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生きること、学ぶこと


ICEアプローチが今なぜ求められるのか?


〜カナダで生まれて日本で育ったアクティブラーニング〜


ICE構造


8章      資本主義の変容とデジタル社会への向き合い

〜全体を見る眼で、現代社会を見通し、考える〜

 
意味空間のズレ
 
大手の情報系企業に勤める知人が「今度D Xをやることになった!」と言うので、何をやるのか尋ねると、今やっているコンピュターシステムのマーケッティングの仕事と内容は変わらないが、DXという言葉でないとユーザー獲得に至らないためと言う。DXの象徴的な話である。「DXをやっている?」ことで、何かの価値を生み出しているかの如く社会は動かされている。日本社会の特徴でもある。

人と話していて互いに内容は理解しているはずなのに、何か微妙なズレを感じることがある。互いに思考する「意味する空間」が違うのではないかと考える。内容は理解しているはずなのに意味していることが違うのである。新しい事業の可能性の評価をするための議論で考えたことである。座標軸の違いか。私たちが説明したり、叙述したりする時に「意味するもの」と「意味されるもの」の違いを覚醒することは難しい。溝を埋めようとするのではなく、互いの見方・考え方の違いとして認識することで会話が成り立ってくる。ズレの発見こそが本当のコミュニケーションを可能にする。

言語活動は思考のどこが表出されてどこが表現されないのであろうか。言い残されたものにむしろ思考の本質はあるのではないか。「意味するもの」は、理解を深めるための応答が自由に行われるが、その結果として「意味されるもの」が豊かになることはない。この語られていないものの中に、本当に「意味するもの」として伝えたいものがある。ミッシェル・フーコーの「臨床医学の誕生」を読んで考えたことである。
 
人間は生まれながらにズレを持つと考えるユクスキュル、ディスクリートな空間に人間の差異性を感じ取った建築家の原広司、デジタル社会の束縛から逃れるために芝生の根茎のような横へのズレを求めたドゥルーズ、小説のテーマや書き方にズレを考えたルイ・クレジオ、夏目漱石、大江健三郎を読む。
 
人間は「ズレの意識化」によって自らの存在を確かめている。自然に向き合い秩序と混沌(カオス)の往還に揺さぶられる小宇宙としてのズレである。
 
人間の生まれながらにある巨大なズレを考察したヤーコプ・フォン・ユクスキュルがいる。「ユクスキュルの環世界には種の固有の環境と全体の共存のエコシステムがある。本来の実在である自然(ピュシス)から追放された人間は、秩序からのズレをスタートから持っている。無秩序を生み出す過剰的な存在である。したがって、人間が生き物として秩序を維持していくためには、情報による制御の高次化が必要になる。ところがそううまくはいかない。やがて情報の過剰が生み出され、カオスとなる。」
(ヤーコプ・フォン・ユクスキュル、クリサート「生物から見た世界」)
 
「差異性に拠った空間概念」が人間にもたらすtraversingの意味を実践し続けている原広司が若い時に世界の村落を周り発見した。建物は有孔体であり、全体が管理されてはならない。住居に都市を埋蔵するのである。人が暮らすことに存在するズレの意識は、地球環境の危機が迫る中で自然に対する人間の解釈を新たにするものである。原は「住む場所のない人々が大勢いることを忘れてはならない」ということを考え続けている建築家である。

「ディスクリートな社会は、個人が自立し、平等なものであり、集団が形成されて行く。一方、デジタル社会はvisibleになることで新たな社会像が形成される。そうなると身のまわりを秩序づけるものが必要になる。均質性に代わる「差異性に拠った空間概念」である。人間は自然の一部であるという。原の設計した建築物は部屋の数だけ世界がある。浮遊体である。」
(原広司「「YET」HIROSHIMA HARA」)
 
人間により意識化されたズレは、自らの内部との対話との往還の中で生まれるものである。三人人の小説家を想起する。
 
カオスから脱皮するために「物質の諧和」に没入して自らの秩序を守ろうと太陽に焼かれてしまうズレもある。ルイ・クレジオの小説には、大宇宙と小宇宙が通奏低音として存在する。自らの秩序を守るのではなく、大宇宙に融合してカオスの中に秩序を求めるズレである。
(J・M・G・クレジオ「調書」)
 
夏目漱石は文学を定義するのに、外部存在からまず学び、その上で自分のものを根本的につくりあげる必要があると覚醒する。自己本位とは初めから自分の味覚があるのではない。そう言うものの全てが奪いつくされていると言う自覚から出発する。柄谷行人は外部からくるものは共通感覚を超えるものであると考えた。「漱石は、人間の不思議として倫理的な問題と存在論的な問題が二重構造になって自らがわからなくなっていく人間のズレを描いた。」
(柄谷行人「畏怖する人間 )
 
漱石のズレは倫理的位相と存在論的位相であることを発見した柄谷は、晩年の「力と交換様式」まで、このズレを探求する文学・哲学評論家であり続けている。

アイロニーの作家として作品のつながりを通してのズレを描いたのは大江健三郎である。
(小森陽一「歴史認識と小説」)
 
対象化した私を別の私に向き合わせて、それを変化する社会の問題に通底させていくという方法は独自のものである。大江は作品と日常を通して人間の生き方のモデルを示した。もし大江の小説にズレが存在しなかったら最後まで書き続けることはなかったに違いない。
 
これらのズレとは全く異質のズレを感じるのが日本の進めるDXなるものである。日本のズレの地層から生まれた表層的かつ意図的ズレと言える。
 
これまでも人類はブリコラージュ、言葉、印刷、メディア等によって生き延びる知恵を得てきた。本能と知力によってトランスフォーメーションをして人間は存続してきた。道具としての科学技術の力を得てトランスフォーメーションするのとは異なる位相がある。DXにはそのことが触れられていない。
 
今進められているDXは国民の理解からはかけ離れた存在になっている。DXは政治の貧困と国民の政治への無関心の中から生まれたものの一つの象徴でもある。経済的な豊かさをもたらすことを優先するDXを支持する国民は多くない。戦後、日本は新しい憲法により民主主義という確かな方向を得た。しかし、外部の力による内発的な本質を持たない民主主義は、経済復興から経済成長を優先した矮小化したものにならざるを得なかった。民主主義は本来闘いを通して得られるものである。永田町と霞ヶ関は、戦後、国民に民主主義の国としてやるべきことは何かを未だ問うていない。政治の問題ではあるが、それを放置する日本社会に蔓延す個々人の至らなさがむしろ深刻である。私たちの社会に内在する慢心や無責任さを自覚しなければならない。日本の社会全体がズレの地層の上にあって揺れ動いている。デジタル社会やDXの考察を通して、日本社会に存在するズレの地層を見る。
 
日系米国人として、外から日本社会を冷静に眺めたマサオ・ミヨシは、日本社会の自我関与や自己責任の希薄さを指摘する。「日本の知識人は深く考える習慣から離脱している。話し言葉化に巻き込まれる会話主義になっている。米国では、書き言葉を持続させている。書くことと話すことのちがいは自我関与する問題として物事を考え続けているか、あるいは「孤独な時間」を使って考えているかということと瞬間にその場でことばを匠に操ることで見かけの知識人となるかの大きな違いがある。言葉たくみにその場をリードできるが注意深い学びにはなっていないのである。付け加えれば、日本は第一世界ではなく、第三世界にいるという自覚が日本人の全体に薄れている。」
(マサオ・ミヨシ x 吉本光宏「抵抗の場へ:あらゆる境界を越えるために」)
 
このことは、学びの貧困から来るのではないかと考える。日本は経済の豊かさに比べて、文化や教育が著しく貧困である。米国、ドイツ、英国、フランスなどの先進国の中でも、この乖離が大きい。しかも政府がこのことへの対応をしていない。むしろ、この乖離の犠牲の上に経済の豊かさを得ている。その結果、経済格差による社会問題が深刻である。教育の貧困が根に存在する。
 
宇沢弘文は、戦後の教育システムを生み出した日本の社会経済システムへの鋭い指摘をする。「日本の学校教育の根底には反倫理的、非人間的な受験システムを作った現在の学校教育制度ならびにそれを作るようにした社会経済システムに問題がある。共通入試という記憶力テストという非人間的な尺度による評価で、人生にとって一番大切なものを(心)見失ってしまう体系の中に教育を閉じ込めてしまった。大学も機能していない。人間形成の場としての哲学はなく、研究のための大学院も不十分である。倫理的規範は形成できずにここから生まれた人々が形成する社会経済の中心をなすべきコアがバラバラになっている。戦後70年を非人間的、抑圧的な教育が作ってきた社会的弊害は今危機的な状況にある。教育とは、人間が人間として生きていくということを最も鮮明に表す行為です。一人の子供について、その先天的、歴史的、社会的条件の枠を超えて知的、精神的、身体的、芸術的な活動の面で進歩と発展を可能にするのが教育であり、デューイにその原点がある。」
(宇沢弘文「日本の教育を考える」)
 
 
科学技術優先と新自由主義がもたらしたもの
 
急速な科学、テクノロジーの進化は、表面的には便利で快適な生活をもたらすが、心の中の葛藤、分裂は強化される。AIのような分身的ロボットで自分の再生が可能になると「自分が何者か」わからなくなる。内部的分裂は、人の生態、文化のあり方を作る上で、現代社会の大きな課題である。
(ヨン・フォッセ「だれか 来る」)
 
グローバル資本主義は確かに起きている。市場に任せるままでは環境、教育、原子力エネルギー、ゲノムなど綻びる。地球規模の規制を行うために国家の復権が議論される。
 
山極寿一もダーヴィンの「進化論」を例に競合と淘汰ではなく、適応と分散を説く。「現代の企業戦略や社会の作り方は自然科学の普遍的な法則を下地にしている。そこには誤った解釈や適用の仕方が垣間見られる。そのため政治や経済、社会のつくり方が変な方向に進められる。」
(朝日新聞6月13日)

その例がダーヴィンの「進化論」という。自然淘汰の哲学は、その後多く修正されてきたが、政治や経済は「競合と淘汰」を重視して、「選択と集中」をスローガンに走り続けている。企業や自治体、教育組織はすべて競争させて、優れた取り組みを選択し、そこに集中して支援をしてきた。「ダーヴィンは、生物がなぜこれほどまでに多様になったのかに感動して「進化論」を書いた。「適応」という概念が大きな位置を占める。その後、1911年にフレデリック・テイラーが効率主義を提言して以降、時間の価値が重視され、私たちは時間の奴隷となった。」

皆が同じ目標に向かうと多様性はなくなる。寡占の巨大なグローバル企業が転ぶと全てに影響が出て対応できなくなる。リーマンショックのときのように。小さな変化が拡大しないように対処できる地域の性格に適応できる多様な組織を作るべきであると、山極は主張する。
 
新自由主義を標榜する社会に置いて、革新的なイノベーションを志向するベンチャーたちが、デジタル技術を使ってPFというインフラを構築するビジネスモデル(IaaS)を創出した。1990年代初頭から、GAFAMが、アルゴリズムを駆使して、webアプリケーションを立ち上げ、巨大なPFを作り、グローバルな市場を開拓できたのは、行政、企業、教育、家庭をつなぐネットワーク網と「端末市民」の存在があったからであるが、そのさらに低層には科学第一主義と新自由主義による欲望経済主義があった。科学は、往々にして暴力によって不可逆的に地球崩壊を行う。
 
この背景には、ジョン・フォン・ノイマン(フォン・ノイマン「計算機と脳」)らが関与したマンハッタン計画を契機に、「国力=科学技術」が国家運営の定式となり、DARPA、NSFなどがインターネットをスタートさせたことにある。ノイマンは、自然言語が持つものを相対化しつつ、人工言語やアルゴリズムの規範に基づくネットワークの構築を目指した。これは、科学技術集約型の「合衆国」を運営していく上で、コミュニケーションという概念に大きな役割を与えていった。やがて、ゴア等のNII(情報通信インフラ)の構築になっていく。オープンなネットワークの広がりは、「端末市民」を生み出した。
(ポール・ヴィリリオ「情報エネルギ化社会〜現実空間の解体と速度が作り出す空間」)
 
「人間の自由を確かめ、人間の全体性を明らかにするために想像力を行使すること。
ヴェトナムで科学を使いオートメーション化させたジェイソン機構(主に機密性のある科学技術に関する問題について米国政府に助言を行う、エリート科学者たちの独立したグループである。1960年に設立され、30~60名のメンバーが在籍している。その功績は、ベトナム戦争でマクナマラ・ラインの電子バリアを生み出す。)の成果が今のアメリカの科学発展のベースとなっていて、人間性の回復とは全く異なる目的にある。
頽廃した想像力である。言葉で構築するだけではテクノロジーの楼閣を築くのと同じであり、一人の個人としての人間を再構築する必要がある。」
(大江健三郎「核時代の想像力」)
 
「人間は情報政治による機械への隷属化をすぐに忘れて「技術の進歩」を享受してきた。その結果の習い性が絶対的な人工主義になってしまった。そこでは情報の自然プロセスから人間の創造がなされる。しかしこの情報の自然プロセスそのものは、人間が作った機械をモデルにして作られている。人間の脳とコンピュータを同じ構造としてとらえる科学理論が構築される。情報理論、ゲーム理論、記号理論とこれらを統合したサイバネティックスをアラン・チューリングが開発する。与えられた規則に従って機械的な操作を行うことによって、命題の真偽を決定できるチューリングマシーンである。」
(桂英史「インタラクティブ・マインド」)
 
機械と人間の間のコミュニケーションが成立するという考えである。落合陽一の人間がデジタルを使うのではなく、デジタルが人間を使うという転換がその延長にある。一旦、このような仮想現実世界ができてしまうと、我々が生きている現実空間はサイバネティックの影響を逃れられない。マルロー・メルロー=ポンティの言葉がある。「空間は知覚経験世界に限定されたものであり、それを超えたところには空間は存在しない。そこには、時間の深みがあるだけである。しかし、今の情報理論は、それを制約のない普遍的な情報として思い直そうとしている。」
(モーリス・メルロー=ポンティ「眼と精神」)
 
最も進んだ物質文明を持つ米国はコンピューター相手の会話ができないと、社会のリーダーである実業家、経営者、官僚にはなれなかった。ジャック・モノーは、科学と生命について人間の内部に同化する危険と好機という二重の顔を持った米国の危機とその超克を見つめて、高度に技術的な機械文明への警鐘を鳴らした。「専門家の考えを一方的に受け入れる社会は死に至る病める社会である。真の言葉のコミュニケーションとは何か。本当の意味合いが考えられなければならない。受け取る側に創造的な反応を呼び起こすものである。価値と知識のカテゴリーが一致しないでバラバラになっている。「客観的真実」と「価値の理論」が不可避に結びついているものが本当の談論である。」
(ジャック・モノー「偶然と必然」)
 
マーシャル・マクルーゼが示した「一次元的人間」とは、自分自身の欲望や価値観を批判的に自分たちの本当の欲望を満たしていると錯覚しているものである。「社会が提示する準備された選択肢の中から何かを選ぶだけで、その選択が、自由な発想から生まれたイメージではないかもしれません。このように、現代社会の人々は、自分の選択を自分以外の要因に委ねているという点で、自由を失っています。マルクーゼは、一次元的人間を多く生み出す社会が、人間の真の自由や民主主義、批判的思考を脅かすと主張しました。一次元的人間にならないためにはマルクーゼは、このような一次元的人間の増加に対抗するためには、個々人が自己の欲望や価値観を批判的に見直し、社会的な圧力に屈せず自分自身の生を生きる勇気を持つことが必要だと主張しました。言い換えれば、常に自分の意思で判断することを心がけ、社会を批判的に見ることが必要だということになります。」
(マーシャル・マクルーハン『メディア論――人間の拡張の諸相』)
 
科学技術の進歩は、逆に私たちの自由を奪う結果になっている。その便利な機能によって、我々の未来の可能性が狭められているということもできる。なぜなら、もしAIからの提案が無かったとしたら、私たちは全く新しいジャンルの曲を聴くことができたかもしれないから。
 
AIのテクノロジーを争うネーション間の競争が起きている。19世紀の資本主義とナショナリズムが近代科学の発展を方向づけたが、今日では政治、経済、軍事の覇権争いの渦中に、さらにAI超大国を目指して、米国と中国が競争をする。AIは地政学的にあらゆる分野で恩恵をもたらす。ラテンアメリカ、アフリカ、中東、南アジアで起きることも全て影響する。中国の一帯一路構想や国際的な金融支援とインフラ支援、ロシアとの連携など新しい冷戦が起きつつある。AIは今や国家安全保障の鍵となっている。
 
「アフリカにAIの開発センターをGoogleや中国は投資している。中東でも2020年のイスラエルとUAEの和平合意以降、AIの軍事利用はパルスチナ戦争で使われる。AIは確かに我々の暮らしをよくするものもある。しかしAIが良いものだけをもたらすことには懐疑的になる理由がある。テクノロジーの進化で個人データが急速に集まったからできたためであって、これまではアルゴリズムを訓練するための大量データーがないためにできなかっただけというに過ぎない。だから中国がAI超国家になることができた。
科学のグローバリゼーションによってネーション間の格差は縮小しても、国内の格差は広がっている。科学は人間活動そのものである。生身のニンゲンの取り組みである。
新冷戦の最前線に身を置いている科学者は歴史からどう学ぶかを考えなければならない。」
(ジェイムズ・ポスケット「科学文明の起源」)
 
米国の支配は、グローバルネットワークにおける情報に加えて金融市場を支配する仕組みもつくった。最も大きな米国の罪は自由という欲望による金融資本主義を作り出したことではないか。シカゴ大学は1889年に、ロックフェラー等の産業資本の寄付で大学院大学として創設される。カール・メンガー、レオン・ワルラスなどの新古典派経済をソースティン・ヴェブレンは批判していく。私有財産制と自由競争を前提とした資本主義は富の蓄積をもたらし、他者に対する顕示的な消費行動が支配的となる、と考える。そのために、私有財産制と自由競争を廃止しないとならないと主張した。
(ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」)

本来の米国の良心は宗教的文脈の上にある市民参加と社会関係である。他者を助けることが中心にある。ジョン・デューイは「共にすること」と「ためにすること」の区別を強調した。社会関係資本(ソーシャルキャピタル)の蓄積も、その精神も脅かされる。地域の安全、教育、民主主義が侵食されていく。ヴェブレンの正義は金融資本の圧力に屈する。
(D・パットナム「孤独なボウリング:米国コミュニティの崩壊と再生」)
 
フリードリヒ・ハイエクは新自由主義という概念を提示したが、シカゴ派のミルトン・フリードマンは、それとは異なった極限なき市場原理主義を提唱していく。金融の多様化を進めるグラス・スティーガル法が設立される。グローバリゼーション=「自由投資主義、全ての人が投資家になる」のスタートである。サブ・プライムローンの破綻はフリードマンの帰結とも言える。グローバリゼーションは市場を拡大する一方で、国家は縮小していく(小さな国家)&コミュニティも縮小化して、無償の家事はコスト化し、IT化していく。子育て放棄、教育投資の崩壊などへと繋がっていく。
(宇沢弘文「経済学は人びとを豊かにできるか」)
 
Appleは、「全体主義には戻らない」社会を、テスラは、完全自動運転(ADAS=Advanced Driver-Assistance System)を見据えたEV社会を、ウーバーは「ライドシェア」の構想を持ってスケーラブルなAIシステムのミケランジェロを、Amazonはネット店舗を、Open AI(MS)はGoogleに変わるGenerativeを構想した。Experience Changerのビジネスモデルを常に考えている。「アルゴリズム社会」(アルゴリズム社会とは、デジタル空間のルールであるアルゴリズムを持ってPFを占有する社会(ジョセフ・E・アウン「ROBOT -PROOF AI時代の大学教育」)の始まりと言える。ビッグテックと称されるGAFAMは、このように特徴的構想を持ち、それを実現するために先端的デジタル技術を開発してきた。これをDXと称することがあるが、日本で一般的に定義されているものとは経緯も内容も明らかに異なる。
 
欧州では、2008年にサルコジ仏大統領が、ジョゼフ・スティグリッツやアマルティア・センを招いて議論をする。GDPに代わる社会福祉に貢献する指標を検討するためである。

① GDP に関する古典的な問題について ② 持続可能な発展と環境について ③ 生活のの計測について委員会を設けて時間をかけた議論を重ねる。GDPに関しては生みの親のクズネッツですら投機や軍事費を加えることには反対していた。経済大国が豊かで幸せは幻想である。米国や日本を見ればわかる。議論の結果は、2009年に発表され「本報告書の『以前』と『以後』が明確に区別されるような統計システムの改革が進むことを望む」と話された。OECDのベターライフ指標である。雇用、住宅、環境等11分野にわたり、コミュニティ、市民参加、ワークライフバランスなどを考えるものである。
(村上 由美子「GDP を超えて-幸福度を測る OECD の取り組み Beyond GDP –Development of Measures for Understanding Well-Being」スティグリッツ委員会2009年)
資本主義が変容しても、私たちの未来に民主主義という考えは持続していく。自由、平等、公正、連帯という理念は決して失われない。
 
 
資本主義はどこに向かうか?
 
世界の社会学者や哲学者たちが、地球の危機は生物の生存限界をすでに超えている、その要因は資本主義の変容にあると指摘する。
 
ロシア崩壊の時「歴史の終わり」を書いてから15年間でグローバル民主主義は後退しているとフランシス・フクヤマは考える。
(フランシス・フクヤマ「歴史の終わり」)
リベラル民主主義が衰退している。リベラルは多様性に寛大すぎるとナショナリズムやポピュリズムの台頭が欧州で著しい。市民が民主主義であることに慣れてしまっている。
(マルクス・ガブリエル「新実存主義」)
「本来の資本主義ではなく一部の富裕者が資本を支配する富の偏在による格差資本主義である。格差がどんどん進んで不平等社会になる。
(トマ・ピケティ「21世紀の資本」)
 
現代の活発な発言者であるマルクス・ガブリエルは「ネステッド・クライシス」の概念で今日の資本主義の変容は複雑に絡み合った要因があると指摘する。
 
「資本主義は、生産手段の私有、契約の自由、市場の自由を基本とするが、今や多くの企業で生産手段はアウトソーシングになっている。もともと、資本主義は無政府状態に近いもので、調和は見られない自由に動き回るものである。放って置くと行き過ぎた破壊力をもつ。富を生み出す不均一で動くシステムで安定などは存在しない。常に揺らいでいるものである。現在、どのような現象が起きているかであるが、「ネステッド・クライシス」という複数の危機ではなく、影響しあった危機がある。一つの危機が他の危機の要因になっている状態である。気候科学への社会意識と実際に変動していることが人間の行動を変えている。ドイツは再生エネルギーへ大転換し、ロシアの安いガスへの依存を切り替えた。このことがロシアにも影響して、化石燃料の近代化が必要と知ることからウクライナ戦争にもつながっている。また、ブラジル、インド、中国、ロシアという新しい同盟が起きている。人間社会の根本的な真実の顕在化の始まりである。」
(丸山俊一「マルクス・ガブリエル 日本社会への問い」)
 
人間の活動の痕跡が地球の表面を覆い尽くした資本主義を温存したままでは何も解決しないと、「脱成長」を掲げた斎藤幸平は、ガブリエルより踏み込んでいる。
 
ケイト・ラウースの「ドーナツ経済学」、玉野井芳郎の「エコロジー経済学」、宇沢弘文の「社会的共有資本」などエコロジー経済を提唱する人たちがいる。人間と自然との調和を見出す生態系の限界を学ぶことを実践してきたのがエルンスト・フリードリッヒ・シューマッハーやサティッシュ・クマールの教育である。
 
柄谷行人は彼らとは異なる視点を持つ。人類社会史からみた資本主義の限界への本質的な考察である。科学技術やAIの進化で社会がどう変容するかを「生産力」にもとづいた社会構成体の歴史で見るのは間違いである。人類の歴史を交換=交通の観点で考察したのが「力と交換様式」
(柄谷行人「力と交換様式」)である。
 
産業資本は、労働者を搾取するだけでなく、自然をexploitする。人と自然の交通を破壊する。人と自然の交換に存するそれらも捻れた形でつながっている。社会関係の土台には生産様式ではなく交換様式がある。科学か、非科学かは目に見えないところで働いている力ではなく、霊的なものを承認した上でその謎を解明すべきものである。マルクスの「資本論」の読み解きとマルセル・モースの「贈与論」などから、狩猟時代の贈与による交換様式A、中世の支配と保護交換の様式B、現在の貨幣を介した産業・金融価値交換の様式Cの交換様式が資本主義の変容によって、新たな交換様式Dが生まれることを示唆している。DはAへの回帰から生まれるものである、ことが柄谷の重要な指摘である。
 
「デジタル化」が資本主義社会の構造を変えた一番の要素はクラウドである。クラウドは情報コストを爆発的に下げたので、大量の情報を処理・分析・意思決定ができるため、従来の資本主義の要素である土地、労働、資本等の経営資源の価値を変革してしまった。その結果、市場の支配力は物の作り手から消費者へシフトし、そのシフトはモノづくり能力ではなく顧客情報の掌握になった。この「資本主義の非物質的転回」は、既に1990年代から始まっていた。IT化、グローバル化、国際金融化、知識経済化などである。資本主義システムの「非物質化」と言える。知的財産、ソフトウエア、知的人的投資へと移行していった。社会はモノの機能ではなく、快適さ、デザイン、安全、シンボルを要求する。質の高いサービスを要求する。従って、企業は土地、労働、資本の代わりに情報資源を使って質の高いサービスを提供することになる。「資本主義の非物質的転回」は生産資源を減少化し(例、自動車の個人保有からシェアリング化)環境保全にも貢献するために、資本主義社会を公正で持続可能な方向へ繋げていく。
(諸富徹「資本主義の新しい形」)
 
「一体「人新世」という地質学的概念は何を示唆するのか。数十万年前にうまれた人類がたかだか数100年前に産まれた近代科学技術を乱用して、40億年近く続いてきた生命環境に深刻な影響を与えるという事実ではないのか。それがインターネットとAIのここ数十年の発達普及である。」
(西垣通「「デジタル社会の罠」〜生成AIは日本をどう変えるか」)
 
環境危機が人類の直面する最大の問題であるにもかかわらず世界は最優先していない。環境問題は16〜18世紀の植民地化にすでに大地の荒廃が始まっていた。19世紀にはすでに熾烈を極めていた。それを今日まで放置している。このままでは人類は6番目の滅亡を経験することになる。
(フェリックス・ガタリ「三つのエコロジー」)
 
資本主義の中での「デジタル化」の意味をこのように捉えると、DXは、デジタルを活用して何かを変革するという次元の問題ではないことは明らかである。資本主義社会の構造が「デジタル化」により既に変革しているのだから。

すなわち、DXとは、先端的テクノロジーの全体の力が人間社会の新たなUser Experienceを作りだし、資本主義社会で課題とされている日常的な格差問題、環境問題から人口問題、戦争などの究極的な人類の課題解決に向けて人々の行動を促すようなトランスフォーションとなることである。例えば、地球人口が100億人になった時にも全ての人間に食料を運ぶことができるようになるということである。ムハマド・ユヌスの活動のように成長に依存しない貧困の排除を実現することである。このことを考えると日本のDXはあまりにも表層的である。
 
尚且つ日本はIT化でそうしてきたように、DXも順を追ってデジタル化することでトランスフォーメーションを実現するという考えが大勢である。本命はリアルの世界(アナログ)であるという考えがある。これは正しい。すでにデジタル社会にある欧米では、提供するサービスにユーザーの変化をデータとして内在している、あるいはユーザーデータがサービスの提供と同時に行動の変化をデータとして継続的に回収できるものが社会実装されている。つまり、提供するサービスがユーザーの変革を継続的に支援することになる。デジタル社会を受容する文化が違う。
 
資本主義社会に内在する課題という枠の中でDXを捉えるという哲学が欧米にはある。迷うことなくデジタル化を推進する一方で、自由の追求にも暗黙の制約がある。Chat-GPTはネットワークコストの低減で当然のごとく出現したと同時に倫理的問題も同時に投げかけるのが欧米社会である。企業利益の追究が個人・社会の自由や社会観念を毀損しないということが政治でも当たり前になっている。「デジタル化」は何のためにあるのか。DXはデストピアを作るのではなく人びとの自由に貢献する。欧米ではDXによってもたらされる社会のあり方の議論を幅広く展開している。
 
欧米の教育から学ぶべきことの視点として、人間の生きるための哲学が通奏低音に存在しなければならないということがある。DXにおいても然りである。米国のDXを分析するとリベラルアーツが確かにあると、諸富は指摘する。具体的には精神(マインド)と能力(ケイパビリティ)である。デジタル社会では個人データ、公共データを保管する管理、セキュリティが重要であり、悪用されるとデストピアが起きる。ケイパビリティは、データの社会への還元能力である。データを保有することを私有財産と間違えて、データ売買を行うことが生じる可能性がある。社会のUser Experienceに還元できないデータを保有してはならない。

2024年にECで承認されたAI法は、4つの視点で厳しい規制をする。人種や民族差別、政治的活用に加えて個人評価にAIの活用を禁止する。さらに、厳重管理すべきものとして、重要な公共インフラの交通、電気、水道、ガスなどの管理、入試や採用の人物評価を対象としている。
 
人間をA Iによって評価してはならないという厳しい法律である。
 
資本主義の変容がもたらす格差の拡大の問題を放置できない理由を考える。「ネーションを解体させた帝国主義はブルジョワジーを解放させたことで、ブルジョワジーの活発化によりネーションは実質的権威を失っていく。かっての先進国による植民地の搾取が、そのまま国内の格差となっていく。格差社会は一部の支配層と多くの無関心層と貧困を生み出す。こうした社会をハンナ・アーレントは全体主義と呼ぶ。」
(牧野雅彦「全体主義の起源」「全体主義という悪夢」)
 
アーレントは、全体主義がどうしてドイツで起きたのかを考える。ナチスは民主的手続きで政権をとったにも関わらず。フランス革命は民主主義が多様性を失ったことに気づく。
(ハンナ・アーレント「全体主義の起源」
 
中島隆博の新しい全体主義の定義がある。「新しい全体主義の中心はデジタルである。全体主義的国家が存在しないまま、私と公の境がなくなる。家にいながら公的領域にいる。SNSによって自分で自分を壊していることに気づきかない。」デジタル社会では我々自身が崩壊者となりえる。
(マルクス・ガブリエル、中島隆博「全体主義の克服」)
 
南原繁は、明治維新が近代国家の形成だけに膨張していったことで、「人間の発見」がなかったことも指摘している。明治維新にこの経験(日本的ルネサンス)があれば、戦後の日本は個性ある人間として世界に通用するはずであったと。今日の日本を見通していたかのようである。「大学の自由」をこれだけ主張した南原繁の思いを私たちは、忘れてはならない。
 (南原繁「南原繁著作集<第7巻>文化と国家」)

イヴァン・イリッチは、学校に教育を委ねてしまうと、誰もが上級に進学することを欲し、その結果それが希少なものになるにつれて、その価値を獲得するためのものとなっていくと言う。
(イヴァン・イリッチ「脱学校の社会」)

デューイの本来的な教育の目的は一人ひとりの持っている個性を育てていくことであり、これをDevelopmentと言う。何かの役に立つための価値化ではなくアイデンティを確かめていく学びを取り戻さなくてはならない。
 
明治以前の日本の学びにこそ鍛えられた想像力があった。その原点にあったのが「自然を第一原理として」考えることではなかったのだろうか。徳川時代に生きた知識人が共有していた哲学的立場である。しかし、やがて<評価>を意識した学びは想像力をスタートとした学びを忘れさせていった。
(テツオ・ナジタ「「懐徳堂」18世紀日本の「徳」の諸相」)
 
大阪の懐徳堂を中心に学んだ知識人たち、山片蟠桃、貝原益軒、宮崎安貞、西川如見、五井蘭州、杉田玄白、三浦梅園、二宮尊徳、海保青陵らの想像力が日本の農学、天文学、解剖学、貨幣経済、貧困問題などの重要性を社会に提示した。やがて影響を受けた白石正一郎(高杉晋作の騎兵隊)、岩崎弥太郎(公益商社)、渋沢栄一(銀行)、五代友厚(商工会)などが日本産業を想起していくがその精神がどこかで見えなくなっている。
 
教育を司る文科省は、行政の仕事として基準を作り、対象を評価し、資金配分する。学校の上に文科省があり、命令権を持っていると思い込んで、現場の方向から段々と目が離れていく。その結果は教育を汎用的な様式の中に閉じ込めざるを得なくなる。しかし教育の本質にあるものは自由である。多様な学びをこそ求めるのが教育である。学ぶことの問題が行政によって曖昧化、形骸化してきていないか。デジタル化への傾倒が個人の発見というよりも知識習得の方向に偏重してこないか。授業に加えて読書、旅、交友を通しても自分の学びを鍛えていくというストーリーを描けるだろうか。
 
日本のDXというベクトルを一つに向けた活動は政府の戦略として進められている。日本社会に内在する中心のない思想が見えてくる。日本社会の実相を見つつ、これからの教育が果たすべき役割について考える。
 
 
デジタル社会が人間にもたらすものの不確かさとは?
 
デジタルは人間の脳をシュミレーションしている。デジタルと人間の脳の関係である。そこに生態と社会学的関係に内在する不確かさがある。誰が判断するのかという問題が起きる。人間とは何か、の本質的な問いが生まれる。個人へ与える影響や個々人の向き合い方の問題を考えなければならない。民主主義社会を堅持するためのデジタルのありようとは何か。こうした論点で考える。
 
社会全体がデジタル中心で動くようになった時、人間喪失の問題が生まれる。一つは監視社会化で、芥川賞の九段理江の「東京都同情塔」は、デジタルによる監視社会が人間を無気力にしていくことを暗示した。西垣通は、サイバー・フィジカル・システムを構造問題として捉え、機械情報に人間が使われてしまう危険性を指摘する。宇野重規は、「総検索社会」の落とし穴は、知っているつもりが何も知っていないという学びの衰退化が起きていることを指摘する。デジタルを動かすエネルギーコストも今後の大きな課題である。
 
人間は間違える動物であり矛盾の中に生きている。人間は逸脱し暴走する。秩序と混乱の間を揺れ動く。グレーゾーンの存在しない完全な秩序空間の中に押し込められると長くは生きていられない。フーコーの「監獄の誕生」のような監視社会では絶対的なデータ管理がなされることを前提に自らの行動を抑える。デジタル社会では、データが絶対的な基準となる。学習のデータはやがて学習者に内面化していく。教師だけの評価に依存し続けた時と同じで自己評価という省察が止まってしまうことすらある。自己同一性をAI が方向づける。データの裏側が不可視化されている怖さと疑念が絶えず存在する。ヴァーチャルの世界で、データの緊密精度が上がればそれだけ監視や支配に転化しやすくなる。インターネットの行き渡った社会ではクリエーティブな関係を広げつつも非コミュニュケーションが必要である。
 
「リゾームという無関係性や非意味的な広がりや切断が人間社会には必要なのである。」リゾームを際限なく繰り返すと連続と切断が同化と異化をパラフレイズしていく。いつか突然古典につながっていく。それが学ぶことである。
(ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「千のプラトー」)
 
学ぶためにはことばが必要であるが、ことばには数学(と音楽)のことばがある。ランガージュというが、ランガージュはランガ(日常のことば)よりも重要である。学ぶための座標を提供するためである。時間的座標と空間的座標があり、どの位置に自分がたっているかの理解なしには学びが見えないのである。
(加藤周一「学ぶこと 思うこと」)
デジタルデータが提供するものはどのような座標を持っているかを明らかにしない。
 
シカゴ大学で徹底的なリベラル・アーツの学者として多くの数学や経済の学徒を育てた宇沢弘文の言に、「人は生まれながらにしてInnateな数学の能力をもっている。数学はバビロニアからの代数とギリシャからの、幾何学です。数、空間、時間、そういう自然なものがもっている法則を理解するのが数学です。これは誰にもある共通の能力である。」
数字は人間が自らの位置を確認することばであり、全ての人間に備わっているものである。人間を量る尺度では決してない。
(宇沢弘文「社会的共有資本」)
 
西垣徹は「地球に生きている生命が何よりも大切であるのに、サイバー・フィジカル・システムというのは、物理的な生物の生きているリアルな世界よりもサイバーの世界から演繹してフィジカルを管理していこうとするもので、デジタル社会に潜む危険性がある。最近の日本でのデジタル技術やAIの捉え方は表層的だと感じることがあります。技術の細部への関心が強く、「手っ取り早く便利な技術を活用するにはどうしたらいいか」といったことばかり目が向けられ、本質を捉えていないように思えるのです。デジタル技術やAIを社会インフラとして活用し、社会の発展に役立てるためには、技術的・実用的な側面だけではなく、文化的・思想的な側面の理解や洞察が欠かせません。現在のニューラル・ネットワークによるAIは統計的推論をおこなうということです。でも、AIの本質は半世紀以前からまったく変わっていない。コンピュータの誕生は20世紀半ばですが、AIは当時から中心的位置にありました。コンピュータの目標は「思考する機械」だったのです。デジタル・コンピュータの原理をつくったアラン・チューリングや、それを二進数のプログラム内蔵型マシンとして実現するモデルをつくったジョン・フォン・ノイマンはじめ、当時の数学的天才たちは、最初からAIの実現をめざしていました。人間の正確な思考とは、形式的なルールにもとづく記号操作なのだ、という信念が広まっていた。意味というのは元々、個々の人間、広く言えば生き物が、生きていく中で選びとる「価値」でしょ。だから本来、主観的なものです。」とデジタル社会の読み違いを批判する。
 
「情報とは、生きるための有用性、個々の人間にとっての生命的な価値を持っている。「生命情報」が記号で表現されて、「社会情報」になって、さらにデジタル化して効率よく伝わる「機械情報」になる三層構造を理解しなければ、人間はデジタル社会の中で機械のように扱われてしまう。」と警告する。
(西垣徹「デジタル社会の罠 生成AIは日本をどう変えるか」)
 
生命情報から機械情報へと向かうほど、人間存在から遠ざかるということである。情報の有用性の価値判断が多重なプロセスで行われる。AIはアルゴリズムの設計者によっても影響される。まさに今AIの急速な開発が人間の考え方、生き方にまで影響を与えている現実がある。「人間の教育」の問題を考えないとならない。
 
デジタル環境に囲まれて仕事をする人間行動と心理を分析して起業した矢野和男の研究がある。人間は自由に時間を使えることができると考えているのは間違いである。u分布(ボルツマン分布)によって人は生きていることを発見した。900マス、7万回の分布を調べると、激しい運動と静かな運動はu分布に収束する。自由に計画的に動くのは幻想に過ぎない。限度を超えると集中力がなくなる。デジタルは生産性を高めたが人の幸せを高めていない。仕事ができる人が幸せになるのではなく、幸せな人が、仕事ができるのである。
 
デジタルの導入で職場の効率化をしてきたが、逆に身体活発度が低下して、チームでワイワイガヤガヤがなくなってきたことを発見する。これが生産性を逆に落としていた。現場力で成長してきた日本は「ハピネスが失われた」そのようなデジタルの導入をしてしまった。人間の変化の法則=Generatorを発見することが必要である。しかし、微分は使えない。人間の行動は非連続だから。個人のスキルや性格で決まると考えていた業務の生産性は、その人の周りの人たちの身体的な活動度に強く影響されるということが事実であった。ITとかDXに振り回されていた。人間にしかできないことは課題を立て、結果に責任を持つことで、データが豊富になくても推察できる力がある。
(矢野和男「予測不能の時代: データが明かす新たな生き方、企業、そして幸せ 」)
 
宇野重規は、デジタル空間を重苦しいものとして次のように述べる。「ネット社会は勝ち残りたい人ほど時間のかからない選択をする、「総検索社会」検索するだけ解った気になる。人間の成熟=時間をかけるということ。検索の結果は今の自分の内面を映し出すに過ぎない。「情報検索社会においてはあらゆる情報をいつでもどこでも手に入れられる」そうあなたは考えるでしょうか?この質問に「はい」と答える人は少なくない、いや控えめに言って過半数だと思います。それこそが見落としがちな落とし穴そのものなのです。それは情報の糸口がすべて自分の中に存在していること。私たちが情報検索社会においてネット検索できることは、情報の糸口を掴んでいるものしかありません。いくらインターネットという利便性のかたまりを駆使しようとも、きっかけを与えられたものしか調べることができないのです。」
(宇野重規「民主主義とは何か」)
 
1971年、ARPANET上で世界初の電子メールが送られる。現在のデジタル行為を可能にしたインフラの始まりである。このことが地球の人間活動にどんな可能性、影響をもたらしたのか。10年後のTCP/IPの開発により世界中のコンピュータがネットワークを形成できるようになる。それ以来、インターネットは地球をデジタルテクノロジーが支配することを可能にした。今日、人間社会の行為は何らかの意味でヴァーチャルな世界と結び付けられている。サーバー空間の支配がネーションの間で争われている。人間社会に登場したデジタル資本主義は、あらゆる物質的な制約から自由になり、今後無限に広がっていく可能性もある。
 
「一体これだけのデジタル行為を可能とする資源とエネルギーの創出は未来に続けて可能なのか。地球崩壊を防ぐエコロジー的視点で考えてみる必要がある。2018年での予測では2025年には世界の電力消費の20%がインターネットで接続した機器で占められる可能性がある。GAFAMらのグローバルデジタル企業がネーションと競争する現実がそこにある。もう一方で、「パイオニア」の共同体やネットワークは節度を保ち、環境を尊重し、責任を取る、別のデジタル社会を考える人々もいる。」
(ギョーム・ピトロン「なぜデジタル社会は「持続不可能」なのか」)
 
「真に持続可能なデジタルのために。ここにデジタルのパラドックスがある。2018年に環境の危機を訴えた「金曜日のストライキ」のグレタ・トゥーンベリーらのデジタルネーチャー世代が、SNSを始めとして最大のデジタル消費者であるという問題である。この世代は1日9時間をネットコミュニケーションに費やす。」(同上)
 
今日のデジタルテクノロジーは地球問題にほとんど貢献できていない。それどころか、デジタル社会を維持するための「デジタル汚染」が深刻な問題になっている。世界各所で建設されているスマートシティ、ハイパーデーターセンター、クラウド、ハイパーインターネット網、スマートフォン等のIT端末(素材としての半導体)による地球資源・エネルギー消費の膨大化や最近のテスラの衛星通信網による宇宙空間の汚染の拡大など、デジタル汚染は止まらない。
 
戦後、政治も経済も米国社会に追随してきた日本であるが、世界を席巻している米国のデジタル社会を模範として、これまで同様に遅れてきた青年(今や老年)としての生き方を続けるのか問われている。国の施策として新たに起こされたDXという活動が社会や教育でどのように進められているか、どう受け止められているかを見つつデジタル社会が人間にもたらすものとは何かを考えることを深く考えなければならない。

本章ではICEに直接言及してないが、ICEは単なる学びのフレームワークではなく、批判的な思考を深めるための哲学的構造を持っていると筆者は考えている。10章ではデジタル教育(生成AI)にICEがもたらすものは?を考察する。

 


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