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第五話 母を生きて、わたしを生きて

娘は赤ん坊であることに夢中で、
私は母であることに夢中だった。

ほっと胸をなでおろすように産休、育休に入った私は、夢中で母親をしていた。もちろん、母である喜びに包まれて。二度とないこの貴重な時間を、めいいっぱい満喫しよう。そんな私の気持ちに応えるかのように、娘は毎日、感動や喜びを与えてくれた。一緒に過ごした時間の分だけ愛おしさが積み重なっていく。

けれども、娘の成長を見逃すまい、娘にとって良き母でありたいと夢中で母親をしているうちに、私は自分のいのちの意味や目的を「母親であること」だけにすがりたくなっていた。

いのちのまま生きる娘の存在感。それを肌身で感じれば感じるほど、会社という組織における自分という存在の危うさに心がゆらぐ。そんな憐れな自分の姿を、私は思い出したくなくなっていた。

私という存在は、なんのためにあるのか。
何のために働くのか。

その問いへの答えを見つけられずにいた私は、母を生きることが、私を生きることなのだと思いたかった。

だけど「そうじゃない。それだけじゃない」心のどこかでそう叫ぶ自分がいる。どうしても無視できない呼び声に導かれるようにして、かつて書きつけていたノートを開くと、実の母に宛てた手紙の下書きがでてきた。

母は、私たち姉妹3人が社会で自立して生きられるようにと「やりたい」と言ったことをダメと言ったことはほとんどなかった。習い事をするのも、大学に行くのも、応援してくれた。けれどもそれは母に金銭的な苦労も同時に背負わせていた。

母はその時代の女性らしく、寿退社をして私を産んでいた。「こんな歳になったら、もうパートの仕事しかないのよ」と、身を粉にして時給で働いていた母が、「あの時、会社員をやめていなかったら・・・」時おり呟くその言葉を聞くたびに私は胸が痛んだ。

そんな母を側でみながら、私はどこか、母が成し遂げられなかったこと、世間や社会で認められるような仕事に就くことを、私はどこか代理戦争のように受け継いでいたのかもしれない。母から頼まれたことは一度もない。自分で望んでのことだ。

いのちの時間を私たちにめいいっぱい捧げてくれていた母の夢はいつしか私の望みと重なっていた。ひとつひとつ、叶えていくたびに自分のことのように喜ぶ母の笑顔が嬉しかったし、誇らしかった。どこか、そのような自分になれば、両親に認められ、愛されると信じていたし、そうでなければ愛されないのではないかという危機感も同時に自ら背負っていたように思う。

私が母することに夢中になったのは、娘を愛することで、私自身も母なるものから愛されている、その実感に包まれていたかったのかもしれない。けれども母親になってわかったのは、娘がどんな娘を生きようとも愛しているということだ。

3人の娘が自立しはじめた頃、母は「これから私は、どうしたらいいんだろう」と寂しそうにしていた。60歳を手前にして、「何のために生きるのか」という自分のいのちの命題と向き合いはじめ、「どうしていいかわからない」と途方に暮れている、そんな母を見るのが、私はとても辛かった。

その頃の母に宛てた手紙に、私はこう書いていた。

「お母さんは、これまでずっと誰よりもお母さんをしてきたよ。これからはお母さん自身が喜びを感じる何かをしていてほしい。 お母さんの人生を歩んでいてほしい」

その手紙に添えたのは、まど・みちおさんの『リンゴ』の詩だった。

『リンゴ』 
 まど・みちお

リンゴをひとつ
ここに おくと

リンゴの
この 大きさは
この リンゴだけで
いっぱいだ


リンゴが ひとつ
ここに ある
ほかには
なんにも ない


ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ

 まど・みちお 『リンゴ』


私も母も、母親を必死に生きることでいっぱいの「リンゴ」だと思っていた。もちろん、そんなリンゴでいっぱいに生きることも愛おしい。

だけど、本当にそれだけなのかな?

母さんというりんごにも、私というりんごにも、まだ、何か言いたいことがあるみたいだ。

かつて自分の母親に伝えた手紙の文章が、そのままその頃の私へのメッセージとしてコトダマのようにかえってくる。

もし私が今のまま「母をするリンゴ」だけで生き続けてしまったら、娘はあの時の私と同じように、寂しい気持ちになるに違いない。

いのちの源に還る瞬間に

あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ

そんな生き方をしていたい。

私はありがたいことに「母をする」というお役目もいただいたけれど、それが私のいのちの目的のすべてではないはず。

何もせずにはいられない。

行く先は、まだ厚い霧に覆われている。それでも、一歩ずつでもいいから、踏み出していこう。そう決めたのだった。


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