「支援」の意味とは、「一部を支えること」
支援者の立場になることがありますが、
ニュアンスの違いで、いくつかの解釈を聞くことがあり、改めて調べてみました。
これを読むと、頼りすぎるわけではなく、
それがあった方がスムーズにいくと分かることに対して手を差し伸べる、またはヘルプを出す、
些細なことからある程度大変なことまで、程度は様々…というニュアンスが、支援だということになるのかな?と解釈しました。英語だとサポートですね。
私でいったら、今は夫に収入面で生活をサポートしてもらってるし、子どもたちや友人、他の専門家の先生や仲間にも、物理的・精神的に助けられています。
車がないので、よく車に乗せていただくこともあります。
野菜達もマルチや、ビニールハウスを張って、芽が出るのを助けたりしますが、それも似てるなと思います。
日本では「支援」というと
社会的弱者への自立支援、発達支援、支援学級、支援学校…などのイメージがあり、どこかマイナスな言葉なのかもしれません。
(不登校とか発達障害なんかも、言葉からのイメージが強いよね。言葉は事実で、使い慣れてくると愛着が産まれたりもしますが…)
でも、例えば社会的弱者と言われる立場の方々は、
マイナスな存在なのでしょうか。
助けられるのはかわいそうなこと?
個人的には、そこは人の権利だと思っているため
何か困っていることをかわいそうとは思わず、
支援=自立を妨げる意味でもないと思います。
大小様々な段階の困り事はあると思いますが、
小さな違和感を伝えるなどは、美容室で髪を切ってもらうメンテナンスの感覚に近いかも。
ちなみに「福祉」に関しては、
もっと大きく温かみのある言葉として感じます。
福祉サービスを受けてなかった時期は、よくわからなかったけど。。
ただ、何かしら関連する嫌な記憶があったり、
要らないアドバイスをたくさんされたりして
自分フィルターが入っていくことはあります。
私はちなみに、スクールカウンセラーさんが苦手なのですが、目的が共有できずいい思い出がないのが原因です(笑)悪気はないです(笑)
スクールカウンセラーさんとして出会わず個人として語らえれば、イメージが塗り替えられるかもしれません。
スクールソーシャルワーカーさんには、颯爽としてる!というイメージがあります。テキパキされた方にサポートしてもらったので(笑)学校のハードルが下がりました。
つまり、かなり個人的な解釈が言葉には乗ると思っていて、それは仕方ないことだと思います。
当事者バイアスといわれるやつですね。
なので改めて、それぞれのご家庭にサポート側の立場として会う時には、自分フィルターを外すことが大切だなと思っています。
支援される立場の方々は必要があって困っているし、
困り事がわかっている時点で、ヘルプが出せます。
ただ、困り事を自覚したりそれを伝えることができるまでは、日本だと今は勇気が必要かもしれません。
困ったを伝えた時に、適切な助言がされないことは多々あり、そこはヘルプを出す側の見極めが大切になるのですが、
困っている人は客観視が難しいことが多いです。
(不登校になる子たちも同様)
それが続けば、困っても伝えられずに緊張したり、
無気力になっていきます。
文科省のデータでは不登校の理由が「無気力」の数も多いけれど、、原因はなに?という部分。
安心して困れる、安心してヘルプを出せる。
健全な支援のできる(時にはお互いに)余裕が、
みんなあったら平和になりそうだな〜と、個人的には感じています。
自己解決も大切ですが、自己管理も大切。
依存先を増やすことが自立に繋がるとも言われるようになりましたが、私も1人で解決しがちなので、あえて「支援されること」を意識して、生活しています。
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