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梅干しの種が捨てられない。|エッセイ


梅干しの種が捨てられない。ずっとだ。

まっさらなご飯をひと口、後を追うように梅干しをちいさくかじる。そうしてお茶碗一杯のご飯と梅干しひと粒を残さずいただく。大切に大切に食べる梅干し。

じぶんが梅干しを食べている姿をモニタリングしたことはないけど。たぶん、それは鼻歌を唄いながら熱燗をちびちびとなめるような気配に近い。

その食べ方は祖母とそっくりだろう。祖父母に育てられたわたしは、どことなく祖父母の信念を受け継いでいる。よく言えばヴィンテージ、わるく言えば時代遅れ。

祖父母は大正生まれ。第一次世界大戦最中に日本の田舎で生まれ育った。都会で吹く大正デモクラシーの嵐をそよかぜくらいに受け取り、尋常高等小学校へ着物と草履で通っていた。ちいさな手には、ひとつのにぎりめしを竹の皮で包みそれを風呂敷で巻いたものを鞄代わりに持った。草履の鼻緒が切れれば藁をねじり草履を編み、怪我をすれば唾で消毒し、お菓子はきな粉棒やあんこ玉を大切に食べた。

兄弟の多い祖父とふたり姉妹の祖母とは育った環境は違えど、同時代性の土台は同じだった。ふたりに共通しているものは「もったいない」という信念だ。

少々のものは穴が開こうが、ねじれていようが、欠けていようが、手入れしながら使えるものは使うし、消費期限が1週間くらい過ぎていようがじぶんの目と鼻と舌に全幅の信頼をよせているから「これまだイけんじゃね?」と判断したら、世相が定めた平均値なんて関係ない。「だって、もったいないから。」と天地万物、森羅万象、神祇釈教恋無常が尽きるまでものを深く大切にするスタイルなのだ。

ふたりに育てられたわたしは、もったいない精神を受け継いでいる。色褪せたり穴が空いたTシャツも「なんかグランジでこなれてるし、ダメージジーンズと合わせればサマになる。」とおもっているし、いつか使うかもしれないとコンビニでもらった割り箸や輪ゴムを貯めている。胃腸の弱いわたしは、さすがに消費期限を守るけど。

その信念は梅干しにも通ずる。ご飯一杯に対して梅干しひと粒をバランスよく食べ切ることに長けている祖母に育てられたわたしはその作法を受け継いでいる。

子どもの頃は梅干しを食べ終えたら、種を洗い乾かしてジャムの瓶へ入れていた。捨てるなんて滅相もございません。

種は畑や果樹がある辺りへ穴を掘り土へ還す。それが理。木になるものの果実をいただいたら、感謝をして土へ返すことを倣っている。

しかし、母はその理を「汚い。」と言い、梅干しの種を勝手に捨てるのだ。くやしい。いつか梅干しの種革命を起こしてやる。

わたしのもったいない精神を文章にしてみると、とても妙ちきりんだけど、まあ、いまのところはヴィンテージを好んでいる時代遅れの庶民ということにしておこう。





このあいだの中秋の名月。
その真下あたりの土へ梅干しの種が埋まっている。
あの頃の記憶といっしょに。


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