嫉妬心に消化器
SNSは自分が興味を持ったものから枝分かれのようにプログラミングされ、それを自動で選別され、自動でフォローしていないものまで出てくる。
永遠に情報が途切れない様な仕組みになっている。
脳に考える隙を与えず、情報を埋めることで知識欲を満たしていき、多すぎる情報によって到達した商品購入ページを見ることで購買意欲を掻き立てる。
インフルエンサーとプログラム、広報戦略の勝利。
商売として成功している。
そうして消費者は、これまでの自分の考えより
他者の考えや教えが先行してしまい、
余白のないまま購入に至る。
企業にとって優良なお客様となるわけだ。
人を羨む気持ちは持って当然だけれど、
欲しい気持ちと買えるかどうかの現実問題や、
それが物とは限らず旅行であれば、
行きたい気持ちと自分の生活スタイル(貯金など)に余裕があるかなど、自制心との兼ね合いを持つ時間、つまり余白がない場合、選択を間違え自分を置いてけぼりにしかねない。
SNSは経済を回すけれど、一方で心の消耗は激しく、余裕がないのに余裕なふりをして、承認欲求を手軽に感じれるが、その手軽さにはまると大きなツケが後で回ってくることも。
まるでギャンブルのよう。
一度は不思議に思ったことがある人も多いのではないか。
なぜ、普通の主婦がこんなおしゃれな暮らしができるのか。
あの人のご主人は一体どれくらい稼いでいるのか。
なぜあんな高価なものを容易く手に入れられるのだろう。
どうして頻繁に旅行に行けるの。
なぜあんなに、、、、、etc.
そう言う声をよく聞き、私は思った。
一方、やがて満たされれなくなる承認欲求はどこで埋めるのだろうか。
自分が保てる条件、つまり幸福を感じることを考えた時いつも行き着くのは、コミュニケーション能力の重要さ。
相手数ではない。
一人、二人と少数でも関わり、思いやれる人がいれば、コミュニケーションは発動する。
数の多さがコミュ力ではない。
量より質
友人や知人の多さ・顔の広さ=コミュ力が高い
ではない。
寧ろ、数が多ければ多いほど、コミュニケーション能力は発揮しにくくなると感じる。
私からすればそこで幸福感を得るのは無理ゲーなのだ。
そこで関係が成立し、需要が生まれるのは、仕事やお金目的以外メリットが感じられない。心が消耗され、自分を保っているだけでかなり疲労する。
羨ましいどころか、すごいとさえ感じる。
地位や名誉、財産を得て失うものも大きい。
尊敬できるけれど、簡単に羨むことはできない。
とは言え、SNSは私も見て楽しむ。
けれどそこではいいね目当てに発信することも、人に対して嫉妬することもない。
なぜ?と聞かれ、とふと考えてみた。
やはり”自分と他人を切り離す”、と言うことに着地する。
感じ方を変えてみる。
昔、一度我が家に遊びに来たことがある友人。
中古の古い物件に住んでいた我が家が、リフォームをした後に遊びに来てくれた。
変わった我が家を見て皮肉を言われた。
褒めているような、でもモヤッとする言葉だった。
私はこう返した。
「この家をそのままどうぞ、としても、あなたは嬉しいかな?」
友人はハッとしたように、趣味が違うから、と苦笑いした。
一瞬で嫉妬は吹き飛んだのが目に見えた。
それからはいいね、よかったね、と心から言ってくれたように感じれた。
嫉妬心とは、怒りと似ていて、冷静ではない状態にガソリンを撒いて引火するような、即効性のある静寂な興奮状態のことではないか。
消化の仕方で、こちらのモヤも晴れる。
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