今さらながら『バカの壁』を読んで。

書名:『バカの壁』
著者名:養老孟司
出版社:新潮社
発行年:2003年4月10日

■はじめに

ベストセラーなのでとりあえず目を通しておこう、と読んでみたのだが、想像していた以上に重厚な内容だった。
自分は著者の他の著作も含めてまだひとつも手にしたことがなかったので人となりも主張も知らなかったが、以前佐藤優の本の中で、必読のベストセラーと紹介されていたため興味を持ったのだった。

要約するのが難しいくらい、各章各節の主張が濃い。
なるほど、と膝を打つ部分もあれば、
おそらく既に別の多くの本を通して自分に定着していている考え方から「そうですよね。わかります」という点も多い。
一方、共同体や教育についての主張部分は、基本的に同意するがまだ自分の中で腑に落ち切っていない部分が複数あるので今後の自分の課題として残しておく。

特に意識に引っかかったポイントは以下。

・人は流転し、情報は不変である。
・個性を伸ばせという主張は馬鹿げている。
・人間は脳が発達して余計なことを考えるようになった。これは巨大になった脳の機能を維持するためで、無駄に脳内で入出力を繰り返す行為。
・人間を超越した超人(超人類)は、人間の意識プラスαなので、人間には理解できない。
・百姓や軍隊などは否応なく考える前に身体を使わされる機会があったから、自分の身体を意識できた。今はできていない。
・虚の経済(使用価値に対する「価値」)を切り捨てるべし。

順に書いていこうと思う。

■「人は流転し、情報は不変である」?

 万物流転。人の細胞も入れ替わるのであるし、人間の記憶だって不安定な物なのだから、朝起きたときの自分は昨日の自分と違うというのは、その通りだと思う。
著者が主張するように、特に自分は不変で固定的な存在であるとは思わない。
 一方、情報は不変である、というのは、やや暴論に感じた。無理に二元論に当てはめようとしているからだろうか。
 確かに情報を構成する、単体の記録は不変である。
 しかし例えば、友人が「昨日小説読んで面白かった」とでも口頭で教えてくれたとしよう。
 これはひとつの情報だ。
 で、そのことを自分が覚えていて、半年後にそれを読んでみた。確かに感動した。それを友人に伝えたら、
 「え、そんな本読んだっけ?」と忘れていた。。
こんなエピソードならザラにある。

さて、この情報は不変であるか?
 
情報は、データなり本なり石板なりに打刻された単体の記録と考えれば、確かに不変だが、
特に記録されていない情報に関しては、曖昧だったり、上書きされたり、改変されたり、消え去ったりし得る。
古代から伝わる書籍だって、写本に写本を繰り返し、多くの人の編纂を経て今に至ったとしたら、それは生み出されたときの情報から変わっていないとは断言できない。
ハードディスクやUSBメモリなどに保存したデータも10年すると消えたり破損したりする。
書籍もネット情報も玉石混交で虚実ない交ぜである。
いわんや、変わり続ける人の記憶などほとんどバーチャルなものだ。
ましてや死人に口なし、棺桶まで持っていけば秘密は葬られてしまう。

日々大量の情報に接しそれを捌き続ける現代に生きる自分としては、情報を不変で固定的な単体のものとして受け取るよりも、
川や風の流れのようにフローなものとして受け取ることの方がなじみ深い。
人間の細胞や川の水も突き詰めれば単体の小さな粒子になるように、
情報もピントを絞れば単体の小さな粒子であっても、遠くから俯瞰すれば大きく動くものになる。

この辺の認識の違いは引っかかった。

本書の後続の主張がこの「人間:情報」という対比で進んでいくため、
人間の情報化だとか、都市化・情報化のような表現がしっくりこない。

思考の枠組みとして社会的な課題を嚙み砕くのに便利な物差しであるとは思うが、ややズレを感じた。

■「個性を伸ばせという主張は馬鹿げている」?

著者の主張をまとめると、
まず「個性は身体性であり、最初から人それぞれ違う」。
これは分かりきっていること。私とあなたは違う。
生まれも育ちも違えば、当然それぞれ異なる。

我々が個性を伸ばした方がよい、と考えるのには2つの理由がある。

1つ目は単に承認欲求。
他の大多数から一歩抜きんでて活躍したい、注目されたい、賞賛されたい。
みんな違ってみんないい、とわかっていても、自分を特別と思いたいものだ。自信を持ちたいのだ。

「自分は他の人とは違う身体を持っているからヨシ」と根拠のない自信のようなものを感じて100%ポジティブでいることは、なんだかんだ難しい。
この承認欲求を、他人に対する「個性を伸ばした方がいい」という発破の理由としては用いないし、むしろ逆なわけだが、自分自身に対して「個性を伸ばしたい」と思う気持ちの根底には、これがあるだろう。

2つ目は、報酬。
高度経済成長期までは、画一的な人間性でも十分にリターンを得られた。
右向け右で揃っていても、未来は明るく、現時点よりも豊かな将来を得られる確信があった。

しかし現代はそうではない。
そこそこの質のものが量的に飽和し、物的な欠乏を感じることはほとんどない。
この飽和状態の中で輝き、利益を上げ、大きな報酬を得られるものこそが、個性なのだ。

アーティストでも、アスリートでも、起業家でも、なんならお笑い芸人でも、他とは違う新しい価値を生み出せる人が大きなリターンを得られる。
所得格差が拡大し、一握りの大富豪と大多数の日々我慢して節約にいそしむ中下流の人々、という構図の中では、
現状を打開するのに「個性」が注目される。

上記のように承認欲求と報酬というモチベーションが、個性の尊重や個性の進展を求める。
個性を求めるあまり道を踏み外すと「炎上」してしまうわけだが、我々は基本的には非社会的な個性を求めているわけではなく、社会的な個性を求めている。
「個性」というワードは、誰もがうらやむ才能から、奇異な言動で不穏を発生させるなんらかの疾患者・障害者そして混沌をもたらすアウトローまでを含んでしまうため裾野が広い。

我々が言う「個性を伸ばせ」という発言は後者を意図していない。
これを批判するのは揚げ足取りでしかない。

■「人間は脳が発達して余計なことを考えるようになった。これは巨大になった脳の機能を維持するためで、無駄に脳内で入出力を繰り返す行為」?

率直に言って、「脳の機能を維持するために余計なこと(抽象的なこと)を考えるようになった」とは思い難い。

何万年もの長い長い年月の中で、男女間の生殖活動やそれに伴う駆け引き、また家族集団・民族・国家などの単位における駆け引きで、抽象的な思考は求められてきた。

過酷な自然を克服し、次に同じ資源を奪い合う敵・ライバルを力で、あるいは戦略やお金で克服するためには、的確な未来予測が求められる。

また、それらのためにより効果的な道具を生み出したり、快適な住居や安定的な食料供給や怪我・疾病の治癒のためにも、高度な思考能力、抽象的な概念を生み出し、操作し、現実に適用していく能力が必要だ。
これらは、「余計な事」ではないはずだ。

また抽象的で即物的ではない概念として浮上する、信仰や宗教、神仏などについて考えてみよう。
人がこれらを求めるのにはいくつかの側面がある。

・儀式など非科学的な方法で自然環境や他者などに作用を与えようと試みる。アプローチが異なるだけで科学研究と同じ意図である。
・腕力・武力では太刀打ちできない敵に対し、権威を生み出し、資金を集めることによって優位性を示す。
・死への恐怖をやわらげ、克服する
・人の生死や結婚といった節目に介入する権利を創造し、それによって利益を得る
・道徳を広め、困窮した人を助けることで社会を安定させる

上記の要素はどれも、間接的ながら生存競争に直結する。

敵を攻撃する、食物を採取するといった直接的な行動ではないため、雑に言えば「余計な事」かもしれないが、ただ「脳の機能を維持するため」だけのために、脳内の出無駄に入出力を繰り返し、抽象的な思考を行っているとは考えられない。

■「人間を超越した超人(超人類)は、人間の意識プラスαなので、人間には理解できない」?

2次元に生きる者は3次元を理解できない、という考え方なのだろうと想像するが、
学習や慣れなどによって、その思考を理解することはできるんじゃないか、と思う。

これに関しては正直なところ希望的観測で、気持ちとしては賛成反対が半々である。
インプット量、学習量を増やすことによってAIが成長するように、人間も成長は可能だと信じたい。
チンパンジーをどれだけ学習させても人間に到達はできていないが、脳のサイズだけによらないブレイクスルーはなかったのか。
そのあたりを知りたい。

■百姓や軍隊などは否応なく考える前に身体を使わされる機会があったから、自分の身体を意識できた。今はできていない。

おそらく、人々の平均的な身体使いのレベルのことを指すのだろう。

職人、アスリート、音楽やダンスなどの身体を使ったアーティストなど、精査な身体操作を行う人は現代でもいる。
その上限値が低いということか、はたまた活用レベルの低い人との割合のことか。著者はどちらを意識しているのだろう。

ある程度の物理的な脅威を取り除いた現代では、生存競争はより抽象的・間接的になっているため、知的労働・頭脳労働の方が身体労働より優位になっているのは確かである。
ただ、それが「軍隊を経験した」といった程度で変わるかどうかは怪しい。
女性だって軍隊で身体を酷使してはいないのだし。

身体を使用する限界値を知る、ということは重要だろうと思う。

私は例えばバンドなどでドラムを叩いているので経験的に分かるのだが、一度全力でぶっ叩いた経験がないと、ダイナミクス(ボリュームの幅)のコントロールはできない。
この身体的な経験が、表現の幅のブレイクスルーにはなる。

養老氏がいうのは、これに近いことなのだと思う。
であれば、学校において、体育の身体テストや、運動会、マラソン大会や球技大会などで自分の身体の限界値を試すという行為は意義があるだろう。

ここに競争原理を含めることの是非については別として、持続性、操作性、バランス感覚、最大発揮などの限界値にぶつかってみる、という行為は良いことだろう。

■「虚の経済(使用価値に対する「価値」)を切り捨てるべし」?

これに関してはとても複雑な面がある。まだ自分なりの最適解は見つけられていない。

例えば自分が大きく稼ぐことができ、蓄財したとする。
これは将来、加齢に伴って労働収益性が減ることを見込むなら、しっかり貯めておくのが正解だ。
しかしそのようにして数十年間も価値を留めおくのであれば、
使わない間、それを他の人に貸し出し、社会的な発展に役立たせるという、いわば原始的な投資行為自体は正当化される。

問題は、貸し倒れしてしまうリスクのために、利子を取るという仕組みだ。
本来の貨幣なり米なり、財の使用価値自体は変わっていないのに、時間がたつだけで利息が付いて増える。
これは、貸している間に生まれる”可能性”のある価値を先取りしていることになる。

お金を貸した人が良い農具を買い、それで多くの野菜を作ったとすれば、貸さずに古い農具で作り上げた野菜との差が、投資効果であり、そのリターンを利子として支払うという行為は、価値=使用価値と遜色ない。

しかし投資先でまた投資して、という形でみんなで価値のみを保持し、新たな生産行動が先延ばしになればなるほど、不確定な、あくまで可能性としての「未来の使用価値」を先取りしてしまうことになる。
これは「虚の価値」と言えなくない。

これはとても危険なことだ。守られるかどうか不明な口約束に等しい。

そういった意味で虚の経済というものは、不都合を隠蔽し、利益を最大化し、資本を増やそうとする人間の欲との相性が悪すぎる。

欲望を制御できない以上、少なくとも虚の経済には制限をかけるのがベターだろうと思う。

■タイトルである「バカの壁」だけに注目するのはもったいない

「バカの壁」が何を指すのか明確化されていないが、要するに「知らないことや興味のないことに関する情報をシャットアウトしてしまう、またはインプットしても何も思考が働かずアウトプットにつながらない」ということを、壁と表現しているわけだ。

人はみなそれぞれの環境がある。
それぞれの身体を持つ。よってその人にとっての、受け取った情報の重要性は異なる。
既存の知識も違うし、その情報を全く活かす必要のない世界に住んでいる場合もあるだろう。

それでも、誰にでもそういった壁が存在することは知っておくべきである。
価値のある、ある情報が、人によってゼロになることもあれば、真逆に伝わることもあるからだ。これを知らないことはリスクになる。

それを本書の序盤で解説しているわけだが、この本を読んだ感想がそこに終始してしまうのもまたもったいない。
ここで壁を作ってしまわないで、現代では時代遅れだとか手あかがついているだとか言われてしまう内容でも、最大限自分に取り込んで活かした方がいい。

自分の時間は有限であるから、本当に必要な情報のみに焦点を当てて取捨選択したくなってしまうが、あらゆる情報、あらゆる経験が自分の脳の坩堝に放り込まれて自分を成長・進化させる。

AIが存在感を示す時代でこそ、そのブラックボックス化された思考の坩堝における化学変化、不確実性を楽しみ、そして活用したいと思う。


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