第三話 声なしの母
ある休日の朝、私はただただ、無性にイライラとしていた。
ガチャガチャと大きな音を立てながら食器を洗っていて、その音を聞いた旦那さんが、娘を抱っこしながら2階から降りてきた。
「どうしたの?何か困ってることがあるなら言ってよ」
旦那さんはそう言ってくれたのに
「・・・・・。」
私は何も言えなかった。
起きてきた娘に、にこりと笑顔を返すこともできず、ガチャガチャと食器を洗って置くことしかできなかった。
誰も悪くない。
そうわかっていた。だけど、旦那さんに、そう返すこともできないほど、自分に対するやり場のない怒りと苛立ちに私は侵されていた。その怒りを、家族に晒している、そんな自分の何もかもが惨めで情けなかった。
そんな自分のことでいっぱいいっぱいの母親だというのに、娘は旦那さんの胸の中から、ふわっと笑いかけてきたのだ。
それなのに、私ときたら娘に、笑いかえすこともできなない。
不甲斐ない母親だった。
誰も悪くない。
娘は笑ってくれて、私を思いやってくれる旦那さんもいるのに、なんで私は、こんな気持ちになるんだろう。どうしようもなく涙が溢れてきた。ただ泣くことしかできず、娘にむかって、泣きじゃくったまま、くしゃくしゃの笑顔をつくるのがやっとだった。
ただ、苦しくて、悲しくて、不安だ。
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『声なしの母』
叫ぶのをやめた
話すのをやめた
聞くのをやめた
声なしのわたしが
母になる
わかろうが
わかるまいが
話しかけ
「あーうー」と
娘は夢中で話す
泣いたら
オムツをかえて
おっぱいをあげるんだ
この世界の
何もかも
おどろいてごらんよ
この世界の
何もかも
聞いてごらんよ
「あーうー」って
世界に
話しかけてごらんよ
この子のように
笑って泣いて
世界中が
ふるえてるじゃないか
声なしなんてあるもんか
みんな、
叫びたくて
話したくて
聞きたくて
たまらないじゃないか
なのに、どうして?
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やり場のない怒りが、自分自身に向けられたものだと気づく。ただ泣くことしかできなかった私に、家族はただ、やわらかな笑顔で寄り添ってくれた。家族と毎日、笑顔ですごしていたいだけなのに。そう思っても、今のままでは叶わないと心がうずく。
娘の貪欲な好奇心に、どうにかして寄り添いたかったのは、娘のためという大義名分を掲げながら、実は私自身にぽっかりと空いた穴を埋めたかったからだった。「母になる」というお役目をもらって安堵し、そこに夢中になろうとしたのもつかの間、私に空いた大きな穴は、娘の夢中だけで埋まることは決してないと気づく。
私の夢中はナニ?
行方不明になったきり、捜索願いすら出さずにいた私の好奇心と夢中。
私は、これを探すことからはじめなければならないのだ。
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