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わたしたちの結婚#29/私の形と温泉の魔法


旅館に戻ると、ご飯の時間まで余裕があったので、大浴場に行くことにした。

私は温泉がとても好きだ。

洗い場で、普段ないがしろにしがちな自分の身体をいつもより丁寧に洗う時間も好きだし、馬油やポーラといった、温泉でしか出会わないシャンプーで髪を洗うのも好きだ。

なにより、温泉独特の柔らかいお湯を全身で感じる瞬間や、広いお風呂に手足をうんと伸ばす心地よさがたまらない。

温泉からの眺めが良かったなら、それはもう天にも昇るようなご褒美である。

この日まで頑張ってきて良かった、なんて、大袈裟に自分を労いたくなる。


幸運なことに、大浴場は空いていて、私は遠慮なくお湯の中で足を伸ばした。

透き通ったお湯を通して、自分の脚を見る。
父親譲りの色白の脚だ。

目線をお腹、胸、腕、手のひら、と順に移していく。
日頃意識しないけれど、私の「形」はこんな形容なのかとまじまじ眺めた。

これまでずっと一緒に生きてきた形だ。
ずっと一緒に、闘ってきてくれた形。

いつも私を一番外側で支えてくれている、私の容れ物。

夫は私の形を変だと思わないだろうか。
がっかりさせてしまわないだろうか。

そんなことが自然と頭をよぎる。
すぐに、そんなことを考えたことが恥ずかしくなって、パシャパシャと音を立てて顔にお湯をかけた。

かぶりを振って、大きな窓から外を見た。
外はもうほとんど陽が落ちていて、景色はよく見えなかった。

代わりに、窓が鏡のように私の顔を映していた。

そこには、少女のような顔をした私がいた。


いつも職場のトイレの鏡に映る、戦闘モード全開の強張った表情の女の姿はなく、ゆで卵みたいにつるりとしていて、ほてった顔の表情は、とても優しく、リラックスしていた。

私はこんな顔だったのか。
不思議な感想だけれど、そんなことを思った。


私は私に微笑みかけてみた。
窓に映る私は、上手に笑ってみせた。

大丈夫。

心がそう呟いた。
その呟きは、胸の真ん中あたりに留まり、ゆっくりと身体中を満たしていった。


温泉を出る前に、薄く化粧をした。
夕飯は会場で食べる予定だったので、すっぴんというわけにもいかない。

いつもはしっかり形を取る眉毛だけれど、パウダーを乗せる程度にして、いつも何層にも重ね塗りしているアイシャドウも控えめにした。ほかほかの顔に、チークは要らなかった。

いつも、なにかを隠すように塗りたくる化粧をしていたけれど、この時はそんな気分じゃなかった。

私でいい。
このままでいい。
温泉がかけてくれた魔法に、まんまと乗せられていた。

自然とお腹が空いてくる。
夕食はなんだろう。

もう夫は部屋に戻っているだろうか。
「おかえり」と言ってほしいから、先に戻っていて欲しいな、なんて甘えた本音が浮かぶ。


部屋を軽くノックして、ルームキーをかざす。
夫のスリッパがそこにあった。
それだけで心が弾む。

部屋に入ると、夫がバルコニーから顔を覗かせた。

「おかえり、ゆっくりできたかい」
いつもの優しい声が迎えてくれる。

「ただいま。とってもいいお湯だった」
とびきり甘えた声で応えた。


私の一番欲しい「おかえり」がそこにあることが嬉しかった。



ロン204.

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