちどころ”はどこだ?と下世話な想像を巡らせる考えは消えつつある。名残惜しいが。(以下、次号)



※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。                                                                                  

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ご協力いただいた方々

● 柳原良太(やなぎはら・りょうた)  1961年4月、父・良平、母・薫の長男として、東京で生まれる。3歳のときに横浜に引越し、子供時代を横浜で過ごす。1985年、日本銀行に就職。2021年に日本銀行を退職し、現在は物流会社に勤務している。東京都在住。                

●中島淳子(なかじま・あつこ)     1976年、大阪商船三井船舶株式会社(現・株式会社商船三井)入社。秘書室を経て広報室に異動し、以降は一貫してサイト管理や社内報・広報誌の制作を担当。  2002年にはサイト内に「柳原名誉船長ミュージアム」を設置。柳原作品の発注窓口となり、約13年にわたり文通のようなやりとりを続けた。                         

●大貫英則(おおぬき・ひでのり) 1982年、大阪商船三井船舶株式会社(現・株式会社商船三井)に入社。定期船・コンテナ船事業部門にて航路の運営・営業に従事したのち2000年に広報室に異動した際、作品依頼の打ち合わせで柳原と知り合う。以後、新造船の竣工式や貨物船取材乗船などに柳原を招待するなどし、柳原と親交を深めた。                       

参考文献
・『船旅絵日記』(徳間文庫)
・『柳原良平のわが人生』(如月出版)

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