見出し画像

迷ったら手を挙げろ。飛び込め。

「誰か、このXプロジェクトに入りたい奴はいないか~?」

今で言うエンジニア、当時はプログラマー、と呼ばれた職で、社会人をスタートしたGenZee。研修期間が終わり、通い始めたのは、超クールな都心のビルの高層階でした。なんと眺めがいいことか。いよいよ東京で働けるぞ。かっちょいい技術者人生がスタートだ~♪

・・なんて思いながら、また、真っ青な空を眺めていた、その時。
課長さんが、彼の前のテーブルの島の面々に向かって声をかけました。

Xプロジェクト?どんなんだろう。ハードなのかな?新人でもできるのかな? ・・いくつか疑問があるが、他にどんな仕事があるのかすら、見えてないGenZee。周りを見渡して様子をうかがったのでした。

が、先輩方(※)皆さん、下を向いています。

聞こえないふりをしているのかな? (※当時、同期入社は約800人で、研修は半年間。が、私を含む25人だけの特別クラスは、一ヶ月で研修を切り上げて、各部署バラバラに放り込まれていた。よって、周りに同期は一人もいなかった・・)

こういう時の、固まった空気に耐えられません。そして、自分は少なくとも、まだ仕事は決まってない、一番下っ端。ならば・・・

迷ったら、手を挙げよ。


「はい!」

と、手を挙げました。 その途端、下を向いていた先輩方が、こっちを見ます。驚きの目でチラ見する人、ちょっと嬉しそうな表情の人、可哀相な人を見る目の人・・。(あれ、自分、何かまずいものでも、拾った?)

「これから大変だと思うが、頑張ってくれ!」

という課長さんの声と、課長さんが去ったあと、ぐゎー、っと先輩達に囲まれました。

大丈夫か? 頑張れよ! 応援してるぞ! 体に気をつけろよ! という数々の励まし?の言葉が、その後のハードな日々を暗示していました・・

そこは、社内で有名な、問題プロジェクトだった。

その翌日から早速、猛烈なコーディング作業の日々が始まりました。

書き出すとキリが無いので、プロジェクトの前からの出来事をいくつかピックアップすると・・

✅ GenZeeが配属される前、数人が、倒れて🚑入院してしまっていた。(だから補充が必要だった)

✅ 既に何ヶ月も延長を繰り返しており、ムードは最悪。メンバーは皆、疲弊して顔色が悪かった。

✅ 開発現場は客先オフィスに常駐。窓のない部屋。キャパの倍のワークステーションとプログラマーが詰め込まれていた。(青い空が恋しい・・😔)

✅ そんな開発室で、マシンと化してプログラムを書く日々。長時間残業、休日出勤の日々、が続いた。

✅ ある日、夢の中でデバッグができるようになった。(朝イチ勇んで出社して、修正試みるも、当然、バグは解決しなかった。夢だった😭)

✅ またある日は、深夜帰宅し、シャワーを浴びていたら、たらーっと、鼻血が出てきた・・。(さすがにヤバい😱)

✅ そしてプロジェクト終盤、更に増えたマシンの足元、タコ足配線のコードから火が吹き🔥消防車が駆けつける、という騒動が起きてしまった。(これにより、残業に制限がかかって、やっと夜9時前には終われるようになった😌)

乗り越えた先に

が、幸いにも、予定通りの期間で、無事にプロジェクトは終了しました(乗り越え方はまたいつか)。クライアントから立派な感謝状をいただき、社内でも、そのプロジェクトチームのリーダーが表彰されたりもしました。

そしてGenZeeは・・?

確かに大変だったが、死ぬことはなかった。

むしろ、実は案外その特殊な環境を楽しめたのです。 皆勤で何万行、何種類ものプログラムを組みましたし、その結果、プロジェクトリーダーに凄く褒められて自信がつきました。そして、超速で、プログラミングを学ぶことができました。多分、あの時に手を挙げなかった先輩よりも。

そして最大の収穫は、その後次々と、面白そうで、学びが多く、技術的に先端で、だからこそ、社として重要なプロジェクトに連続してアサインされるようになったのです。

数々のダイビング

今思えば、その後のサムライ人生、数々の似たようなシチュエーションがありました。

✅ 情シス部員として採用されたはずの二社目で、上の都合で営業部門に配属されてしまった。が、思い切って営業の仕事も、飛び込んでやってみたら、徐々に面白くなった。そしてその後営業系の業務に転身することになった。

✅ 廊下ですれ違った偉い人と目が合った。即興で、大胆な提案をした。すると半年後、そのプロジェクトが立ち上がることになった。もちろん、そのリーダーに手を挙げ、任命された。

✅ 生れも育ちも日本。留学すらしたことがないが、当時世界的な外資系企業に、ダメもとで応募してみた。You, Fire! の怖いイメージがあったが、飛び込んでみたら、何とかなった。その後外資でキャリアを積むことができた。(外資の世渡り術はまたいつか)

✅ その外資企業で、社運がかかったプロジェクト、というものが発生した。しかも同時に2つ走り始めた。両方のPMやれるか?と上司に聞かれた。やります、と手を挙げた。みんなの協力と努力で、無事2つとも成功し、2つの社長賞を頂いた。

✅ また別の外資で、ある時上司から、二つの選択肢を提示された、大きめのグローバル部門のリーダーのサポートのポジションか。もっと小さなグローバル部門のリーダーポジションか。小さいけれど、リーダーやってみれるポジション、に手を挙げた。当時まだ全然英語は使い物になってなかった。が、その役割を担う中で使えるようになった。(英語勉強のコツはまたいつか)

そして、気付いた。目覚めた。

このような数々の転機を通じて、GenZeeが学んだことは、

1.手を挙げてみよう

難しい仕事を前にして、やるかやらないか迷ったら、やる、を選ぶ。渦中の栗と思わず、チャンスと考え自ら掴みに行こう。成功するとは限らない。が、そんな難しい仕事、アサインする上司だって、失敗したくない。だから全力でサポートする。最悪、失敗したって、若手の責任など問われない。一生懸命に取り組めば、大抵が何とかなるもの。うまくいって大成功した場合、その"戦績"は、手を挙げた者しか得られない。

2.飛び込んでみよう

時に、若手社員には、選択肢が与えられないこともある。やるかやらないかでなく、やるしかない、という状況。考えても答えのない不安、疑問。未知の世界。誰も踏み込んだことのないビジネス領域。といった仕事もあるだろう。それでも飛び込んでしまおう。走りながら学べ。コツをつかめ。努力を続ければ、いつか花開く。

3.死ぬわけじゃない

戦国時代ならば、不相応の無謀な戦いをしたら、死んでしまう。が、現代のサムライの戦場=職場では、最悪大失敗したって、死にはしない。ポジティブに考え、心と体を備えておけば(ここ大事、またいつか)、何とかなる。もちろん、自分の体力の限界を知っておくことは大切。無理は禁物。

・・と、精神論的になってしまいましたが、ブラックな仕事ぶりは批判されてしまう今日この頃。死ぬほど働くんだ!などと言ってるように聞こえたら、大変失礼しました。

要は、困難な仕事も、主体性をもって取り組めば、その後の会社員人生において、大きな転機、収穫、となり得るのです。勇気を振り絞って挑戦した者には、その後の人生に影響する、大きなチャンスが与えられる、ということを伝えたいのです。

以上、老兵GenZeeの処世術を読んでくれてありがとう。

--------------

なお、目の前に二つの道。その時は・・?

以上、GenZeeの 『実践!キャリアアップ ノート』”足軽編”

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?