見出し画像

摂食障害を松葉杖として

少し昔の自分を振り返っていた。

この摂食障害という病気と、どれだけの年月を共にしてきただろう。

16年?17年?曖昧すぎてもうよく分からない。

けれど、別に大切なのは時間の長さではない。

その中で、どれだけのことをしてきたか

どれだけのチャレンジや経験をしてきたか

どれだけ自分の頭で考え悩み、自分の意思で決断してきたか

そういう事のほうがきっと重要なのだろうと思う。


昔のわたしはそれとはまったく逆の生き方をしていた。

お人形さんのように生きていた。

親や先生や友達、周りの人間の言うことばかりに従っているだけの人間だった。

自分の言葉も意思もない。

それが当然だと思っていたし、それが正しいことなのだと思っていた。

何よりそれがラクだったのだ。

人に従っていれば争いも起きないし、何事も丸く収まる。

わたしさえ我慢していればいい。

けれどその生き方は、自分を殺した。

自分の考えも意思もない

ココロもない

いつしかロボットのような、お人形のような、操り人形のような人間が出来上がっていた。

それは高校を出て、ひとりの人間として社会に出た時、目に見える形で表れた。

わたしは自分が何者なのか分からなくなっていた。

自分が何がしたくて、何が好きで嫌いで、自分がどういう人間で、何をどう思っているのか

そういうことが全く分からなかった。

わたしは薄っぺらな中身のない人間だったことを知った。

そこからわたしは、わたしを必死に見つけようとし始めた。

この摂食障害を松葉杖として。



小さくて弱くてビビリの子供のわたしが、たった一人で社会で生き抜いていくためには、

何か支えが必要だった。

それが、摂食障害だったのだろうと思う。

わたしの人生のパートナーだった。

寂しいとき、過食に頼った。

苦しいとき辛いとき、過食に頼った。

不安なとき怖いとき眠れないとき、過食に頼った。

頑張るために、過食に頼った。

生きるために、過食に頼った。

頼らなければ生きていけなかった。

生き延びるための、ひとつの選択肢だったのだと思う。



本来、人はみんな何かしらに頼って生きている。支えられて生きている。

頼らないで生きている人なんていない。

たったひとりで生きている人なんていない。

頼る先はいろいろあるだろうけど、なるべくそれは沢山あってほしいし、

なるべくそれは物や何かでなく「人」であって欲しいと思う。

頼る先が少なかったり、頼る先がひとつしかなかったりすると、それは依存になる。

それだけを支えに生きることになる。

わたしは食べることや過食やお酒を飲むことが悪いとは思わない。

それでストレスを発散している人はたくさんいるし、このストレス社会を生き抜くためのひとつの手段だと思う。

けれど、それだけに頼っていたら身体を壊すよ、病気にもなるよって

心も身体も人間関係も、人生も、崩れていくよ、虚しい人生になっていくよって、言いたい。

わたしが身をもって経験済みなので。

だから、なるべく多くの頼れる先をつくってほしい

好きなことや趣味もたくさん持ってほしい

そしてその頼れる先を、なるべく「人」につくって

人との繋がりを、社会との繋がりを、本当の人間関係をつくってほしいと願う。

依存症の根っこは「孤独」だから。

きっと依存症の人はそれらをつくれたことがないんじゃないだろうか。

上っ面な人間関係しか築けたことがなく、人との深い繋がりや関係を持てたことがないんじゃなかろうか。

人の愛も温もりも、知らないんじゃなかろうか。

だから、病気がそのチャンスをくれたのかもしれない。

どうか、どうか、孤立してしまわないでください。

その先に待っているのは、究極、「死」です。

そっちに行かないで。

人のいっぱいいる方へ向かって、不安でもいいから人の中へ入って、人の愛や優しさを受けて、

温かい世界を感じてください。

わたしはそっちに明るい未来があると思います。

いつか松葉杖がいらなくなる世界が。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?