見出し画像

普遍的な「善悪」なんてない。

最近、いや前から思ってたことではあるけど、最近特に自覚するようになったのは、「私は、"何かが完全に正しいとか、完全に悪いということはない"と思ってる」ってことだ。


もともと、友達に言われて、私も自覚していたのは、

私はバランスを取ろうとする、ということ。


簡単に言うと、誰かがAさんのことを「本当にいい人で欠点がない!」と褒めちぎると、「いや、そうでもないよ」って言うし、逆に誰かが同じAさんを「あの人まじで性格悪いよね」と愚痴ると、「優しい時もあるよ」と言う。

もちろん、自分が具体的な被害を被って、嫌いになってない場合だけど。

人じゃなくて、事に対しても。

それを、「バランスをとる」って表現してたんだけど。


そもそも、何かは、絶対評価として「良いもの」で、何かは絶対評価として「悪いもの」である、っていうことがないんじゃないか。

と、私は思ってるんじゃないか、と気付いた。


もっと言うと、何かを「完全に悪い!」と決めつけて、それを撲滅しようとか、批判しまくってる人に対して、なんか嫌悪感を抱いてしまう。

この理論で行くと、私は世間の大半の人に対して嫌悪感を持ってることになってしまうけど…。

と言うのは。

だから、殺人も自殺も死ぬこと自体も、戦争も、
絶対的に「悪いもの」とは言えないんじゃないか。

だって、そうでしょう、歴史的には、文化によっては、それら全部肯定されてたものでしょ。


だから、肯定されるべきもの、って言いたい訳でもなくて、ただ、完全に悪いものとは言えないよね、と思う。

結局は、好き嫌いなんじゃないかなと思うけどな。

「私は嫌い!」それはわかる。
「だから世界にとっても悪いことだ!」それは、そうとは限らないんじゃないか。


あとは、トレードオフだ。

前の記事でも書いたけど(どの記事が忘れてしまった)、

大学で法学の先生から聞いた話が、とても印象に残ってる。

「法律に"人を殺してはいけない"とは書いてない。人を殺したら、捕まって刑罰を受けなければいけない、死刑の可能性もある、と書かれているだけだ。だから、それでも良いなら、殺したらいい」

この言葉が、ずっと心の中にある。
すごく納得した。目から鱗だった。

この考え方は、全部に当てはまるな、と最近思うようになった。
つまり、トレードオフ。

行動する/しない、と、その代償、どっちを選ぶかってことだ。全部。

ちなみに、最近本屋で宗教系のコーナーに行ったら、この本を見つけて少し立ち読みした。

この本に、ほとんど同じことが書いてあって。表紙の帯に書いてある通りなんだけど。

「人を殺していけない根拠などありません」

ちなみに本文には、「あなたが無宗教であれば」という前提があったと思う。キリスト教徒だったら、神との約束に「殺してはいけない」というのがあるから、だめかもね。でも、無宗教なら、何にも気兼ねすることはない。「殺してはいけない」という人はいない。その根拠は、法には求められない。

これもすごく面白かった。

考え方だと思う。



じゃあ、お前は殺されても良いのか、って言うと、それはまた別の話で。

私は、死にたくない、と思ってる。
私にとって、死ぬことは「嫌なこと」。

それは私の実存としての話であって、摂理だとか普遍的な真理とかではない。

「私が殺されること」は、私にとっては悪い。
でも、世間にとって悪いことかはわからない。

「Aさんが殺されること」が私にとってどうかもわからない。

「Aさんが殺されること」が、Aさんにとってどうかもわからない。
だって、死にたかったかもしれないからね。


ここで殺戮の天使を思い出す。

詳しくは↓の記事で書いていますが

(さっきの法律の話もここに書いてたわ)


誰かを殺す、ということが、必ずしも悪くない、と同様に、生き続けること、が必ずしも良いことではない、とも思う。

これまで「悪いこと」にフォーカスしてきたけど、「良いこと」も同じで。

生きることは良いこと!少しでも長く生きることが幸せ!
っていうのは、主観であって、真理ではないんじゃないか。

上の記事と同じことを言うけど、「生」が必ずしも良いもので「善」であるとは限らないんじゃないか。


現代思想を読んで、

「生まれてこない方が良かった」と言うベネターの主張に対して、反論している人がいて。

「とにかく、生きる為の哲学をしないといけない」

というような主張があって。
それがなんでかわからなかった。

その人が「生きたい」のは、わかる。
だから、「全員が生きなきゃ!」は、わからない。な。


こうやって私の考えが作られていくというか、再構築されていく過程には、色んな本があったんだな、と気づく。

この、「死」とは何か、の影響も大きいな。
死が悪いこと、は本当か?だとしたら、「誰にとって」か?


そうだ、誰にとって、も重要なワードな気がする。

だから私は、「自分が、自分にとってそうだと思うことを、影響範囲を拡大して適用させようとすること」が嫌なんだろうな。

だからそれも、一般的に言ってるようだけど、「私は違うから、その範囲に勝手に入れないでくれ」ってことだ。

最近、身近でも似たような事例があった。

その人にとっては、多分至極当然のことだったから、つまり、自分の意志=世間で求められていること、だから、こうした方がいいよね、って感じで提案されたけど、すごく、「私は違う」って思っちゃった。


あなたがそれを嫌いなことは、別に良いです。どうぞ嫌ってください。でも、殲滅しようとしないでください。だって私は、それが好きだから。


自分の考え、の範囲を拡大させる。

そうやって拡大すると、まるでそれだけが正しいかのような気がしてしまうでしょ。

この世の全ての人が好きなもの、なんてないし、この世の全ての人が嫌いなもの、もない。

「世界の誰もが何一つ嫌な思いをしない世界!」

なんてない。できない。
戦争が好きな人は、戦争のない世界に居たくないだろうから。

戦争撲滅を叫んでる人には、想像できない。「戦争が好き」っていう事象が理解できない。

昔の私がそうだったな。

でも、わかった。そういう人…戦争が好きだとか言う人は、一定数いる。
それは戦略かもしれないし、純粋な趣味かもしれないけど、いる。

それが、種の多様性なんだと思う。
発現した、特徴なんだと思う。

植物だって突然変異があるのに。

全員が同じ倫理観なんて持ってない。

だから、完全な善悪なんてないんだと思う。


そこで、ニーチェの「善悪の彼岸」を買った訳だけど、やっぱり難しいね。
昔の、現代思想みたいな感じ。

これまでの、そしてその時代の他の哲学者の考えに対して反論したりしてる、から、そもそもその考えをちゃんと知らないと理解が追いつかない。


ただ、結局、固定概念というものに縛られてるんじゃないですか?ってことだと思う。まだ読み終わってないけど。


ちょっと、まとまったつもりだったけど、まとまってなかったや。
いつか、ちゃんとまとめよう。

最近の私は、こんな感じです。


*追記*

前にもほとんど同じこと書いてた。

美しいならばそれでいいじゃない!だ。


サポートいただけたら泣いて喜びます!!