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【エッセイ】私がおすすめする地下外国文学(アングラガイブン)作品☆4選

はじめに

日本の面積狭し。加えて日本文学の料簡狭しとあればじつに窮屈極まりない。
私が外国に目を向けることをはじめたのは今から数えてもう3年前、いろいろと読んできました。でも私ごときが、地上外国文学=メジャーガイブンを紹介することに意味があるとは思えません。せいぜい「シオのほうがタレよりも鶏肉らしさがあって焼き鳥はおいしい」とかいうのと同じくらいの主観的で不毛な感想を垂れ流すくらいが精一杯だから。たとえば「仏蘭西のウェルベックはカモミールみたいにシニカルだよね」とか。たとえば「英吉利のカズオ・イシグロは隣人付き合い苦手そうだよね」とか。たとえば「中国の閻連科はマジック・リアリズムというよりはリアリズム・リアリズムだよね」とか。こんなん無意味。面白くないです。
それにこういうのって、すでにお金貰って書かれたような書評が流通している。ググれば、いくらでも見つかる。で、ぼくはお金も貰えないのに、熱心な追従なり逆追従なりの表現活動に時間を使うというのはもはや「挙動不審」としか見られない。
整備された散歩道を歩くのは現実の生活でやれば良いのであって、つまり言語主体の虚構空間内でそんな行儀正しいお散歩なんぞにうつつを抜かすなんていうのは、正気を失っているとしか思えないです。?

今回向き合う「外国」は、あの扶桑国です!
アジアの小国、あまり文学的開拓の進んでいない、先進国の下請け工業国家と認識されている黒ずんだ未開地、文学的処女空間、もとい童貞空間についての記述、文字通り2つの意味での筆下ろし役を、私が担います。どうぞ、不届き者ですがよろしくお願いします。

ここで頭の中に、一枚の世界地図を開いていただきたい。
たいていの世界地図は海と大地に塗り分けられているものなので、まずは大地に目を向けましょう。そのなかに、やけにのっぺり面積の大きな大地があることに気づきましたね。ユーラシア大陸です。その大きな大地から向かって右、人によっては左に、馬酔木の花のようにちまっこい一個の大地があります。それです。それが、今から紹介しようとしている扶桑国です。
文化・風土・外交・産業そのあたりの紹介は別稿に譲って、早速もう、扶桑国の文学事情をご紹介します。推しの布教、これならお金をもらえない仕事とはいえ納得できる。紹介したいのは4人。すでに邦訳のあるものについては邦訳を参照し、それ以外は適宜よしなに訳してます。雑な訳ですので誤訳など見つけ次第、優しい口調で指摘していただければよろこんで修正します。

1. 随筆家 ヱントッリ・ポッケオンモリ

この人の作品は、どれも400文字から800文字程度の短いものばかり。集中力が持続しないらしい。
つい最近、電子書籍限定で出版された新刊「ものうい301」には、この人の過去作約300が集められていて、よくそんなに書いたなと思いますね。すごい。で、実際、「脛/膝/太腿/連帯 ジャーナル誌」のインタービューでも、よくそんなに書きましたね、みたいな質問をされていて、その回答が以下。

もっと書いてますよ実際ね。でも、そのうちの9割以上の内容が重複してるんです。同じことばっかり書いちゃう。なんで今回「ものうい301」に集めたのは、そのなかで互いに似ていないものだけなんです。

脛/膝/太腿/連帯 ジャーナル誌 2022年11月号 インタビュー:それはスプロールするかしないかによる

私に言わせれば、この人の自己検閲は甘かった。
たとえば「北側の窓」と「窓際のおっとりさん」の二篇。これ、ほとんど全く同じ内容の随筆ですよ。ライオンズマンションの一室、作家自身と思しき子供、ある一室の窓が北を向いている。夜になると北風が吹いてガタガタ鳴ります。あまりにうるさいし不気味なんで、昼間に父親に直してもらうことにした。真夜中、静かな寝室で子供はむしろ寂しくなって眠れなかった。そう、がたがた鳴らしていたのは、先祖の優しい亡霊だったのです。窓の建付けの悪さという言い訳を失った亡霊は、もうこのマンションの窓に現れることができない。湿ったぬくもりを含む北風は二度と吹かない。という内容。並べてみると、その類似性が際立ちます。たぶん、二重に重ねて太陽に透かしてもほとんどズレが見えないんじゃないか。
でも、この人の良さは内容ではなく、文章なんです。以下、「窓抜けの日」からの引用。

おお、窓よ! 透過する意識の境界面、表面張力のえげつない拒絶、透明にして不透明な平行移動の蟹。この窓のために一体何人のそそっかしが頭を顎を膝小僧をつま先を傷ませたことだろう、この暴虐者、生粋のサディスト、無言の密告者よ。窓、その先へ私を遷移させておくれ、その照り返しに私を写し込んでおくれ、入国管理局のごとく完全なる専制をもって、封建をもって、無意識の血糖意識をたぎらせて、赤黒く醜悪に存在しておくれ。そしてかかる日には、見つからないように、水のごとく空気のごとくに、透明に退却せよ。

窓抜けの日

こんな不明瞭な文章が、地上に膾炙するとは思えない。だから地下なんだ。でも地下で良かった。こんなのが空を舞うビラのように、気まぐれに人の瞳に飛び込んでご覧なさい、それこそ末法です。
……でも、こんな文章を毎日書き続けるなんて、なんのつもりなんですかね。まあ、珍しい文学を読みたいというだけの、私たちのような禁断症状に悩まされる患者どもにとっては、作家のおつもりなんてどうでもいいわけですが。読めればそれで、あえて主題を訊いたり解釈したりするまでもなく。
ただし、激越なものがあると思う。それは感じます。SNSの垂れ流される愚痴に似た内容とはいえ、自然に流れるままにしておかず、しっかりゼラチンを入れて固めています、随筆の体裁に。そのひと手間、その気概、破れかぶれの文学への期待。そういったものを味わい方におすすめします。

おすすめ度★★★★★

2. 小説家 モンゼーン・トポー

好々爺、というには仙郷に長居しすぎたかに見えるこの老作家、生まれは1922年、目尻のシワを深め、口元に点滅するにやりとした笑みには、共産党員だった20代の若い幻影を容易に重ねられる。創作意欲は旺盛で、毎年新刊を出している。
ネットリテラシーも十分、ツイッターのフォロワーは12944人(2022.4調べ)で、若者からも「かわいい」長老として親しまれている、らしい。おいても好ましいのは、インテリジェンスあふれる現代小説家諸賢にみられる政治的演舌の絶無であること。あの凡庸さたるや。他の投稿との区別のつかない書きぶりに、小説と「私生活」の分離のための努力があるとはいえ、その努力の結末としての技術の抛擲、空中回転を経た後の退屈な区々たる一般論という安心安全なマットレスの上への無難な着地にどんな拍手がありえるだろう?
さて、私が今回おすすめしたいのは、1966年4月から雑誌「脛/膝/連帯 ジャーナル誌」(「脛/膝/太腿/連帯 ジャーナル誌」の前身)に1年間連載され、1967年に発行されたかなり古い作品「きみの延髄を舐めたい」です。これは発禁処分にするまでもなく当時からほとんどの人に無視され読まれることのなかった作品で、最近になって再評価の機運が高まってます。去年、不倫映画として単館公開されました。が、あれはひどかった。というのも、昨今のポリティカル・コレクトネスの影響か、終盤落命するヒロインのトーコがエンディング後に実は死んでいなかったことになって、天使の体で復活するんですね。じゃあ、原作がそういう話だったかというと、全く違う。改変だというけど、どうかな。下手な手付きでプロポーションを崩してしまっていると思う。原作では、ヒロインは死んだままです。その死を一旦は受け入れようとする主人公ですが結局もう現実に希望を失って、深い森に裸で駆け込んでいくあの引き返すことのできない怖い疾走感、これが若さですよ。生の不条理に抵抗する力がある。
たしかに、主体性なきヒロイン。主人公の心の機微を描くために、最初から死ぬことが運命づけられているこのご都合主義は、現代的ではない。でも、現代における現代性は、未来においては当然、現代性とは呼べない醜悪な代物に経年変化している。だからといって、現代の作品をあらかじめ未来に合わせておくことはできない。現代の時点では、未来のことなんて誰にもわかりませんからね。だからといって、未来において現代の現代性を、未来の現代性にアップデートするべきか、してもいいのか、この問題は難しい。
映画の話はこれくらいにして、原作に戻ります。
以下、肉屋でメンチカツを買った主人公が帰り道、偶然に出会ったヒロインにそのメンチカツの2/3を分けてあげる親切なシーンからの引用です。

ぼくは食物をわけあたえることを好まなかった。独りじめのよろこびを知っていた。横目で盗み見したトーコの横顔。すずしげなこめかみに、耳からすべったひとすじの黒髪がながれていた。ぼくがひとくちかじった。おいしい肉汁。ぼくはブランコをこいだ。トーコはブランコをこがない。ぼくは、メンチカツをかじったのでこいだ。トーコはメンチカツをかじらないのでこがない。ぼくはこいだのでたのしいし、風が吹く。トーコはこがないのでたのしくないし、風が吹かない。前にこいだとき、ふりかえってトーコの顔を正面のすこし上から見た。しっかり見た。どうして悲しげなんだろう? Energyがない。石灰まじりの砂みたいに青白い。
あんた顔いろわるいよ、ママならそう言ったはずだな。ぼくのママは人の顔色に敏感だから。ざざざ、とぼくは地面をかかとでけずって止まった。ぼくは食物をわけあたえることを好まないが、このときぼくはふつうだった。ふつうのきもちだった。トーコは、いらないと言った。ぼくはふつうのきもちだった。嬉しい気持ちにならなかった。メンチカツをぜんぶ食べれることがもう、うれしいことじゃなくなっていたんだ。たべなよ。トーコは、おそるおそる、ぼくの食べかけのメンチカツを受け取った。ぼくはふつうのきもちだった。トーコはひとくちかじった。とっても小さなひとくちなんだ。

きみの延髄を舐めたい

なにげないシーンですが、幼少期の主人公とヒロインにとっては重要なシーンです。というのも、この直前、ヒロインのトーコの母親は、三人のミサイルマンに暴行されているからです。ミサイルマンたちは、占領国の兵士のメタファでしょうが、じつにやりたい放題の不気味な男根の現化です。やつらは不都合があるたび毎、自身の頭部を指さして「ここで爆発するかもしれないな!」と脅してきます。映画ではカットされていますが。
私個人のおすすめからは外れますが、直近の作もご紹介します。「卒倒する市城(2021)」からの引用です。

おまえの目は、ほとんど竜の目玉ではないか。ええ、シマウマを食ってる。ぼくは、とても不思議な気持ちだ。カナリヤが泣いていたからだろうか。布団には二重のシミ。おまえの目には涙がこぼれないのか。おまえの汗は雫にならないのか。「木漏れ日ですよ、先生。散歩はどうしましょうね」ぼくは一匹の飼い犬じゃないか。ああ、禿鷹が輪を描く。ぼくは、虫けらよりは高官だよ。炸裂弾の音がする。脚が萎えたのは昨日の晩だ。枯れ木みたい。骨を引っこ抜いて、ぼくの飼い犬遊び道具にしてあげたいんだ。おまえの知らないところでやってやる。ぼくがおまえを逆なでしたから、おまえは昨日みたいなことをしたな。おお、太陽が草木を枯らす。ぼくは、伸び縮みしてばかりだ。蝉が黙ってぼくの話を聴く「じゃあ、今日はお散歩はなしですね。せっかくいいお天気なのに」ぼくは雨がすきだ。お水を飲みたい。

卒倒する市城

骨太の小説を読みたい方には特におすすめ。時間があるときに、ゆっくり読みたいタイプ。

おすすめ度★★★★★

3. 詩人 モーラモル・プーストック

この詩人がかの元好問に並ぶ偉大な詩人であるという評価は、あと数年もあれば定着していることでしょう。私がこの詩人を知ったのは、扶桑国で大きな動きのあった年、あの歴史的地殻変動、政治的動乱が起こった年のことでした。この詩人は、世間の動きとざわめきに辟易し、自身の心の感覚を麻痺させるために非常に多くのアルコールを摂取しました。肌荒れを気にする人種が、一日に数リットルの水を飲むように、この詩人も一日の接種ノルマのアルコール量を決めて、日々その目標に向けて努力しました。サウナに行き、ランニングし、ときには口から出るつばをしきりに壷に吐き出して、体中の水分を絞り出し、アルコールに入れ替えました。お陰様の意識朦朧、前後不覚となってからは、詩作のペースはがくんと落ちましたが、酔っぱらいの独特の筆致がもともとの狷介な調子に新たな方向性をつけて、地下文壇からの評価は一気に高騰した。
私はしかし、そのような文壇からの評価が、この詩人の寿命を縮める結果を招いたのだと信じます。どうして生きたまま山中に掘った穴の中に飛び込み、土に溺れて窒息死をするという結末を選んだのか。それは絶対に詩人の千鳥足が招いた不慮の事故というものではない。それは絶対に気まぐれな才気ある若者の衝動というものではない。それは絶対に一人の活動家の過激思想の実践といった明るいものではない。
はたして、私たちが本を読む理由にはいったどのようなものがあるでしょうか。なぜ、本なんぞ読む。私たちが本を読むのは孤独を癒やすためにほかならない。同級生に、私たちの胸中に抱く美意識を共有できるような友人の可能性はなかったためにほかならない。私たちはときおり本に語りかけている。
「こんにちは。今日は天気が良いね。光化学スモッグが出てるらしいよ、こわいね」
私達の友人は返事をしないことばかりだ。かすか開いたふすまに私たちの母親の驚愕と戸惑いの表情があるのは、子供部屋から聞こえてくるぶつぶつした独り言を不安がって覗いたせいらしい。不安はさらに深まったことだろうが、私たちにとって不安は語りかける言葉の数だけ減少してゆく仕組みなのだから仕方ない。
我慢強さには自信がなかった。だからこうも怒りっぽい人格が形成されたのだと思ったのです。でも、それはむしろ逆だった。我慢なんてする必要はない。我慢して、反省点を挙げて、PPAPサイクルを回して再生回数を増やしてやる必要もない。嫌なことがあったら、すぐに吐き出してさっさと忘れてしまえばよろしいというさっぱりした方策。これが長生きのコツ。友達がいなければ、ツイッターとかいう痰壷に吐き出してしまえばいい。あるいはアルコール。この液体は苦悩を希釈する。
きみは一体何のために生きているの?と問われることほど恐ろしいことはない。ナイフのような問いだと思う。プーストック氏を見つけた捜索隊(氏の奥方が警察に通報し、捜索隊が組まれた。氏はEメールで自分の死に場所を連絡してあった。そのあたり、死体を見つけてほしいという気持ちがあったのかどうか。衝動的な自殺ではないことは、準備された穴掘り道具の周到さによって否定される)は、もぐらのセイレーンの歌か、あるいは地中を飛び回る大鴉の鳴き声とも思われ、その穴底から聞いた。穴は深く、上から土は被せられてはいなかったが月光の照らし出す深度は浅く、底は闇に塞がれて底が知れない。だから、捜索隊員たちは穴底の墜落者はまだ生きていると思い込んだ。死人に口なし、歌を歌う死人など迷惑極まりないのである。地下のカラオケ大会、どうせ演歌ばかりの選曲なら、世代間で別室開催になるだろう。
怨み言ならうんざりなのだ。死人の怨念だのなんのと、聞こえてくる言葉はすべからく歴史を恨む声だけれども、あるいは詩人の手によって拡大された感傷かも分からないではないか。私たちは知ることはできない。それが、私たちのエンタメなのかもしれないだろう。感情の高ぶりのなんて心地のよいことが。道義心に燃えることのなんと楽しいことか。正義を身に宿すことの、なんと清々しいことか。悪を打倒せよ。非人間的行為を糾弾せよ。せよ!せよ!せよ!
それはもう見た。十分見た。
もう飽きた。
飽き飽きした。そんなひねりのない道具立てのもとで、まだ人が死ぬことがある。
プーストック氏が、穴の底から歌い上げた言葉、それは誰も記録していなかった。捜索隊員に非を負わせるべきでない。氏がもうすこし滑舌がよければ、違う結果になっていたはずだったからで、埃舞うサーバールームの配線のように絡まりあった詩句ではとてもじゃないが耳の穴に詰まる。氏の責任だ。
どんなことを思っていたのだろう、氏はどうして死を選んだのだろう、どうして生きていくことをやめ、表現することを諦め、なにもかもが無意味であったとして過去を上書きしてしまうような自死を選択したのだろう。それでは生き恥をさらすようなものではないか。生きてきたことが全て無駄であったと、そんなことは自明なのに、そんな単純な一つのセンテンスの表明のために、過去のその時その時の表現を足場にしてしまったのだ。泥の付いた靴なんぞで、せっかく清潔に保存された感情の上に上って、叫んでみた言葉は一瞬で吹き飛んでいってしまった。月並みの言葉。そしてあなたの肉体は崩れ、あとには泥だらけの死んだ猫のような詩句だけが転がっている。見える、雑踏がその詩句を蹴飛ばしていくのを。犬どもに噛みつかれぼろぼろにほぐれてちらばるのを。
いったい、どうしてこんな事になってしまったのか。私たちはあなたの死によって憔悴している。まるで裏切られたかのような気持ちでいる。あなたは、私たちを頼るべき文殊を知らない、孤独な善財童子にすぎないのだと言う。じゃあ、あなたは一体何者であったのか。
もはや知ることもままならない。

おすすめ度★★★★★

おわりに

ところで、この紹介記事、4選のはずがいつのまにか3選になっていました。正直、びっくりしてます。まさかこんなことになるとは思っていなかったからです。4は4であり、3は3のはずだからです。4が3になることはありえないはずなのです。
まあでも、そんな些細なことに目くじらを立てるような小人はこの記事を読もうともしないでしょうから、私はなんの心配もしてない。

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