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着物日記③「着物のしわの美しさ」

今回は私がふと感じる着物の魅力、言葉にするのがとても難しい感覚を書いてみたい。

私にとって着物は第一に「着るもの」だ。当たり前のことだが、必ずしもそうなっていない現代の状況である。
昭和という長い激動の時代に日本の女性たちが所有し、眠り続け、しかし簡単に処分することのできない着物が日本中に今どれだけあるのか、想像しただけで頭の中が着物のでいっぱいになり、目をつむりたくなる。最近、中古着物のお店をあちらこちらに見かけるようになって、ネットショップ、ネットオークション、フリマアプリで着物や帯が流通するのを見ると、捨てる神あれば拾う神あり、新しい持ち主を見つけた着物たちに幸あれ、と願うが、それでも洪水のように素晴らしい着物が流れてきて、「買ってください」と懇願するようにただ同然で並んでいるのを見ると、くらくらして、やり場のない思いにかられる。どうしたって着る人が圧倒的に足りないのだ。

まさにそうした着物を家族や近しい人から受け継いだ自分の役目は、「着ること」。もはや好みやサイズを超えて、手元にある着物、帯、小物をとにかく着る。着付けは独学、合わせ方も自己流である。きちんと着付けを習った人、プロの眼から見たらおかしいこともたくさんあるのは承知で、とにかく着ている。

そうやって着ているうちに、着物を着て動く、生活するということには慣れた。歩く(長い時は一日中)、座る(いろんな椅子、特に電車やバスなどの椅子は気を遣う)、電車に乗る(階段やエスカレーター、エレベーターをどう使い分けるか)、車を運転する(履物、長い袖、シートベルトの装着、乗降の仕方など)、食べる(着物を汚さないための工夫、同席する人との関係など)、買い物(いろんな店へ着物で入る勇気)、カフェなど。この間は着物で寄った親戚の家で、袖や裾まわりを気にしつつ、気になる庭の雑草を抜いたりまでした。

パーティなどのハレの場ではなく、そういう当たり前の日常的動作を着物ですること自体を身をもって学ばなければいけない。それには着て動くしかない。レンタルと違って、すべて自分でやる、責任を持つということ。それにはどれだけの時間と作業が必要か。「面倒くさい」という気持ちが少しでもあったら、着物とは付き合えない。着物を愛する人は、誰でもこの「面倒くささ」を乗り越えている。現代的な便利さ、スピードを第一とする価値観とは違うものを元々内に持っていたか、着物から発する「魔力」がその人をとらえ、導いたに違いない。

着た結果、汚れたり、いためたとしても着物も決して文句は言うまい、と言い切れるのは、それらが箪笥の中で永遠とも思える時間を耐え抜いたのを見ているからだ。ごみになる寸前から救い出された着物たち。今は宝。

多くの着物人がそうしているだろうが、着たときになるべく写真を撮るようにしている。その時の自分の着付けの欠点や着物、帯、小物の合わせ方を記録して、後の参考にするためだ。
出来る限り、出かける前に撮るようにしている。しわなくきれいにと奮闘した、一番よい状態。しかし撮る時間がなくて、上にあげたように洋服と同様にあらゆる動きをした後、だいぶたった夕方や、帰宅して脱ぐ前ということもある。すると当然ながら着崩れている。朝はきれいだったのに・・・と残念な気持ちになる。着付けが下手なのか、受け継いだ着物の大きさが体に合わないのか、動き方が悪いのか、着物とはそういうものなのか。全部だろう。
着物雑誌などの写真にお手本として見る、これぞ着物の理想、と言えるような着姿にはしわ一つない。左右上下のゆがみもない。それがプロのテクニックであり、撮影の裏側にはいろいろと苦労があると推察できても、それらを見続けているうちに刷り込まれない者がいるだろうか。
私も亀のようにゆっくりと、少しずつでも美しく、着崩れない着付けを目指しているが、おそらく一生素人の着方だろう。
しかしあるとき、自分の写真を見ていて、そのしわ、崩れを「悪いもの」と否定しきれないことに気づいた。きれいでない着姿、として捨てようとするのだができない。なぜなのか、写真を見ながらしばらく考えた。
私はそのしわに何となしに美を感じたのだ。動いた結果、寄ったしわ、襟元や帯のゆるみ。人の体の線、動きの美しさを、それをゆったり包む大きな布である着物が映し出したのが、それらのしわやたるみなのだ。
ことに正絹の「やわらかもの」と呼ばれる着物の魅力はそこにあるのだろう。それは写真のような静止画でもわかるのだから、動いている着物の人は、写真には撮り切れない無数の美しい形を見せ続ける。小さな微かなダンスのようなものかもしれない。
時代をさかのぼればのぼるほど、衣服の丈は長くなる。寒暖のためであったろうし、宗教上の理由もあっただろう。労働者は別として、女性は特に肌を見せなかった。現代では礼服、祝祭、女性はリゾートやリラックスするため、流行によってはロングドレスもあるが、基本的に衣服はどんどん短く、パンツの割合が増えている。一部の文化、たとえばインドのサリーや中東の女性の衣服には気候や宗教上の理由で伝統は保たれている。
ここ日本では、人々は今や見慣れなくなった大きな布の色や質感、動き、ひだや、陰影を無意識に目でとらえ、その日本独特の美に癒されるのではないだろうか。もちろん基本の着付けが出来た上の話であり、着る人の肉体と動きがぎこちなければ、それもその通りに映し出されてしまう。着物の世界を極めた人たちがよく言うこととして、「美しいしわと、そうでないしわ」がある。

いくつか、自分が悪くないと思ったしわの例を探してみた。

この写真を撮ったとき、私は車を運転し、ある場所で作業をして、また別の場所へ移動した夕方だった。この夏着物はポリエステルで、少し大きめなので、動いているうちにするすると滑ってしまう。脇の帯の上にドレープのようなしわ、衿のあたりのゆるみは嫌いでない。暑くて、半襟もつけないので、襦袢の衿もへなへなしている。しかし、これも夏という季節をあらわしている。

反対側もしわが寄っている
母が若い時に着たローズピンクの祖母作の色無地袷。名古屋帯と絞りの帯揚げは祖母の桐箪笥から出てきたもの。これも丈直しをしたのち、たっぷりとして、一日動くとしわが寄る。
これも祖母作の母の小振袖の付け下げ。洋の色名でいうとペールグリーンか、綸子でつややか。ミュージカルを見に行った時に着たが、座ったりすると胸元がふんわりする。
母がフリーマーケットで見つけた未使用の琉球文様の綿の単衣。着物に慣れるために家で着て、何回も洗濯したため、柔らかくなった。夏帯を合わせて美術館のデザイナーズチェアに座る。このくったりさは自分の着物になった感覚。
伯母から引き継いだ袷。珍しく伊達衿がついていた。車を運転したりして、衿元も胸元もゆるんでいる。羽織は祖母作。

今回は手持ちの写真の限界で見せられないが、上半身だけでなく、背中や袖の腕から袂、座った膝や、後ろ姿の下半身にかけての自然なしわ、歩く時の裾のひるがえりまで、動く肉体が作り出す線に魅了される。

あくまでも個人の感覚であって、完璧な着付けをされる方には単なる着崩れ、着付けの下手さかもしれない。こうやって公開するのも正直ためらわれる。
しかし自分に限らず、私はこのように「生きた着物」を見るのが何よりも好きなのだ。現代でもどこかで着物の人がいればそっと目で追うし、昔の古い写真を見つけると着物を観察する。白黒やセピアの写真に手彩色の、ポーズをとった美しい芸妓さんたちはもちろん、幼い兄弟を背負った子供たちのつんつるてんの着物姿や、労働で疲れたおかみさんたちのくたびれた着方や、一転して結婚式や集合写真でのびしりと決めた着物など。着物を着る以外の選択はなかったのだ。新しい着物を誂えた喜びの大きさから始まり、着て着て、貸したり、借りたり、古びてくれば他のものに作り替えて最後まで着物を大切に「使い切った」人たち。

同じ反物、同じ着物であっても、そのひとつの、一回きりの線や陰影を作るのは着ている人の肉体と精神、その生なのだ。
第一回目で浴衣は「だらしないのが本来の姿」と書いたように、着物は着るもの、人の体を包み、活動を支えるためにできた。だからその通りに着られた状態の着物の姿が、あるべき姿、本来の姿に見える。
販売される前の着物や美術館に飾られている、奴さんのように両手を広げて背中を見せて飾られている着物たち。着物全体を鑑賞するために考えられた最良の形だとわかるのに、ずいぶん時間がかかった。自分で着物を着られない頃の私には、着物に見えなかった。これを人はどうやって着るのだろう、と首をひねり、すっきりしなかった。前面が見たくて仕方なかった。どうして前向きにしてくれないのだろう。
手紙好きの私は長年、記念切手を集めていた。あるとき、友禅のような美しい着物を何種類もこの形で並べた切手があって、喜んで買ったが、そのときもやはりこのもやもやを感じていた。外国人の友人に手紙を送るときにその切手を貼りながら、「これが着物だと分かるだろうか?」と思って、kimonoと脇に書き添えた気がする。
着物は基本的にマネキンにでも着せて360度見たい。それを計算して作られたのだろうから。だがこれは「着る」という視野であって、染めや織り、刺繍の技を全体で見る、つまり芸術作品としては平面に広げるのが一番で、美術館に来るような鑑賞者はそれを見たいのだろう。

人が着るとき、着物は生きている。私たち人間が息を吸って吐いて、汗をかいて、歩いたり走ったりするように、食べて飲んで、笑って、泣いて、怒って、感動して涙を流すように。着物もまたそれを着ている人を包みながら汗をかき、楽しいひと時に手がすべってパスタのソースやワインが飛び、ドアノブに袖が引っかかって縫い目が裂けたり、時には思いがけず雨に濡れ、転んで(私は着物を着て、都会のど真ん中でこれ以上ない恥ずかしい転び方をしたことがある)、逃げ出したくなることもあるだろう。古い着られた着物にはそういう日々が刻まれている。「古い、汚い」と思えばそれまでだ。
だがそれらの生きた着物は満足して、堂々と、着物として生きてきた誇りに悔いなく笑っているような気がする。
着られることなくきれいに畳まれて、ぺたんこに、しわなく何十年も箪笥の暗闇に眠っている着物は孤独でみじめで、ほとんどあきらめていて、ぽんとまとめて捨てられる恐怖の中、いつか来るかもしれない「その日」を待っている。

こんな風に一枚一枚の着物や帯、小物一つにも感情を持ってしまう私は、もう何も新しく手に入れるまい、と欲を抑えている。だがそれでも私の元にやってきてしまうものがあるだろうと知っている。
だから今日も特別なことがなくても、どれだけ手間がかかっても、遅刻しそうになっても、着よう。そして新しい「美しいしわ」を作っていきたい。
ああ、それは自分の心身においても同じことだ、と今、気づいた。





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